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「何か嫌な思いをさせたか」
彼が私の肩を優しく掴んでこちらを向かせる。
「い、嫌な思い、は……」
言いながらその手から逃れる私に、彼は眉をひそめた。
「じゃあなんで逃げるんだ」
「そ、それは……っ!」
嫌だとか、そういうことじゃなくて。だけど今そんな風に触れられたら、全部思い出してしまうから、いたたまれなくて。
そんなことは当然知らない彼は、少し慌てたように私の右手を掴んだ。
「おい、リン」
「……っ!」
呼ばれた名前に、私の恥ずかしさは頂点に達した。
彼の手を振り払って、両手で耳を塞ぐ。
「よ、呼ばないでください!」
「……何?」
ぽかんとしている彼を、私はキッと睨んだ。
「そうやって何度も何度も名前を呼ぶから私は気が変になりそうだったのに!そんなことおかまいなしに恥ずかしいことばっかり言って!また名前呼んで!それから……っ、なのに全部覚えてないなんて!ひどいです!」
涙目でまくしたてると、彼は気圧されたように黙り込んだ。
そしてしばらくしてから、
「悪かった」
「……」
「……そんなに名前を呼んだのか」
「……はい」
「恥ずかしいことばかり、って何を言ったんだ、俺は」
「恥ずかしいことは恥ずかしいことです……!言いたくありません!」
私が彼に背を向けて叫ぶと、彼は大きなため息をついた。
「何も覚えてないなんて、本当にどうかしてる」
「……」
考えてみれば王様に飲まされたわけだし、なくしたくて記憶をなくしたわけではないだろう。
『ひどい』なんて少し言い過ぎたかもしれない、と、わずかに彼を振り返ると、
「惜しい、なんていう言葉で片付けられる話じゃない」
「……なっ!」
信じられない。
彼は反省しているわけじゃ、全然なかった。
そうじゃなくて、むしろ――
「カズマ様の、馬鹿ーーっっ!!!!」
私は、持っていた服を彼に投げ付けた。
「おい、リ……、」
「呼ばないでくださいっっ!!!!」
私は、振り返りもせずに、部屋を飛び出した。
王様に、彼にもうお酒を飲ませないでくださいって言わなくちゃ……!
だけどその日、マリカさんが「殿下が落ち込んでいるらしい」と兵士たちから聞いてきて、結局私は彼を許してしまったのだった。
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