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「すみません!ありがとうございます」
やっと顔が見えたその声の主は、『あのひと』だった。
私がこの道を通るきっかけになった、あのひと。
いつも、ユニホームを泥だらけにして、とびきりの笑顔を見せている、あのひと。
そして、私が、恋をした、あのひと。
彼の視界に入ることはないと、それでいいと思っていたのに。
目の前に、彼がいる。
そして私に笑いかけている。
「い、いえ……」
私は彼にボールを手渡した。
指先が震えていることを悟られないかとハラハラしながら。
「ありがとうございま…す……あれ?」
ふと気付くと、彼が私の顔をのぞきこんでいた。
「よく、練習見に来てますよね?」
「えっ…!」
私は思いきり動揺した。
どうして知っているのだろう。
「俺、視力2.0なんです。見に来てる人の顔とか、けっこう覚えちゃうんですよ」
彼はそう言って笑う。
気持ちがばれているのではと焦ったけれど、そんなわけではなかったらしい。
ほっとしたような、残念なような、複雑な気持ちになった。
だけど、まさか自分が彼の目に映っていたなんて、思いもしなかったから、私は、頭がうまく働かない。
彼は、そんなことには全く気付かず、笑顔のまま私に問い掛ける。
「野球、好きなんですか?」
そのことばに、私は思わず彼から目をそらした。
「いえ、あの…私、野球のことは全然知らなくて…」
彼は軽く首を傾げる。
「…?あ、もしかしてチームの奴の友達、とか」
「そうじゃないんです。あの…」
あなたを見ていたんです、とはとても言えない。
だけど、少しでも思っていることを伝えたくて、私は少しだけ嘘をついた。
「たまたまここを通りかかったとき、……皆さんが、すごく楽しそうに笑って野球をしてて。私、野球なんて全然わからないのに、目が離せなくて。…だから、いつも、つい足を止めて見てしまうんです」
本当は、あなたの特別な笑顔を少しでも見ていたくて、少しでも特別な世界の近くにいたくて、ここへ来ているんです。
――そのことばは胸に沈める。
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