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部屋に入り、私をふわりとソファに降ろすと、彼はひとつため息をついて上着を脱いだ。
今日は私が座っているからか、ソファに投げることはしない。側にある小さなテーブルに、上着を置いた。
「あ、あの……ほんとに早かったですね、カズマ様」
私はおずおずと彼を見上げる。
「まあな。父上が機転を利かせて逃がしてくれた。今日はもう休んでいいそうだ」
今日の晩餐会はそれほど大きなものでも堅苦しいものでもなかった。あの場に戻らなくてもいいと思うと、少しほっとする。
そしてふと、さっきまでのイリヤ王子とのやりとりを思い出す。
いや、正確にはずっと心に引っ掛かっていた一言を。
「…………『好きそうな女のひと』って、どんなのですか」
「何言ってる」
私の言葉が予想外だったのか、彼が怪訝な顔をした。
もちろんタイミング的に、彼はイリヤ王子のその一言を聞いていたはずだった。
彼の表情には構わず、私は言葉を続けた。情けない声になっているのを自覚する。
「私、違いますか。カズマ様の理想の女のひとと」
「馬鹿か、怒るぞ」
彼は本気に怒っているような目でこちらを見下ろす。
それでも、考えれば胸が痛かった。
「だって……私には何もないのに」
『何があるのか』なんて、そんなのわからないし、あるとも思えない。
何かがなくちゃだめなのなら、私はどうすればいいんだろう。
私は、彼にふさわしいと言えるんだろうか。――ふさわしいひとがいるというのなら、どうしたら私もそうなれるのだろう?
「何もないなんて、そう思ってるのはお前だけだと、何度言わせるんだ」
「そんなことないです!だって……、」
彼はすっと私の隣に腰を下ろし、私の反論を遮った。
「お前はしょっちゅう忘れるな。俺もお前と同じだと」
「え?」
意味がわからなくてきょとんとする私の髪を、彼は真顔のままもてあそぶ。
そんなしぐさひとつにもどきどきしてしまう私に気付いているのかいないのか、彼は表情を変えないまま言った。
「お前の気持ちを疑ったことは一度もないが、俺でいいのかと思ったことは一度や二度じゃないぞ」
想像もしなかった言葉に、私は目を見開く。
「うそ!私にはカズマ様以上のひとなんて絶対……」
言いかけて、私はやっと『同じ』の意味に気付く。
「あ……」
「だろうが」
彼は少し呆れたような顔でこちらを見ていた。
同じ気持ちなんだと、何度も確かめているのに、また不安になって。
そのたびにちゃんと答えをくれる彼が、すごく愛しい。
そのままでいい、と心から伝えてくれる彼が。
「……でも、だから、私は……ちょっとでも近づきたいんです。カズマ様の理想に」
そう。もし『理想』というものがあるのなら、知りたい。努力をしたい。
そしてもっともっと、好きになってほしい。
私には、それしかできないから。
なのに彼は、今度は呆れるどころか思いきり眉間にしわをよせた。
「お前はこれ以上俺を骨抜きにしてどうするつもりだ」
「はっ、はいっ?骨抜きって……ど、どこが、」
彼のイメージと今の状況と、どちらにもそぐわなすぎる単語に、思わず間の抜けた声を出してしまう。
冗談かと思った。
いや、冗談かもしれない。
現に彼は今、えらそうな座り方をしながら、すごく変な顔で私を見ていて。
骨抜きって言ったらそんなのじゃなくて、例えば……いつも私が彼を見ているような、そんな目をしているはずで。
だからそんな言葉は、からかっているとしか思えない。
「あの男の言うことは信じかけたのに、俺の言うことは信じないのか」
私がじとっとした目をしていると、不機嫌そうに彼が言った。
「俺はお前の何だ」
「だ……だんなさま、です」
「お前は俺をどう思ってる」
「え……あ、あの……だ、だいすきですって、いつも……」
「じゃあ俺の言うことを信じろ」
「は、はい」
なかば強引に納得させられ、私は頬を熱くしたまま頷くしかできない。
彼は、もてあそんでいた私の髪をするりと手放すと、少しだけ優しい目でこちらを見た。
「とにかくお前はこれから、あの男のことは無視していろ。俺もいちいち相手にしないように気をつける」
嫉妬とか危機感とか、それだけではなくて。
イリヤ王子の言葉に揺さぶられて弱気になってしまった私を気遣ってくれているような、そんな感じがした。
心配をかけてしまったんだな、と思う。
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