opening:「Please love.」

 世界の終わりなんてそう易々と訪れるものでもない。
 それは、確信と同じだった。
 そもそも、彼らは一体、自分たちが一体どれほどの年月を生きてきたと思っているのか。
 気が遠くなるような一瞬の世界を、ただただ、暗鬱の憂鬱で瞳を濁らせることも出来ないまま、無情に無常に無感情に、流されるように存在し続けてきたというのに。
 お前の親が生まれるのも、お前の親が死ぬのも。
 お前の孫が生まれるのも、お前の孫が孫を遺していく姿も。
 すべて、自分は見てきたというのに。
 舐めている。何もかもが、舐められている。
 簡単に世界の終わりなんて語る人間も、絶望に瞳を輝かせる人間も、誰もが何もが、世界を舐めている。
 今だって、イギリスはそう思い続けている。





01:The man who told the lie

「そうは云っても、現実問題、世界は終わりへと向かっているんだ、イギリス」

 諭すというよりも、淡々と。目の前の男はイギリスへと語りかける。イギリスは口に含んだケーキを咀嚼するだけで、何も返さなかった。無視したわけでも口を噤んだわけでも、反論出来なかったわけでもない。ただ、面倒だっただけだ。イギリスは男の作る菓子を心底気に入っていたが、しかし男の全てを否定したいという心持ちはいつだって持ち続けていたのだから。
 チョコレートを湯煎するその無骨で肉厚な掌も、スポンジ生地を作るためにしなる二の腕の筋肉も、イギリスは好きだし、認めているし、そして愛している。
 しかし、男のすべてを支配するその脳髄も脊髄も人格もクオリアも、イギリスは全て嫌いだ。大嫌いだ。
 だから、彼の言葉に返す何かも、同意する何かも、イギリスは持たない。持ちたくない。
 男はそれらイギリスの態度全てを全く意に介さず、昼下がりの麗らかな日差しを窓辺から燦燦と浴び続けていた。本当はバルコニーにでも出て優雅な昼下がりを演出したかったようだが、残念ながら、それは出来そうもなかった。男は命を狙われている立場だ。国内からも、国外からも。
 今この瞬間にも、彼は狙撃されるかもしれない。
 まあ、その返り血を浴びたり、ましてや巻き添えを食うのだけは御免蒙るので、イギリスの指示でこの家は完全に自分専属の護衛に包囲されているわけだが。
 勿論この男はそんなことは知らない。別に知らなくていい。云うつもりもない。云う義理もない。
 イギリスは別に我が身が可愛いだけなのだ。
「いい天気だなあ」
 男はほのぼのと呟く。心地よさげに、ティーカップに添えた長い指をゆるり、弛緩した。
 もうすぐ死ぬくせに、そうやって余裕ぶっている姿が癪に障る。
「俺らも長いけどさあ、でもまさかこんな風に人間がいなくなっていくなんて思いもしなかったよなあ」
 磨かれた窓の向こう、陽気の中にきらりと葉を光らせる新緑に目を奪われながら、男は云った。
 イギリスは、嘘つき野郎が、と思った。何を、心にもないことを。
 むしろイギリスは、遅かったようにすら思う。
 世界に国という存在として生まれて、辛酸を舐め尽して、憎まれて、失って、血を吐いて、泥だらけになって、そうして生きてみて、それら全ての年月と経験と感覚から、絶対にいつかこういう終わりはくるはずだと確信していたのだから。明日にだってそうなってもおかしくないと、期待していたのだから。
 世界の終わりなんてそう易々と訪れるものではない。舐めてんじゃねえよクソ共が。そう罵る口で、同時に、明日終わるだろうと歌ってみる。明日終わるだろう。明日終わるべきだ。
 そういう啄ばみを、イギリスは愛した。
 男は笑っている。手入れされた髭を指先で弄んでいた。そして、イギリスの翠の虹彩を見詰めて、いとおしむように云った。口の端が端整に歪む。
「お前は自分も人間も同じ国でさえも大嫌いだけど、でも同じくらい、大好きなんだな」
 羨ましいよ。
 イギリスは盛大に顔を歪ませた。不快感を隠そうともしなかった。かしゃん、と、手にしたティーカップを苛立たしげに置く。紅茶が少し零れた。
「皮肉か? それは」
「ちがうよ、この後に及んでそんなことしねえって」
「じゃあなんだよ」
 はっきり言え。イギリスは凶悪に瞳を眇めて、顎を反らせた。言外に続きを促す。
 男は、陽のあたたかさに金糸の髪を透かせて、蒼の瞳を深く湛えて、陶磁の肌に美しさを纏わせて。
 愛の国らしく、美しさを尊ぶ国らしく。
 とても幸せそうに、綺麗に云ってみせた。
「俺はさ、」

「ぜんぶ、だいきらいなんだよ」





02:A scar and puzzlement

 その逢瀬が、男との、フランスという男との最期のものだった。
 あのときイギリスが憤慨していた世界の終わりとやらは、実に単純な構造のものだった。
 増えすぎた人口、混乱する情勢、下落する株、混迷する世界経済、立ち上がる指導者の独善、価値のなくなる紙幣、奪い取られる日常、麻痺していた飢餓への恐怖。飽和した不満。不審。不信。
 地球の環境が云々、宇宙の寿命が云々。そんなもの、何も関係なかった。
 人間はあくまで人間として、人間そのものの業のままに。人間だけで。
 急激に滅びつつあった。
 そして、イギリスはそれらを一瞥しながら思うのだ。ほらな、と。
 世界を舐めるなというあの憤慨は、所詮自分も、自分を構成する国も、その国を構成する人間も人類も、べつに世界でもなんでもねえんだよ、と。そういう確信に基づくものだったのだから。
 イギリスは生まれたときから愛されなかった。望まれることはあっても、祈られることはなかった。祝福はなかった。
 それはすべて、自分を形作る人間たちの感情と同じだ。自分は国で、そして国は人間の作ったものだ。だから、人間は互いを望むけれど、祈りはしない。愛しもしない。それがイギリスの、千年の歳月を経ての結論だった。
 それが、明日にでも、という期待だった。

 まず初めに崩れたのはアメリカ経済だった。そして、その雪崩を喰らい、次に同盟国、近隣諸国の経済が破綻していった。自分の唯一の友であった日本も、例外なくその渦中に居た。むしろ、中心に近かった。アメリカにほとんど寄り添うように、彼は衰えていった。イギリスは、この一連の世界の混迷のなかでそれが一番の苦味だったと思っている。
 そして、日本と最期に交わした言葉もまた、今もイギリスを苛み続けている苦味のひとつだった。
(イギリスさん)
 イギリスのような不機嫌な仏頂面でなく、滔滔と流れる水のような表情の黒髪の彼。
 黒曜石の瞳で彼は云った。イギリスの横に立ち、安穏と流れていたはずの大気が澱んでいく空を見上げて、まっすぐに凛とした態度で云った。
 ――約束をしましょう、と。
 けれど、あのときの約束は、全く約束になっていなかった。
 彼は満足そうに笑んでいたし、イギリスも彼の安らかな表情を久しぶりに見たので、気分だけは僅かに高揚していたのだが、しかし何度あのときの自分たちを思い返してみても、その会話には約束の片鱗はない。
 彼は何が云いたかったのだろう。
 乱雑なオフィスビルの最上階。イギリスは国としての執務をこなし続けながら、毎日のようにそのことを考える。そして、彼と二人で見上げたはずの空を目にしようと、薄汚れた窓辺に視線を遣る。勿論そこにはロンドンの重たい雨雲だけが広がるばかりで、彼との空はない。どこにもない。
 灰色の街、
(家に重ねられた色彩はなくて)
 灰色の人々、
(その表情は曇っていて)
 灰色の空、
(陽の光も注がない)
 広がっているだけで。
 火山灰が降り注いだような、暗い、窓の向こうの四角い世界。
 イギリスは視線をデスク上へと戻した。まだまだ書類の束も懸案事項も残っている。このままでは今日も自宅へは帰れそうにない。
 今はいない彼との約束のことばかりを考えている暇は、自分には用意されていないのだ。
 同じ執務室の中で、部屋の端のデスクに居る男がぼそりと呟く。「さみぃなあ」
 確かに、少し肌寒いな。書類に羅列する文字を目で追いながら、イギリスは心の中で同意した。一年も半分以上が過ぎている。そろそろ冬支度をする頃合なのだろう。世界情勢や経済負担への対応、それによる仕事の増量で、そんないつもどおりのことでさえ、イギリスの脳内から抜け落ちていた。忘れていた。
 そうか、冬か。
 フランスと最期の逢瀬を交わしたのは、春のことだった。昼の強すぎない陽射しと、新緑の緑とが眩しかった。風が柔らかくイギリスの頬を撫でていた。彼のお気に入りの自宅へと招かれて、丹誠篭めて作り上げたというケーキを振る舞われて、イギリスの舌に応え得る紅茶を用意して、フランスはイギリスとの最期の逢瀬を楽しもうとしていた。
 その姿がまた、美しく、あたたかくて。
 だからだろう。あの日彼が云った一言が、イギリスの耳をいつまでもつんざいて離れない。日本と交わしたはずの存在しない約束と同じ場所で、同じ種類で、いつまでもイギリスを苛む。

(おれはさ、)
(ぜんぶ、だいきらいなんだよ)

 みぞれのような冷たさで、イギリスを侵していく。





03:Language of love

(もう、一年が経つのか)
 仄暗い綴じ蓋のような雪雲の下、イギリスは歩いた。左手には大輪の紅薔薇の花束が無造作に握られている。花束はイギリスの乱暴な歩き方で忙しなく揺れ動き、その色彩を灰色の景色へと振りまいていた。ばさばさと、花弁はスラックスの側面に擦れていた。寒さは鼻腔を焼いて、薔薇の芳烈な香りを遮った。
 イギリスは歩いていた。ロンドン市内の職場からも自宅からも遠く離れ、目的の地へ向かい歩いていた。
(おれはさ、)
 男の言葉が、無言のイギリスの脳内で再生される。壊れたカセットテープの再生音のような、擦り切れた声だった。再生されすぎて、磨り減ってしまっている音だった。

「おれはさ、ぜんぶだいきらいなんだよ。この美しい世界も、この幸福な景色も、鮮やかな春の色彩も、花の愛らしさも、なにもかもが」
 大嫌いなんだ。憎たらしくてならないんだ。フランスはイギリスの顔を真正面から見据えて、穏やかにそう云ってのけた。
 イギリスは、お前は傲慢だな、と云い返した。容姿にも周囲にも土地にも心根にも全てに恵まれたお前が、美しさの権化のような姿のお前が、そんなことをのたまうなどと。
 すると、フランスは諦めたように目を細めて、長い睫を揺らした。それがいびつな微笑みの形をしていたと、イギリスはそのときには気づかなかった。ただ黙って次の言葉を待っていた。
 フランスは続けた。
「お前はさ、俺が世界中から祝福された美しい子供で、お前が世界中から見放された醜い子供だとか、なんかそんなこと考えてる節あるけど。それは全く違うんだぜ、イギリス」
 むしろ、俺は世界で一番醜いぐらいさ。フランスはカップを手に取り紅茶を飲もうとした。けれど、中は空だった。へな、と眉尻を落として、カップをソーサーへと戻している。次を淹れればいいのにと、イギリスは思った。ポットにはイギリスの分の紅茶しか残っていなかった。
「俺は、嫌なやつだよ。アムールの国だとか愛を最も尊ぶ男だとか、そんな大言壮語ばかり口にしていたけれど、世界も人類も文化も文学も芸術も絵画も音楽も容姿も瞳も山も海も空も星も、なにもかもが美しい、そして愛している、そんなことを本気で思っていたけれど、けれど、俺の底には何もありやしなかったのさ。本当に愛すべきものも持たずに、好くことのできるものさえ持てずに、俺は愛を謡っていた。それが美しいと知っていたからね」
 知っていたから、本気で求めたこともない。
 求めないで、うわべだけが凝り固まってゆくものだから、
「俺はからっぽのままだ」
 イギリスは黙っていた。耳を傾けてはいたが、ついにこいつも気が触れてしまったのかと、あらぬ他所事ばかりしていた。死期が近づいてしまえば、いくら千幾余年の時を生きた国でさえもこんなものか、と。
「何も本当には好きになれない。だから、本当には何も憎めない。俺の感情はどこにもない。本物がないなら、そんなのは美しさとは違う。だから、俺は違う」
 そういう自分も、そうして俺を空っぽにするこの美しい世界も、俺はだから、大嫌いだ。
 空になったイギリスのカップに紅茶を注ぎながら、フランスは伏せた眼の奥で笑いながら云った。
 フランスの分は完全になくなってしまった。
 紅茶は既にぬるくなっていた。
 イギリスは、紅茶に口をつけるのはやめた。
 こんなぬるい紅茶は、嫌だった。
 こんな風に、自らを美しくないと蔑むフランスは、嫌だった。
「意味わかんねえ」
 眉間に皺を寄せて、戸惑いを隠すようにフランスの言葉を切って捨てる。
 お前疲れてて考えすぎなんじゃねえの。そう思うが、口は噤まれたままだ。
 硝子張りのテーブルに、木々のざわめきの影が落ちていた。揺れていた。暖色の陽の光の中に、淡く青い影が、揺れていた。
 分からなくていいんだよ、とフランスは外を見詰めながら呟いた。やはり諦めたような瞳をしていた。
「お前は違うから」
「……なにが」
 傷ついたような翠の瞳で、イギリスが僅かに瞠目した。
 フランスはその姿を流し目で一瞥し、また外を見る。
「お前は、ありったけの愛情で憎んでくれる。恨んでくれる。泣いて喚いて、バカバカ云って、俺なんかを美しいと罵倒してくれる」
 それは、激しい憎悪。激しい怨恨。激しい嫉妬。
 激しい賛美。
 それらは、激情であって、そして本物だ。
 だから俺とは違う。
「お前、気づいてないだろうけど。最期だろうから云っておいてやるよ」
「なにを」
「お前はすべて愛しているんだよ」
 瞠目。
 空白。
 告白。
 酷薄。
「……お前、なに云ってんの?」
 イギリスの声は、不審の色で揺れていた。
 フランスは、それには応えずに微笑んでいる。真っ白に、微笑んでいる。
 感情の淘汰された陶器の笑み。期待を払拭された諦観の笑み。
 もう何も望んでいない蒼色の深い瞳の底。その底になにもないことを示す、笑み。
 イギリスは、これは誰だろうと思う。
「お前はぜんぶ大好きだから、愛してほしかったんだ。嫌わないでほしかったんだ。だから罵倒したんだ。激情の賛美と、激流の感情とを乗せて。お前は、愛し愛されたかったんだよ」
 照れ隠しみたいに、下手糞な皮肉で隠していたけれどな。フランスはくくっ、と咽の奥で小さく笑った。イギリスは眉間の皺を深くさせる。
「そこには俺が謡う『美しさ』も、俺が唆す『愛』もない。お前は相手が女神のように醜くたって、蛆虫のように気持ち悪くたって、それでいいんだよ。それがいいんだよ」
「おい、なに勝手な妄想続けてんだいい加減殴」
 る、ぞ。苛立たしげに放たれたはずのイギリスの言葉は、言い終わる前に途切れた。ついえた。
 思わずソファから身を乗り出した自分の顔に、同じくテーブル越しに身を乗り出した男の影が重なる。
 すぐ目の前にある蒼の瞳には、凪いだ水面が在った。たゆたっていた。涙かな、という逡巡の疑いは、しかしあっという間に消える。蒼の水面の奥には、海底には、他の膜が張っていると分かったから。
 窓辺からの光。横っ面に射し込んで、男の瞳の表面を眩しく撫でる。つるりと光が滑るとき、自分と、男の目の中が黄色く爆ぜた気がした。熱い。彼の海底には、諦めと、苦しみと、そして彼の否定した愛とやらがたゆたっていた。
 それが、イギリスの瞳に波を寄せて、熱湯のように注がれる。
 熱い。
 フランスは、そのまま目を見開いているイギリスへ、散々自ら賞賛し、先ほど惨々自ら否定した、端正な美しい顔を近付けた。
 そして。
 唇に。触れて掠めるだけのそれ、を。
 落とすでもなく、零すでもなく。
 置いて離して、掌から逃がして、
 まるで愛おしく思いながらも丁寧に手放すような、
 そんな啄ばみを。
「俺は、俺をありったけの愛情で憎んでくれるお前だけは、きっと、本当に好きだったよ」
 離れていく彼の顔を、イギリスは無言で見詰めていた。言葉など出なかった。唇は動かなかった。頬は硬直していた。死後のように冷えて固まっていた。
 だって、何も云えなかった。
「俺を好きと云わないお前の愛が、お前の存在が、いっとう好きだったよ」
 静寂の室内を明るく照らす昼の光は、何処までも美しかった。
 目の前の男も、とても美しかった。
 カップの中の紅茶は、もう冷たかった。





04:Your refusal

 イギリスは歩く。鈍色の空は段々と低くなってきている。雪が降り出していた。日も暮れ始めている。今自分が歩くこの世界は、色も温度も、そして陽の光さえも絶え始めている。その癖、降る雪は真っ白なものだから、暖色の街燈に照らされて発色して、光の粒のように地面に降り注ぎ続けている。それらは地面に重なって、いなかったふりをするのだ。知らないふりをして、蓋をして、なかったことにするのだ。
 自分と彼のように。
 寒い。白い。雪の粒が眩しい。
 イギリスは白い吐息を見詰めた。
 あの時、あの春の陽射しの部屋の中で。初めてフランスとキスをした。
 それまで身体を重ねることは幾度もあったものの、睦言を囁かれもしたのに、驚くことに、自分と男は、一度として唇へのそれはしたことがなかった。それは最後の砦とも矜持ともとれた。ゆるされない、とイギリスは思っていた。
 彼の真意は分からない。分かろうとも思わない。
 散々愛しているとのたまいながらあっさりと否定して。散々裏切り続けながらあっさりと好きだと告げた彼の真意など。イギリスは知りたくもなかった。
 ほんとうに、しりたくなかった。

 フランスの遺体はなかった。国は、国だ。人ではない。彼の棺は空っぽだったらしい。空っぽの棺のなかに、彼の国花が敷き詰められたそうだ。すべて人づてに聞いたあやふやな情報だった。
 イギリスは彼の葬儀には参列しなかった。自分もまた国であり、そして現在進行形で隣国の疲弊でその身を窶している存在だ。彼を哀しむ立場にはない。そもそも自分は、哀しんでもいない。
 街並みが途切れる。街燈の灯かりも届かなくなりつつあった。それでもイギリスは歩を進め続けた。そのうち、寒さに鼻の頭がじりじりと痛み始めた頃、白い岩肌の岸壁に辿り着いた。潮の香りはあまりしない。風もない。穏やかだった。雪が殺したのかもしれないと思った。
 イギリスはそのままの速度で歩き続け、躊躇なく岸壁の淵に立った。月明かりさえなく、白いぼやけた雪の発光だけが唯一の光源だった。
 それでも、目の前の彼との海峡を照らすにはあまりに足りない。
 海面も空も真っ暗だった。何も見えなかった。彼の隣国の姿も、その陸地も、見えやしなかった。
 あの笑みさえ、もう二度と。
 イギリスは黙って左手に握られ続けていた花束を掲げた。切り立つ岩肌の向こうの、たゆたう姿すら見せない黒々として寒々とした、彼との海峡にその束を落とした。
 可憐にそよぐこともなく、ただ重力に従って、紅薔薇の花束はあっけなく落ちて行く。
 ばさり、ひとつ。
 花弁を散らす、衣擦れのような音を残して。
 ばらばらばら薔薇、落ちて堕ちて墜ちて、散って知って地って血って、

 雪のぼやけた発光だけが宿る、色のない世界。低くて重たい夜の頭上。凍てつく冷気。鼻の頭の赤い痛み。指先の失われた感覚と温度。途絶えたような、さざなみの音と潮騒の香りと頬を撫でない凪いだ風。黒々として、境界も表面も底土の感触さえ、見せてくれない海。
 すべて。
 お前が、美しいと否定した世界だ。
「――お前なんか、」 イギリスはか細く呟く。
 もう、薔薇の花弁は見えなかった。散ってしまった。落ちてしまった。
 見えないみなもに、吸い込まれてしまった。
「お前なんか、」
 咽は震えなかった。涙も出なかった。
 言葉も、音にはならなかった。
 苦々しく、最後の悪態を届けるように。イギリスは眉間を盛大に歪めて、そして、声にならないまま、ことのはを放した。解放した。
 あの春の部屋のなかで、お前が俺を突き放したように。

 お前なんか、俺の想いで死んでしまえばよかったんだ。

 そう、ひとことだけ。













epilogue:It abhors.

「結局世界はそう簡単には終わりやしなかった。人間はしぶとく生き残ってるし、俺もまだここに居る。世界なんて、所詮こんなもんだ」















 












棺 に  愛 の  言 葉



美しさは傷を残す。
愛の言葉はあなたを棺に縛りつける。























































2012/12/19
「棺に餞別」の色々詳しいバージョン。
たぶん日本さんとの約束篇とか、兄ちゃん目線篇とかがあるんだと思う。


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