Noir
森の奥にある、クロフォード家の屋敷には、三匹の猫がいる。
そのうちの一匹は、猫ではない。
そのことを知っているのは、屋敷の主人であるユアン・クロフォードと数少ない使用人――そして、私だけだ。
いや、正解には、ひとりだけ、『ほんとうのこと』を知らない者がいる。
「ノワール」
ご主人様が、私を呼ぶ。
「おいで」
私は、その声に委ねられるように、ご主人様の膝に頬を擦り寄せる。
長くのばした黒い髪が、ご主人様の腰掛けたソファに広がる。
その髪を掻き分けられて、あらわになった首筋には、赤いリボン。
それを、ご主人様が指先でなぞると、私の背筋に甘い疼きが走る。
「きみは私の、特別な猫だよ」
深い碧色の瞳が、愛おしげに細められて――私は喉を鳴らした。
****
『ノワール』
私にこの名を与えたのは、ご主人様だ。
この国の言葉ではない。だけど、私はその意味を知っている。
私の、この髪の色。
ありきたりな始まりだった。
亡き愛人の産んだ娘を、父もその正妻も疎んでいた。
だから、追い出された。
この身を売らなければ生きてはいけないだろう。
わかってはいたけれど、仲買人の男を前に、足が震えた。
『まるで黒猫のようだな』と、その男は私を値踏みするように眺め、言った。
黒い髪を長くのばし、黒いワンピースを身に付け、瞳は光の加減で金色に輝く。
ちらり、と鏡を見た私は、その通りかもしれないと思った。
そして、咄嗟に口走った。
『そうなの、私は猫なの。だからきっと、人間の女のように、買ってくださる方を満足させられないと思うわ』
そんなことを言って何がしたかったのだろう。
売られなければ、生きてはいけないのに。
けれど、ただその時は、ひたすらに怖かったのだ。
誰かにこの身体を、所有されてしまうということが。
すると、男は声を上げて笑った。
しばらくその笑い声が部屋に響いた。
そして、
『成る程。なかなか面白いことを言う。――そうだな、そんなあんたにぴったりの場所があるよ。余興程度にはなるだろう』
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