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なぜあんなことを言ったのか、さっぱりわからない。
確かにミリアムは美しい女になるだろう。あの女など目ではないくらいに。
だからと言って、何だというのか。
俺には今、決まった恋人がいるわけでもない。商売女を抱いたからといって、罪悪感を覚える立場でも何でもない。
事実、ほんの少し前までは、あの女と上の階に行くつもりだったのだ。
なのに突然そんな気が失せて――気付けばあんな言葉が口をついていた。
「――面倒な」
とにかく、面倒だった。今のこの、よくわからない感情が、面倒だった。
静かな場所で飲み直したいと思っていたのに、足は自然と屋敷へ向いていた。
「……ああ、雨が降ってきたせいか」
ぽつぽつと、頬や鼻筋に雨粒が当たる。
きっと、どこかで雨の気配を感じて、無意識に家路を急いだのだろう。
小さく舌打ちをしてから、俺は駆け出した。
風邪なんてひいたら、ミリアムが騒ぎ立てるに違いない。さっさと帰って風呂に入ろう。
たどり着いた屋敷の明かりは、もちろん全て消えていた。
極力音をたてないよう、静かに玄関のドアを開ける。
――と。
「わあっ、アルバートさん!」
すぐ目の前に立っていたミリアムに、危うくぶつかりそうになった。
「どうした、何でこんな時間に起きて、」
ドアを閉めながらそう言いかけて、気付く。
彼女は傘を二本、抱えていた。
「雨の音がしたから……アルバートさん、ぬれちゃうと思って……」
「俺がどこにいるか、わからなかっただろう?」
「……さがします、……と思ってました」
「夜一人で出歩くのは絶対に駄目だと言ったじゃないか」
「だけど、」
ミリアムは、傘をぎゅっと握りしめ、こちらをまっすぐに見上げた。
「アルバートさんがわたしに傘をさしてくれたあのときから、わたしはアルバートさんのことがだいすきになりました。だから、アルバートさんがひとりで雨にぬれてるなら、わたしが傘をさしてあげたかったんです。……ごめんなさい」
最後は力無く俯いてしまう。
「……」
ミリアムの『だいすき』は、何度聞いたことだろう。――そのたびに、重い鉛が身体に沈んでいくようだった。
その重みが一気に押し寄せるような錯覚に、俺は思わず、その場に座り込んだ。
「アルバートさんっ!?」
ミリアムが慌ててこちらをのぞきこむ。
そんな彼女を見上げ、いつの間に、こんなに背が伸びていたのだろうと思った。
だけどそれでも、まだ、子供だ。
「……」
俺は、ミリアムの肩を掴んで引き寄せ、腕の中に小さな身体を包み込んだ。
「アルバート、さん?」
不思議そうに、ミリアムが俺を呼ぶ。
「悪い。少し、飲み過ぎたんだ」
俺は、何の理由もなく、嘘をついた。
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