高遠のシャツを両手で握りながら弾んだ声を上げるマリーに、彼は長いため息をついた。
「……君がこの依頼を持ち掛けたのが俺でよかったよ」
「どういう意味?」
「初心者の君には俺くらいが適任だ、という意味かな」
マリーは、その言葉を深く追及することはなかった。
にこにこと屈託なく笑う。
「そう?じゃあ新しい契約が成立したわね!」
「契約ね……俺のメリットは一体何なんだろうな」
「『役得』なんでしょう?」
「逆に拷問という気もしてきたけどな」
「拷問!?ひどいわ!」
少女の的外れな憤慨を、高遠は軽く流した。
「ところでマリー、君の父上を騙すタイミングだが、支那の港に着く少し前、ちょうど日本の陸地が船から見える辺りがいいんじゃないかと思うんだが、どうだ?」
「そんなところがあるのっ?」
『日本の陸地が見える』と聞いてマリーは目を見開いた。
「支那に停泊するついでに、日本の港からも少しだけこの船が見えるように航行するんだ。日本人にとってこんな立派な客船は珍しいからな、一目見ようと港に人が集まるだろう。ちょっとしたイベントだ」
「私にとっては日本人そのものが憧れなのに、日本人はこんなどこにでもある客船を珍しがるのね」
「まあ、英国にはもっと立派な船がたくさんあるが。日本人からすれば欧米のものは何でも憧れだよ。君たちの国に追いつこうと必死だからな」
「そんなことしなくたって、素敵な文化がたくさんあるのに」
「まあ、隣の芝生は青く見えるってやつだ。強さが欲しい、というのはよくわかるし――ああ、悪い、話が逸れたな」
そこで高遠は、悪戯っぽく笑った。
「その付近で、甲板に出て『ここから飛び降りて日本に駆け落ちする』とでも言えば舞台効果は抜群じゃないか?」
「ええっ!?飛び降りたら溺れちゃうじゃない!」
「救命ボートを降ろしておくんだ。そもそも『振り』なんだからそういう『設定』だろう。忘れてないか?」
「そっか。あっ、でも甲板でそんな大芝居をしたら周りのお客たちに見られちゃうわ」
「その場で狂言だとばらすんだから問題はないだろう?お騒がせ父娘、くらいは言われるかもしれないが――せっかくならこれくらいした方が楽しくはないか?」
マリーは、少し黙ってから、小さく呟いた。
「……楽しそう」
「だろう?より真に迫っているしな」
「父様、きっとびっくりするわね」
満足げに微笑む少女に、高遠は興味深げな視線を向けた。
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