▼ 54:「好き」
ほんの少しだけ癖のある、黒い髪が、好き。
普段は冷たさすら感じてしまうほどなのに、私を見つめるときだけはやわらかくて優しくて、少しだけ熱を持つ、黒い瞳が、好き。
耳元から全身を痺れさせてしまうような、低くて甘い声が、好き。
私のよりもずっと大きくて、力が強くて、だけどあったかい、てのひらが、好き。
やさしく私の髪を梳く、涙を拭ってくれる――その気になれば私のぜんぶを翻弄してしまえる、長い指先が、好き。
思わず身体を預けてしまいたくなる、広い背中が、好き。
私と彼はどうしようもないくらいに違って、真似をしてみたって同じにはならなくて。
いない時には目を閉じれば簡単に思い出せるけれど、直接触れることには全然敵わなくて。
それでもまだ、足りないような気がして。満たされているのに、足りないような気がして。
好きで、好きで、好きだから、もどかしい。
心は目に見えない。
だから彼は、彼のぜんぶで『好き』を伝えてくれる。
私にちゃんと、見えるように。
きっと私も、同じ。
だって、隠せない。
私の『好き』はもう、こんなにも身体じゅうから溢れてしまって、目に見えないようになんて、できない。
それでも――きっと彼が思っているよりずっとずっと、私は彼が、好き。
もどかしいのは、伝えきれないから。
恥ずかしくて、彼から逃れようとしてしまうこともある。
嫌がっていないことなんて、彼はお見通しだろうけれど、それでも。
伝えたいくせに、もっともっと欲しいくせに、逃げてしまうなんて、私はずるい。
だけど、彼の『好き』は、私には恥ずかしすぎて、正面からまるごと受け取ることができない。
そんな彼の『好き』だって、好きなのに。
――おとなに、なりたいと思う。
彼はそのままでいいと言うけれど。
もっとじょうずに、ぜんぶを、彼にあげられるようになりたい。
『好き』の気持ちを、ぜんぶ。
「カズマ様……」
「何だ?」
「あの……」
「どうした」
「……な、何でもありません」
溢れるくらいの『好き』なのに、私はまだ、素直に言葉にすることさえ、うまくできない。
そんな私を、彼が愛おしげに見つめる。
視線の先にいるのが自分だと、いまだに信じられないことがある。
大好きな指先で、顎を持ち上げられて、大好きな瞳が、かんたんに私を従順にする。
大好きな声で、名前を呼ばれて。
それから。
『ぜんぶ』を伝えたいなんて願いながらも、きっとこんなことは言えるはずがない。
触れるだけでくらくらしてしまうような、彼のくちづけが、私は、どうしようもないくらいに――――
「好き……」
prev / next
(1/1)