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「千種さんがお部屋にいないんです……!」
数分前に俺の部屋を出ていった家庭教師の女が、蒼白な顔で舞い戻ってきた。
「まさか私たちのことが……」
俺たちの関係を怪しんで千種がここを覗いた、というようなことを言いたいらしい。
あり得ない。千種は俺が何処の誰を抱こうと興味はないはずだ。
――あの少女の興味の矛先は、いつもひとつしかない。
「とりあえず今日はもう帰っていい。君が心配することは何もないから明日からもいつも通り来るように」
「は、はい……」
家庭教師を帰らせ、俺は階下に向かう。個人の部屋は二階にあるが、それぞれの部屋は遠く、廊下にはなんの物音も響いてこなかった。
固定電話が置かれた部屋に行き、馴染みの番号を呼び出した。
「親父、頼みがある。今から深水に代わるから、てきとうに用事をでっち上げて30分くらい話しておいてくれ」
『こっちの携帯に掛けてきたってことは仕事絡みじゃないのか。よくわからんが面白そうだからいいぞ』
事情も聞かず了承してくれた父親に礼を言い、保留ボタンを押した。
そして再び、二階へ戻る。
「深水、社長がお前に用があるらしい。下の電話だ」
ノックをしてから、深水に告げる。
「……今行くよ」
ぼんやりとした返事。女が去り、深水は一人まどろんでいたようだ。
しばらくして、しわくちゃの服を乱雑に着込んだ深水が出てきた。
「社長、なんの用事?」
「さあな、お前に代われとさ」
しれっと答えると、深水は疑うこともなく階段を下りていった。
「めんどくさいなあ」
「悪いな、うちの親父が」
深水の気配が薄れていく。
「…………」
完全にそれが消えてしまってから、俺は深水の私室に侵入した。
静かにドアを閉める。
「千種、いるんだろうが。さっさと出てこい。覗き魔」
確信を持って、どこにともなく呼びかけた。
すると、大きなクローゼットの中から、コトリと小さな音がした。
「そこか。…………お前は馬鹿か?」
クローゼットを開くと、膝を抱えて小さくなった少女が、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「だって……女のひとが……来たからっ、東先生といっしょにいたから……っ、しのびこんで……だって、私……っ、」
千種は、いつもの無愛想な少女とは別人のように、眉をハの字にして泣きじゃくっている。
「東先生がっ……女のひとの服、ぬがして……だから私、にげようと思ったけど……いやなのに、ずっと……女のひとが帰るまで……私……」
一部始終を見ていたらしい。
家庭教師の言葉から真っ先に思い付いた予想が、的中していたわけだった。
千種の興味は深水にだけ向いている。
その深水のもとに女、だ。
この娘なら、深水に『誰?』と問うことはできず、かといって知らぬふりもできず――こうなるのだろう。
呆れて溜め息が漏れる。
「あずま、せんせ……」
しかし、しゃくり上げる千種を見下ろしていると、黒ずんだ感情が浮かび上がってきた。
「で?どう思った」
「え……?」
「女とやってるアズマセンセイを見て、どうだった?」
「どう、って……」
「気持ち悪かったか」
「そんなっ、ことない……っ」
「だったら気持ちが良かったか」
「どういう意味、」
「自分がされることを想像したか、という意味だよ」
「……っ!」
傷つきながら欲情する惨めな千種、という妄想に、胸がすく思いがした。
かわいそうに、と思いながら、悦に入った。
なんなら、この状況に興奮すらおぼえた。
「っ、海老原さんなんか、死んじゃえばいいっ!」
叫んだ千種は、部屋を飛び出した。
涙は止まっていないだろうに。自室で泣きわめくのだろうか。
「……死ね、は良くないな」
口元が緩むのを、自覚していた。
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