▼
「描けなくなることを、心配していたんだ」
「うん、知っていたよ」
「だが、もっとたちが悪かった」
「海老原は、そう言うと思っていたよ」
深水は、同じ言葉を繰り返した。
「もうずっと前から――きっとこれからも、千種しか描けないけれどね」
それでも、それだけならまだ、よかった。
「俺はもう、お前に価値を見いだせない」
「海老原は、そう言うと思っていたよ」
お前は何故、こんなくだらないものを身体に取り込んでしまったのか。
恋などという、ありふれたものを。
そして何故、こんなくだらない毒に侵された絵が、こんなにも美しいのだ。
多くの人間はこう言うだろう。
『それは、恋という感情が美しいからだ』と。
だが、恋などという感情は、凡庸な大衆のものではないのか。
巷にはラブソングが、恋愛ドラマが小説が、溢れている。
そんなものに、深水は成り下がったのだ。
それなのに、何故――――
わけがわからない。
だが、『わけ』など知りたくない。
「今までありがとう」
「それはこちらの台詞だ。千種の迎えを済ませたら、引き払う」
深水は穏やかな表情を崩さなかったが、悲しんでいることはわかっていた。
だが止めても無駄だと――俺が深水に感じているのと同じに、諦めているのだ。
千種が自殺を図った時に、全ては決まってしまったのだから。
これから、深水は千種に触れるのだろう。そして、描き続けるのだろう。
それは両立し得ないことだった。
だが、千種がその堤防を壊した。せき止められていたあらゆるものを、壊したのだ。
もう後戻りはできないと、深水は知っている。
そして『その先』へ、俺を連れて行けないことも、とっくに知っていた。
そんな風に、俺は、深水のことを全て理解している。
だから。
知らない深水がいることに我慢ができず、明日、逃げるのだ。
「もしもし、社長。山内さん、今担当持ってませんでしたよね。――深水の担当を引き継げますか。――はい。――明日から。――ありがとうございます、よろしくお願いします」
父親は、理由も訊かなかった。
めちゃくちゃな会社だ。だが、それが通る会社だったからこそ、今まで自由にやってこれたのだ。
私物は多くない。
さっそく俺は、荷づくりを始めた。
深水は、夜通しアトリエに籠ったままだった。
****
prev / next
(12/13)