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遠嶋 千種が屋敷に居着いて数ヵ月後。
「海老原さん、私に料理を教えてほしいです」
事務的な用件以外で初めて、彼女に話し掛けられた。
「人にものを頼む顔じゃないだろう」
嫌々、ということが伝わってくる表情である。
「本当は頼みたくないもの、海老原さんになんて。だけどここで料理を作っているのは海老原さんだけだし、東先生は海老原さんの料理が好きだもの」
これまでのモデルの少女たちとは違い、今回は世話係をつけていない。
ひと月ごとに入れ替える家庭教師だけをつけている。長く居着いて余計な口出しをされたり、互いに情が移って面倒なことになったりするリスクを回避するためだ。
その結果、遠嶋の衣食住もまとめて俺が世話をしているのだが、当然彼女はそれが不満らしい。
先週から、自分の部屋の掃除と、洗濯は自分でやると言い出した。(深水を介して)
だが今回は少し理由が違うようだ。
もちろん俺に借りを作りたくない気持ちはあるだろうが、それ以上に『東先生を喜ばせたい』と、その目が言っていた。
「まあ、料理が出来るに越したことはないか。出来ることは多い方が需要も増える」
ここを出ていった後のことを考えて、呟く。次の場所への受け渡しがスムーズになるかもしれない。
「だったらお願いします」
「週に一回だ。毎日台所をウロチョロされるのは鬱陶しい」
「いいわ」
「ついでだ、今日は教えてやる。基本以前のところから」
「よろしくお願いします」
棒読み感は、いまだに抜けない。
子供用のエプロンがないため、俺のエプロンを貸した。間抜けな格好になった少女は、踏み台に乗って慎重に野菜を刻んでいる。
「東先生の好物、よく知ってるんですね」
「知らない。食わせていたら気に入られたものばかりだ」
「……きもちわるい」
「何がだ。手を切るぞ、余所見するな」
俺の目を見て吐き捨てた少女に、注意を促す。
「東先生は自分のもの、みたいな言いかた。自分が東先生をてなずけた、みたいな言い方」
「てなずけるなんて言葉、よく知ってたな。今月の家庭教師は優秀らしい」
「教わったのは先月のひとよ。そんなことはどうでもいいけれど、海老原さん、男が好きなの?」
ついには包丁を握る手を止め、少女は顔をしかめた。
「馬鹿らしい」
「だって海老原さん、東先生の奥さんみたいだもの」
「くだらないな。そういう安っぽい名前をつけないでくれないか、俺と深水の関係に」
『芸術』を介して、互いに支配しあっている――そんな実感があった。
だが、少女にはわからないらしい。
「そういうところがきもちわるいのよ」
小声で言うと、彼女は再び野菜を刻みはじめた。
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それから数ヵ月で、遠嶋 千種は一人で完璧な料理を作れるまでに成長した。
12歳には見えない、幼い容貌。
12歳とは思えない、能力の高さ。家庭教師たちにも『高校生レベルの学力です』と言われている。
アンバランスな子供だ、と思った。
そして、深水への想いも、12歳らしくなかった。
「東先生の好きなもの、たくさん作りました」
「ありがとう。でもたまには千種の好物を作ったらいいのに」
「私には、東先生が喜んでくれることがいちばんだから、いいの」
口を開けば『東先生』。
いや、『東先生が喜んでくれるなら』。
アトリエの冷たい床に一日中仰向けにされる日がひと月続いても、『東先生の絵のためなら』『東先生が喜んでくれるなら』――幸せそうに身体を冷やしていた。
週一回の散歩も、自分からはついていこうとしない。たまに誘われれば喜んで行くが。――深水を待つ間、明らかに不安げだというのに。
『連れていけと言えば深水は断らないぞ』
『東先生が私を必要としていないときは、ついていかない』
子供のくせに深水に惚れているのは、明白だ。
だが『子供の惚れ方』ではない。
健気――と言えば聞こえはいいが、捧げるばかりの愛情は、どこか不気味だった。
これも、彼女のアンバランスさゆえだろうか。
遠嶋 千種を描いた深水の絵はすでに一枚完成し、現在は次の作品を制作中である。
相変わらず、戸惑うくらいに素晴らしい絵だった。あの不快な少女だとわかっていても、心が乱れた。
――だが正直、これまでとの突出した違いは、見つけられなかった。
これは、何を意味しているのだろう。
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