▼
何が『じゃあ』なのかさっぱりわからなかったが、潤んだ瞳でそんなことをねだられて、突き放せるわけがなかった。
妻の方を向き、小さな身体をいつもより少しだけ強く抱きしめる。
彼女は躊躇いもなく、俺の背中に腕を回した。
「かずまさま」
「何だ」
「かずまさま、だいすき」
「わかったから……もうよせ」
「どうしてですか?」
腕の中できょとんとしてこちらを見上げる妻に、どう答えればいいのか迷う。
『どうして』だと。言わせる気か。そんなのは――
「カズマ、照れてるんだよねっ?」
楽しげな声に、甘ったるい空気が一瞬で霧散した。
「父上……何をしに」
「え?見学」
「ふざけるのはやめてください」
「今いちばんふざけてるのはリンさんだと思うけど」
「誰がこいつをこんなにしたと」
「ごめんって!こんなに面白……人格変わるとは思わなくて。あのね、リンさんを正気に戻すいい方法思いついたんだけど、聞く?」
父はそれを言いに来たようだった。
ろくでもない予感しかしないが、一応尋ねる。
「……どのような」
「もう一口か二口飲ませる」
「ますますおかしくなるのでは」
「いや、気絶するんじゃないかなって」
「そんな危険な真似はさせられません」
即答すると、父は顎の下に手を当てた。
「ん〜、だめか〜。じゃあまた出直してくるよ、ごゆっくり」
それだけ言ってあっさりと部屋を出て行く。
「何だったんだ」
しかし、さっきの質問の答えをうやむやにできたことは有り難かった。父が答えたようなものだったが。
ため息をついていると、くい、と上着の裾を引っ張られた。
「かずまさま、かずまさま」
「……何だ」
「なまえ、よんでください」
「……誰の」
「わたしの」
「……何故」
「よんでほしいからです」
「……何のために」
「わたしがうれしくなるためです」
こちらをひたすらに見つめる瞳とその笑顔が――とにかくまずい。
prev / next
(6/12)