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「え?卯浪さんが女の人と腕組んで歩いてた?」
話を聞いた早瀬は、少し考えるような表情をした後、二人に尋ねた。
「……見間違いってことはないの?」
「吉野の同僚の人、卯浪さんとも知り合いらしくて、見間違うことはないって」
そうかあ、と早瀬は頭をかく。
そのしぐさを見てふたりは不安になる。何か心当たりでもあるのだろうか。
早瀬はしばらく黙っていたが、不意に顔を上げてまっすぐ吉野の方を見た。真剣な表情だ。
「吉野ちゃん、残念ながら俺は何も知らないけど、これだけは言える。卯浪さんは吉野ちゃんを悲しませるようなことは絶対しないよ。
だから万が一それが卯浪さんだったとしても、絶対に何か事情がある。卯浪さんが吉野ちゃんを大事に思ってるってことは俺が保証するよ。――だからこのことは一旦忘れてみる、っていうわけにはいかないかな?」
早瀬の言葉に日夏が反論する。
「忘れるって……聞かなかったことにしろってことでしょ!?そんなの無理に決まってるじゃない」
忘れろなんて、都合が悪いときの言い逃れのように感じる。
しかし吉野は、日夏をいさめるように、彼女の手に自分の手を重ねた。
「いいの、日夏。大丈夫。
わかった。早瀬くんがそこまで言うんなら、早瀬くんを信じて、しばらく忘れてみます。どちらにしても、私からは怖くて本当のことなんてとても聞けそうにないから……」
「吉野……」
日夏が口を開こうとしたとき、早瀬の部屋のドアがノックされた。
「コンコンコン!しつれいしま〜す!」
返事も待たず、陽気に部屋へ入ってきたのは、かわいらしい雰囲気の小柄な女性だ。
「お茶どうぞ〜!……ああっ!なっちゃん久しぶりー!最近来てくれないから寂しかったのよう!」
お茶を載せたお盆を早瀬に押し付け、嬉しそうに日夏に抱きつく。
「ごめんなさい千歳さん、ここのところ忙しくて……わたしも会いたかった!」
「もおおお!なっちゃんたら相変わらずかわいいんだから〜!」
「おい母さん、ちょっとは落ち着けよ。恥ずかしいな。吉野ちゃんが困ってるだろ」
「なによ早瀬、わたしに妬かないでよね!……って、あなたが吉野ちゃんねっ?なっちゃんが言ってたとおりかわいいわ〜!」
いきなり現れたテンションの高い女性に、吉野は目をぱちくりさせる。
「えっと……早瀬くんの、お母様なんですか?」
「そうなのっ、早瀬の母で〜す!千歳さんって呼んでねっ!吉野ちゃんのことは、よくなっちゃんから聞いてたのよ」
千歳(ちとせ)は満面の笑みを浮かべる。
服装や髪型、無邪気な口調などを見ると、早瀬の姉と言っても通りそうだ。
日夏とは、よくお茶をしたり買い物に行ったりと、仲の良い友達のような関係である。
「よろしくお願いします」
吉野は頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくね!で、今日はどうしたの?うちの早瀬がなっちゃんを怒らせちゃったとか?」
「そうだ、千歳さん!卯浪さんが浮気してるなんてことありえると思う……?」
日夏は来訪の目的を思いだし、恐る恐る千歳に尋ねる。
千歳は、見た目に似合わず口が堅い。
そのため日夏は、これまでいろいろなことを千歳に相談していた。
千歳は、驚いたような顔をした。
「卯浪くんが……?それは絶対にないわよー!あの子、吉野ちゃんのことが大好きじゃない」
卯浪はよく早瀬の家に遊びに来るらしく、千歳とも打ち解けている。
「そういうこと口に出す子じゃないけど、間違いないわよ!あたしそう言うの見る目はあるんだから!この子の父親なんて、ほんっとに何も言わなくて、」
「母さん!お茶持ってきてくれたのはありがたいけど本題から微妙に話が逸れていくから出てってくれ」
早瀬が千歳の話を無理矢理止める。
千歳は「早瀬のけち」とこぼしながら部屋を出て行った。
「ごめんな、吉野ちゃん。あのひと話好きだから」
早瀬が疲れた様子で吉野に詫びる。
「いえ、話してたら元気が出そうな方ですね」
「日夏も昔そう言ってたな。俺からしたらちょっとやかましすぎるけど」
結局、これ以上は情報は得られないということで、吉野は彼の家を後にすることになった。
「何の役にも立てなくてごめんな」
「いいえ、ありがとうございます。とにかく、早瀬くんの言うとおり少しだけ忘れてみます。できるかわからないけど」
早瀬は複雑そうな顔をして言った。
「あのさ、さっき吉野ちゃん、俺を信じるって言ってくれたけどさ、できたら卯浪さんを信じてやって。保証するとか言ったのは俺だけど。卯浪さんの気持ちは、疑わないであげてほしい」
「……努力してみます。ありがとう。日夏もありがとね」
そう言う吉野の表情はもっと複雑そうだった。
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