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『すべてを手に入れた帝国』
かつてそう呼ばれていた国がある。
国土の中心を貫くように流れる雄大な大河の恩恵を受け、肥沃な大地が育った。
豊富な食糧、温暖な気候、――そして、正しく民を導く絶対的な統治者。
歴代皇帝の中でも、ひときわ民の信頼と崇拝を集めた男がいた。
花の咲き乱れる美しい宮廷に暮らし、『全てを手に入れた帝国』を『手に入れた』皇帝。
その傍らには、宮廷の花々すら霞むほどに美しい妃が、つねに寄り添っていた。
「ジェール様」
彼女だけが、帝国の頂点に立つ男を、名前で呼んだ。
氷のような、と称えられる皇帝の顔に、微かに笑みが浮かぶ。
何をするにも冷静沈着なこの男は、臣下たちの前でも民の前に立つときも、その表情を変えない。
つまり、彼女は皇帝の名を呼ぶ唯一の人物であると同時に、彼を笑わせることのできるただ一人の妻であった。
「カティーナ、お前さえ傍にいれば、私は何でもできることだろう」
香を焚きしめた寝台で抱き合いながら、皇帝は毎晩のように囁いた。
「貴方はわたくしなどいなくたって、何でもできます」
「そうかもしれない。それでもお前がいるから、私は何でもできるのだ」
「ふふ、おかしなことをおっしゃるのね」
所詮は睦言に過ぎないやりとりであったが、皇帝は本気で、そう感じていたのであった。
皇太子となった十五の頃に、十になったばかりの彼女が嫁いできて、十年。
世継ぎはなかなか生まれないが、それでも妃が皇帝に与えたものは少なくなかった。
そのひとつが、皇帝としての揺るぎない自信。
父の残したこの豊かな帝国を、さらに繁栄させた。
民が飢えることのない、他国から侵略されることもない、そんな国をつくり上げた。
何が起きても自分は折れることはない。壊れることもない。
彼はそう、確信していた。
しかし、硬い氷は、粉々に砕けてしまえば、もう元には戻らない。
ヒビひとつないその氷は、自身がどれほどに薄く出来ているのか、気付くことはなかった。
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