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と、セーラがいつもの寝台から立ち上がり、こちらに歩み寄った。
【もうひとつ、きいてもいいですか】
「何だ」
たまにはくだらない会話に付き合ってやってもいい。そう思った。
彼女から話し掛けてくることなどめったにないし、何がきっかけで声が出るようになるかもわからない。
セーラは、流れるようにペンを動かし、問い掛けを記したノートをこちらに見せた。
【なぜ、私の声が欲しいのですか?】
国中のありとあらゆる人間を魅了した歌姫だ。欲しがる者はごまんといる。俺だけではない。
奪われるのを恐れて極秘で買い上げたくらいだ。
だが、彼女の疑問はそういうことではないのだろう。
俺は、天井のシャンデリアを見つめ、『あの瞬間』のことを、静かに思い返した。
「初めてお前の声を聴いたとき、絶望、とはこういうものなのかもしれない、と感じたからだ」
何の含みも裏もなく、ただ、記憶をそのまま、言葉にした。
【絶望?】
セーラは、意味を噛み締めるように、しかし不可解だと訝しむように、ゆっくりと、それを文字にした。
そんな彼女を、俺は見つめる。
「俺は絶望なんてしたことがないからよくわからない。ましてお前の声は『天使の歌声』とやらで、絶望とは程遠いはずだ。――だが、俺は確かにあの時、そう思った」
確かに『天使の歌声』だった。
そうとしか表現できなかった。
だが。
「何故かは知らない。だからもう一度、聴きたいと願った。永遠に聴いていたいと渇望した」
掛値なしの本音だった。
利害などそこにはなく、ただ、俺自身の欲望のままに、彼女を買ったのだ。
【貴方は絶望したいの?】
そう尋ねた彼女は、酷く歪んだ顔をしていた。
「…………」
まるで、痛みを感じているような。
ああ、この女でも、『痛み』は痛いのか。
――不意に、それを確かめたくなった。
腕をのばし、彼女の細い手首を強く掴んだ。
そして、骨が軋むほどに、握る。
「……っ」
声を出さずに、彼女は息を乱した。
その吐息だけで――この身体は、ぞくりと震えた。
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