名前をつけたら最後なの




月を見に行こう。
そう言ったのは槙島だった。月ならここからでも見れると主張する彼女に対して、槙島は郊外なら星も見れるよと言うと彼女はすぐに食い付いた。普段はのんびりしている彼女だが、天体には並々ならぬ興味があった。




まだですか、と問われ槙島は苦笑した。かれこれこれで五回目だ。夕暮れに家を出て、もう三時間くらいになる。借りてきたレンタカーで、市街地を抜け郊外をずっと進んでいる。どんどん灯りは過ぎ去って、今はもう辺りには殆ど街灯はなかった。もう少しだよ、と槙島は答えた。この返答は初めてだ。彼女は少し上ずった声で、本当ですかと嬉しそうに言った。決して短くはない付き合いだが、こんなにはしゃいでいる彼女を見るのは初めてだった。普段はのんびりしていて、あまり感情の起伏が激しくない彼女だから、槙島はなんだか新鮮でちょっと楽しかった。
それからしばらくして、二人は目的の場所に着いた。車を降りると、彼女は空を見上げたまま固まった。人工物ではない本物の星空を見るのは初めてなのである。街中でもある程度月と星は見えるが、今見ている風景には遠く及ばない。写真やプラネタリウムとは全く違う。満天の星空とはこうも美しいのかと彼女は感嘆の息をそうっと吐いた。
槙島は空を見上げたままの彼女をそっと近くのベンチ座らして、自分もその隣に座った。
彼女が普段生活している都心ではあかりが眩しすぎて星は殆ど見えない。それだけではなく、月さえも見えない日もあった。それに、街には背の高いビルばかりで見上げる空はいつも狭く、こんなに開放的な広い空を見るのは初めてだった。

(……すごくきれい)





槙島は星空を一心に見上げる彼女を見て、どうしてだろうと自問した。ここ最近は、ふと気が付くとシビュラの他に彼女のことを考えている自分がいた。彼女はどこにでもいる、普通の女性だ。取り立てて美人でも可愛くもないし、体型がいいわけでもない。シビュラを信じその意のままに生活をしている。槙島のもっとも嫌悪するところに生きているのに、どうしてだろうと繰り返し自問するけど答えは見つからない。
先ほどからずっと彼女がそうしているように、槙島も星空を見上げた。
美しいなぁ、とは思う。だけれど槙島には星空は星空で、彼女のように感動して見入ることはない。何も感じない。ただそこにあるだけだ。日が暮れれば必ず見える、なんの変哲もないいつもの空だ。
槙島はなんでだろうと再び自問した。槙島にはどうして彼女がこんなにも星空に見入っているのか理解はできないし、どうして自分が今つまらないのかわからない。
槙島は彼女といるき、ときどき自分が自分ではなくなるような気がした。これまでの自分とはまったく異なる新しい自分になったような、そんな感じだ。これまで積み上げてきた全てが無駄であったように思えて、槙島は空恐ろしく思ったが、同時にとても満たされた気分にもなった。

妙な気分だ。

これまでの孤独感が、彼女と合うその一時だけは癒された。彼女はグソンのようにパソコンについての知識があるわけでもなければ、神宮寺のように財力があるわけでもない。本をほとんど読まないと言っていたし、趣味だってあわないだろう。槙島が紅茶党ならば彼女は珈琲党だ。
この気持ちはなんだろう、と月を見上げながら思案する。一向に答えの見つからない、果てのない悩みだ。

「槙島さん、星綺麗ですねぇ」

槙島の方を振り返って、彼女がニコニコと笑いながら言った。

「そうだね」
「……お月様も綺麗です」

槙島はまさかと思った。有名な逸話だけど、彼女が知っているわけがないと思った。
だけど、槙島が見た彼女が、ちょっとほほを染めて恥ずかしそうになんてしているものだから、勘違いしそうになった。
目が合った彼女が、嬉しそうにはにかむ。
槙島の中に未知のあたたかな感情が生まれた。ひょっとしたらこれが、恋というものなのかもしれない。この気持ちは愛なのかもしれない。
槙島は果てのない悩みのその答えの一端を見つけた気がした。そしての気持ちからそっと目を反らした。


「……うん、月が綺麗だね」




名前をつけたら最後なの


ふと隣を見ると、槙島さんも夜空をじぃと見つめていた。月明かりが槙島さんを照らして、彼をより一層美しく見せていた。
私は突然、このまま彼がいなくなってしまうのではないかと思った。月に照らされた彼があんまり綺麗だから、このまま月にでものぼって私の手が届かない、どこか遠くに行ってしまう気がした。そう考えたら胸がぎゅって苦しくなって、気付いたら胸にしまっておこうと思っていたことを言ってしまっていた。

「槙島さん、星綺麗ですねぇ」
「そうだね」
「……お月様も綺麗です」

彼の顔は美しいけど、いつだってある種の愁いを浮かべていた。悩みがあるのかもしれない。それなら力になりたいのに、彼はするりと交わしてしまう。
言ってから、とうとう言ってしまったと思った。ずっと胸の奥にしまっておこうと思っていたのに。
槙島さんと目が合った。恥ずかしくて、おもわず笑ってしまった。
そっと槙島さんと私の手が重なった。ぎゅうと痛いくらいに握られて、少しほっとした。よかった、ちゃんと伝わっていた。

──うん、月が綺麗だね。

槙島さんが、いつもより少しだけ小さな声で言った。本が好きだという槙島さんなら、きっとこの逸話も知っていると思った。
私は漠然と、槙島さんはこたえてくれないだろうと思っていた。そう決め付けていた。だけど手をきつく握られて、ああ。

槙島さんにはもう会えないだろう。

なぜだかそんな気がした。


140508
140509加筆



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