おまけ
■青空と白馬
妻は、私を残して空の向こうへと旅立っていった。もう何年も前に。
彼女を写した写真は、たった一枚。
二人でたびたび訪れていた遊園地。彼女が大好きだったメリーゴーランド。
中でも特別気に入っていた白い馬に跨がって、嬉しそうな笑顔をこちらに向ける妻。
彼女は身体が弱かった。
そのせいかやたらと『天国』という場所のことを口にして、私はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。
天国は空の向こうにあると、彼女は信じていた。
そしてそこには一切の苦しみはないと。
私は、妻がお気に入りのメリーゴーランドに揺られている姿を眺めることが好きだったが、時折ひどく不安な気分になった。
美しい白馬が、彼女を乗せて空の向こうへ駆けて行くような、錯覚に。
この木馬には羽根など生えてはいないし、それどころか鉄の棒に身体を貫かれているというのに。
彼女がメリーゴーランドに乗るたびに、彼女が天国に近づいていくような、そんな馬鹿げた妄想にとりつかれ、いつしか遊園地が怖くなった。
その頃、ちょうど妻は娘を身篭っていたから、そんな胸の内を当人に気付かれることもなく、私たちの足は遊園地から遠ざかった。
最後に行ったのはいつだろう。思い出せない。
妻に似て身体が弱い娘にも、遊園地に行くことを許さなかった。
母親の顔を覚えていない娘が、本に挟んだ妻の写真をひそかに眺めていることは知っていた。
そのせいで遊園地に行きたがっていることも。
白馬が妻を『連れて行った』。
そんなはずはないのに、いつしかそのイメージが、瞼の裏に鮮明に描けるようになっていたから、私は娘をメリーゴーランドに乗せたくなかったのだ。
我ながら滑稽な話だと思う。
しかし、それが滑稽なことだと、遊園地が取り壊されるその日まで、私は気付かなかった。
今まさに瓦礫と化していくメリーゴーランドを見つめる、娘の後ろ姿。
何故か、そこにいなかった、白い木馬。
それを目にした瞬間に、私は、安堵した。
白馬は娘を連れて行かなかった。
白馬はきっと、妻のそばに行った。
そう確信して、不意に我に返って、長い夢から醒めたような心地で、娘の背中に声を掛けた。
全ては私の頭の中で繰り広げられていた、出来の悪い空想だった。
妻は遊園地が好きだった。
メリーゴーランドが好きだった。あの白馬が大好きだった。
それだけなのだ。
それ以上は、必要ない。
そう気付くと、振り返った娘の表情までもが昨日までと違って見えて――私は不思議と、嬉しくなった。
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