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千種が手首を切ったのは、三日後のことだった。
「おい……ガキ」
発見したのは、俺だった。
浴室の掃除をするつもりだったというのに。
舌打ちをしてから、救急車を呼びに走った。
すれ違った家庭教師に、応急処置を言いつける。家庭教師が真っ青な顔で立ちすくむので「急げ」と叱った。
まだ息があることはわかっていた。
そう、まさか死なせるわけにはいかないだろう。
「厄介なことしかしない、女だ」
救急車を見送りながら、深水にどう伝えたものかと頭を痛めた。
「病院に行く」
「手術中だ。野次馬も五月蝿い。付き添いの家庭教師から電話が来るから待て」
このやり取りは何度目だろうか。千種が手首を切った、とだけ簡潔に伝えたところ、深水もただ、それだけを繰り返した。
『何故』とは、訊かないのだ。
それに気付いたとき、頭の芯がすっと冷えていくのを感じた。
深水をどうにか制止し続け、数時間が経った。
深水は憔悴した様子で、ソファで膝を抱えている。
――と、待ちかねていた電話のベルが、広い部屋に響いた。
腰を浮かせた深水より早く、俺が受話器を取り上げた。
『千種さんは、ご無事です。手術は成功しました。今は麻酔が効いて眠っていらっしゃいます』
家庭教師の抑えた声。
「そうか、担当の医師と話したいんだが」
俺がそう言うと見越していたのか、すぐに医師が出た。
三日は入院してほしい、とのことだったが無理を言い、翌日の退院を了承させる。
ひとまず、深水は納得した。
本当は家庭教師と共に今日中に帰宅させてもよかったのだが、千種がいないうちに深水と話をしておきたかった。
――先程から、この数年感じていた苛立ちは消え失せていた。
不安や、怒りも。
代わりに、俺を支配していたのは。
「深水、」
呼び掛けると、それだけで、深水は全てを察したのだろう。
寂しげに微笑んだ。
「お前との契約は、今日限りにさせてもらう」
「海老原はそう言うと思っていたよ」
千種の心情は、容易に想像できた。
彼女は、自らが『女』になってしまえば深水に捨てられると理解していた。
深水が求めているのは、千種という形をとった『少女』。『少女』でなくなれば、自分は不要になる。
時間は巻き戻せない。
時が来れば捨てられることを、理解していた。
しかし、なんのことはない。
彼女は理解していてなお、捨てられたくなかったのだ。
陳腐な言い方をすれば、深水は『芸術』を愛している。少女のままでいれば彼女は、『芸術作品のもと』として、愛される。
だから、千種はいつもいつも『東先生のため』に、けなげに生きてきた。
そして『少女』のふりをした。
ただひたすら、捨てられたくなくて。
自己犠牲などではない。
彼女は、己の欲望に、誰よりも忠実だった。
欲深さを、藍色の着物で美しく包み隠し――それでもなお、微かに滲み出る本性が、ずっと不快だった。
だが、それだけならまだ、許容できたのだ。
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