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――半時も経たず、男が再び酒場の扉を開いた。
「殿下…!」
「も、もう…!?」
目を見開く部下たちに、男は言い放つ。
「東の宿『黒猫』だ。すぐ人を向かわせろ。俺も後から行く」
その言葉に、部下のうち二人がすぐに酒場から出ていった。
男は、乱れていた上着を直しながら、口元に残る赤色を乱雑に拭った。
その様子をうらやましげに眺めていた一人の部下が、男に近寄る。
「殿下!役得ですね!どうでした?都一番の女は」
「…っ馬鹿!」
もう一人が慌てて不敬を咎めるが、部下は興味津々の表情だ。
「どうもこうもない。ただの女だ」
「ええええっ!!!!」
止めていたはずの者も、尋ねた者と声を合わせて叫んだ。
「み、都じゅうの男の、憧れの的ですよ!?ただの娼婦じゃないんですから…!それを殿下…」
信じられない、という顔で部下は言い募る。
しかし、男はさらりと言った。
「好きでもない女に触られても何も感じないだろう」
「……なんと!!!!!」
再び二人の部下が息の合った悲鳴を上げる。
「ま、まあそうでもなきゃ、こんなあっさり口を割らせることなんてできないですよね…」
一人が頭を掻きながら苦笑する。
「『好きでもない女』…てことは、お好きな方がどなたか……?」
好奇心がおさまらないらしいもう一人が、さらに尋ねた。
「別にいないが」
「あの女の手にかかってもびくともしない殿下を、よろめかせる女性なんて…いないんじゃないですかねえ」
部下たちはそう言って笑う。
「別によろめかされたいとも思っていないが」
「………い、言ってみてえ!!!!!」
男はそんな二人を気にすることもなく、素早くマントを羽織り、フードを被る。
「くだらんことを言ってないで行くぞ。あの男をさっさと都から追い出す」
マントを翻し、颯爽と歩き始めた男の後ろ姿を、部下たちが慌てて追い掛けた。
数年後、この男が北の国の姫君に、あっさりと陥落してしまうことを知るものは――まだ、いない。
end
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(9/9)