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「初めてこっち見たと思ったら、何だよその顔」
ますます怖い顔になる甲斐くんを見て、さっと血の気が引いた。
また、何か不快にさせてしまった。
「ごご、ごめんなさ……っ!?」
とっさに謝りかけた私の口を、甲斐くんの右手が乱暴に塞いだ。
「惨めになるのでもうやめてください」
鋭い視線と怒り混じりの声、それとは裏腹に、言葉の内容は懇願のようだった。
あまりのことに、私は甲斐くんから目を逸らせないまま、パニックに陥ってしまいそうだった。
足が震えているし、冷や汗をかいている気がする。
何でこんな状況になっているのか、全く理解できない。
わかるのは、甲斐くんがいつも以上に怒っているということだけだった。
「主任はもし、俺があなたを好きだなんて言ったら、卒倒するんでしょうね」
口を塞いだまま、甲斐くんは唐突に意味のわからないことを言った。
甲斐くんが冗談を言うところなんて見たことがないのに、このタイミングで何て悪い冗談を言うのだろう。
「……泣くほど嫌ですか」
混乱と恐怖から滲んでいた涙に気付き、甲斐くんが私から手を離した。
「今のは聞かなかったことにしてください」
「あの……甲斐く……」
「21時過ぎたら主任は帰してやれと課長から言われてるので帰ってください」
「え、あの、でも……」
「主任がタイムカード切ってなかったら俺が怒られるので」
「そ、それは、でも、私……」
「送れなくてすみません。気をつけて帰ってください」
甲斐くんは何事もなかったかのように私に背を向けて、作業を再開しながら淡々と言った。
「……ごめんなさい、あの、甲斐くんも、無理しないで……」
空気に耐え兼ねて、私はそれだけ言うと、逃げるように書庫を飛び出した。
「またごめんなさいって言っちゃった……」
通りに出て、一カ所だけ明かりのついたビルを見上げながら、私は長い溜め息をついた。
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