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早瀬は、ここのところやってもやっても終わらない仕事の山に忙殺されていた。
今日も残業だ。
他の職員たちは帰ってしまったが、早瀬はとにかくさっさと終わらせてしまいたくて、一人机についている。
「日夏に会いたいな……」
誰もいないから、つい本音がこぼれる。
しかし、その独り言に、返事がかえってきた。
「そういうことは直接本人に言ったらどうだ」
「垂氷!」
早瀬は驚いて振り返る。
声の主・垂氷が、壁にもたれて立っていた。
「なんでいるんだ!しかもいきなり背後に立つなよ!」
「欲求だだ漏れでぼけっとしているお前が悪い」
「……欲求って……垂氷、この間から俺を変態扱いしてるだろ!」
「別にしていない。お前が頭の中で何を考えていようが、俺の生活に支障はない」
「その言い方も釈然としないな」
早瀬が不満げに呟くと、垂氷はふいに眉をひそめて言った。
「だが、お前には、支障が出るかもしれない」
口調は変わらないが、少しだけ言葉に深刻さを感じて、早瀬は垂氷の表情を窺った。
「……どういう意味だ?」
「お前が日夏のことを大事に思う気持ちは、お前の力にも、弱点にもなるということだ」
それは、早瀬も何となくは自覚していることだった。
しかし、客観的な目から見てもそうなのだと思うと、少し情けないような気分になる。
それ以上何も言わない垂氷に、早瀬は問う。
「……もしかして、それを言うためだけに、わざわざ?」
垂氷が、ちょっとした用件を伝えるためだけにふらりと現れることはよくあった。
家で言えばいいじゃないかと思うようなことでも、「お前の帰宅を待っているうちに忘れる」だとか「面倒はさっさと済ませる」などと言い、伝え終わるとさっさと帰ってしまうのだ。
さすがは猫といったところか。
だがこんな風に、早瀬の内面に踏み込むようなことを言われるのは初めてだった。
垂氷は一瞬間をおいて、口を開く。
「最近のお前は、なんとなく、気持ちを持て余している気がしたからな」
周りに関心をもたないはずの垂氷に図星を突かれ、早瀬は少したじろいだ。
そして、あっさりと認める。
「……確かにそうだ。日夏を見て、焦ってる自分がいる」
日夏に変な態度をとられて気付いたのだ。
人の気持ちは変わる、という基本的なことを忘れていた、と。
もちろん早瀬自身、日夏への気持ちは、幼い頃のままではない。
ただ純粋に日夏が好きだと思っていたところから、他の奴に渡したくないという独占欲が生まれ、日夏の全部を自分のものにしたいという、とても日夏には言えないような思いが加わった。
自分の気持ちでさえ、自分自身で疑わしく思うことがあるのに。
他人の気持ちなんて、もっと、掴むことが難しいものだ。
――どうして、そんなあやふやなものを、今まで約束もなしに信じていられたのか。
不安はいろいろあったし、余裕もずっとない。
だが、日夏は変わらないと、どこかで安心していたからこそ、今の『ただの幼なじみ』という立ち位置に甘んじていられたのだろう。
確かに、日夏は『早瀬と一緒にいたい』と言ってくれた。
だが、その気持ちさえ、変わってしまうことはありえるのだ。
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