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「……日夏が男を泣かすところ、久しぶりに見たな」
男の背中を見送りながら、早瀬が言う。
「い、今のは泣かせてないでしょ!?それに小さい頃のあれは、いじめられてた女の子を助けてただけで……泣かせようと思って泣かせてたわけじゃ……」
日夏は反論する。
「あはは!ごめんごめん」
早瀬は、殴られかけたというのにけろっとしている様子だ。
日夏はそこで疑問を口にした。
「……ああいうの、よくあるの?」
「え?」
「俺の女に手を出すな、みたいな……苦情?」
早瀬は慌てたように両手を振る。
「あんなのめったにないよ!だいたい手なんか出してないしさっきのもそんなんじゃなかっただろ?……変な目で見るなよ!」
「めったに……てことはたまにはあるんだ」
「だからそんなじとっとした目で見るなって!……なんだよ、もしかして妬いてる?」
一歩近づいて、顔をのぞきこんでくる早瀬から、日夏は思わず距離をとる。
「なんで!わたしがこの状況で何に対して妬くの?……ただ、いつのまにか違う世界の人になっちゃったんだなあと思っただけ」
「なんだよ違う世界って!どっちかっていうと日夏の方がよそよそしくなって最近変じゃないか」
「わたしはただ見当違いにやっかまれるのがめんどくさいからそうしてるだけよ」
「今までの日夏だったら、そんな筋の通らない奴はさっきみたいに追っ払ってただろ?」
「女の子のああいうのは複雑だからそんなかんたんにはいかないの!……いいじゃない、わたしがいなくても周りにはたくさん人がいるんだから」
「日夏の代わりなんていない」
「いるわよ、いっぱい」
「あんま変なこというと怒るぞ?」
次第に空気が不穏になってきた。
日夏は焦って矛先をそらす。
「と、とにかく、早瀬が人前でわたしに構ったりして女の子たちの気持ちに鈍感だから今回みたいなことになったんでしょ。
早瀬って気が利くとか言われるけど意外と自分のことに関しては鈍感よね!早瀬が知らないだけで泣いてる子いっぱいいるんじゃない?」
しかしその発言は火に油だったらしい。
「鈍感なのは日夏だろ!?学生時代からいつも無防備で!山吹も柳も見るからに日夏のこと好きだったのに全然気付いてなかったじゃないか!おかげでこっちがどれだけ大変だったか!」
「なにそれ!二人とはただクラスが一緒だっただけでしょ!?それに何で早瀬が大変なのよ」
「それは……今はそういう話をしてるんじゃないんだよ!とにかく日夏のほうが絶対に鈍感だ!」
「二回も言わなくていいでしょ!」
「こどもの頃から日夏のこと好きだった奴の名前全部あげてやろうか!?」
「現在進行系で名前あげきれないほど好かれてる早瀬がえらそうなこと言わないでよ!」
「……おいお前ら。話が完全にそれてるぞ。そしてめちゃくちゃうるせえ」
ふいに、呆れた声が二人の言い争いを止めた。
「クロ!早かったのね」
我に返って日夏が振り返ると、日向が大きな包みを持って立っている。
「予定外に早く屋根が直った。メシは包んでもらったぞ、日夏のぶんも。てめーのはねえ」
日向は早瀬をじろりと見た。
「そうだろうな」
早瀬はそう言ってため息をついた。
あきらめたような顔で、日夏の方に向き直る。
「収拾がつかないことになりそうだから今日は帰る。しばらく頭冷やすよ。本は観測所の誰かに借りるから心配しなくていい」
「早、」
「じゃあまた」
そう言うと、早瀬は振り返ることもなく自宅の方へ歩いていった。
「……一日に二回も喧嘩しちゃった」
日夏は情けない気持ちでつぶやいた。
「少ない方じゃねえか」
「こどものころの話でしょ!?……ああもう。ねえクロ、わたし最近なんかおかしいのかな?」
こんなつもりじゃなかったのに、このごろ早瀬が絡むと、何かと思いどおりにならないような気がする。
日向は少し考えてから答えた。
「……早瀬は気にくわねえけど、さっきのは早瀬が正しいんじゃねーか?お前は確かに鈍感だぞ。最近は特に、自分の気持ちに鈍感だ」
「自分の気持ち……?」
日向にまで鈍感だと言われた上に、『自分の気持ち』という意外な言葉に、日夏はますます混乱する。
「よく考えてみろよ。なんで早瀬と距離を取ろうとしてるのか」
「だから女の子たちが、」
「そうじゃなくて、日夏自身のことだ」
「わたし自身、って……」
日向の言いたいことが見えない。
さっきの殴り込み男にはわかったようなことを言っていたくせに、自分のこととなるとさっぱりわからなかった。
「まあ、ちゃんと答え出るまで早瀬とは会わない方がいいんじゃねえの?無駄にこじれるだけだろ」
日夏は悔しい気持ちで目をそらした。
「……クロのくせにえらそう」
「俺はもともとえらいんだ!」
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