▼
雨で真っ暗な夕方だった。
講義を終えた俺がアパートに戻ると、駐車場に宮下が立っていた。
宮下はいつも車で清香とアパートへやって来るのだ。
「雅史くん」
俺に気付いた宮下が、こちらに近づいてくる。
何のつもりだ。まさか盗み聞きがばれたのか、とヒヤリとする。
俺を待っていた様子だったからだ。
「明日きよちゃんはここを出ていくよ」
宮下の言葉は、思いがけないものだった。
「僕のマンションで一緒に暮らすことにしたんだ」
「……なんでそれを俺に」
「ご両親に反対されているらしくてね。直接ご挨拶に伺ってご理解いただこうと思っていたんだけど、きよちゃんがすでにアパートを解約していたんだ。もちろん後日改めて伺うつもりだけど」
「……清香のおばちゃんを説得しろと?」
物腰はやわらかいが、腹黒そうにしか見えない。
宮下への不信感は更に増した。
「そういうわけじゃないんだけどね。きよちゃん、君に引越しのことを話していないみたいだし、いきなりいなくなったら驚くだろうと思って」
「……まあ、そうなってたらおばちゃんたちには『あんな男とは別れさせた方がいい』って言ってたでしょうね」
「それは正直、困るからね。僕はきよちゃんとの結婚を考えているし」
「……随分と気の早いことで」
動揺を悟られないよう、吐き捨てるように呟く。
だが、微笑みを絶やさない宮下が発した次の言葉に、俺は耳を疑った。
「きよちゃんは今、部屋にいるよ。僕は今から帰って今夜はここに戻らないから、部屋に行ってきよちゃんを好きなようにしたらいい」
頭に血が昇った。
初めて、他人に本気で殴りかかった。
宮下は、傘を持っていない方の手で、事も無げに拳を払う。
「っ、ふざけるな!自分が何言ってるかわかってんのか!?」
肩で息をしながら、叫ぶ。
他人に怒鳴ったのも、初めてだった。
「最低だ、あんた」
宮下は表情を変えなかった。
「お前なんかに清香はやれない」
決意を込めて、静かに宣言する。
「清香をモノみたいに扱うような……そんな奴には、」
言いかけた言葉は、遮られた。
「部外者に僕たちのことを語ってほしくないね」
顔を上げると、嫌悪感を露にした宮下に見下ろされていた。
その眼差しの冷悧さに――怯む。
「僕たちには僕たちの関係があるんだよ。それは僕たちにしかわからない」
「……そんなの、」
「君にどんな風に映っていても、僕たちは必要とし合っているし愛し合っている。愛し合う、なんて言葉は陳腐だけどね」
清香が騙されている、と、もう思えなかった。
短い言葉に、真実を感じ取ってしまった。
それは、敗北を認めることに他ならなかった。
――いや、『敗北』などと表現している時点で、次元が違っていたのだ。
「モノみたいに扱う、なんてとんでもない話だね。君には推し量ることができなくても、これが僕たちの関係だよ」
『幼なじみ』『初恋の相手』――型にはまった関係性。その呼び名に安心しきっていた自分を、嘲笑われた気がした。
そして、その想像を裏付けるように、宮下は口の端を微かに上げて、言った。
「それにどうせ、そんな綺麗事を言いながら、君は清香を抱くだろう?」
返答が、僅かに遅れた。
「……そんなことっ、」
「弁解はいい」
「…………」
「心配しなくていいよ」
宮下は、初めの微笑みを取り戻し、毎晩清香を酔わせていたその声色で、囁いた。
「清香もそれを望んでいる」
「なんで、……」
立ち尽くす俺を一瞥すると、宮下は踵を返した。
「それでも、清香と僕は間違いなく愛し合っているし、これからもそれは変わらないよ」
バン、と車のドアが閉まる音。
宮下の言うことは、――清香の心も、なにひとつわからなかった。
理解することができなかった。
混乱していた。
それでも結局、俺は202号室の前に立っていた。
prev / next
(5/8)