夢の降る場所ならよかった。星と同じように、隕石にならないうちに、尽きて消えて、霞んで死んで、そういう場所であればよかった。それが優しかった。
そうであって欲しかった。
俺は、何も失いたくなかった。








落 つ る 泪 に 約 束 を











1.

 黙っていた。それしか出来なかった。機械の無機質な音が聞こえた。それらは振幅もなく、ただ一定の音を放ち続けている。姉上の心臓が止まったことを知らせる音だった。ぴー、と。間の抜けた高い音。ずっと、耳の傍で続いている。いつもだったら、きっと耳障りだと云ってバズーカででもなんででも吹っ飛ばしていただろう。けれど俺は黙っていた。それしか出来なかった。姉上の心音は止まっていた。それだけが、そのたった一つの現実と事実とが俺の時間を止めていた。筋肉は繊維でなくただの肉塊となっていた。脳みそは信号を発しない。俺は動かない。目と、耳だけ。そして握った拳の感覚だけ。それだけが機能する。先ほどまで笑っていた姉上の綺麗な顔と、一瞬前まで確かに俺の拳を握り返してくれていた白い指先と、そしてそれに触れる肌の柔らかさと、それらだけを、俺は今、認識している。
 それだけを。
 病室は静かで、白かった。やわらかさとは程遠い無機の白さだった。仄暗くも視えた。機械に囲まれて、姉上はそれらに繋がれている。ああ、苦しかったろうな、と、俺は黙って考えていた。そして思う。ああ、喪ったんだ、喪ってしまったんだ、と。認識。繰り返すように、理解するように。何度も。悲しんでいる、ふり。
 いや、悲しんでいるんだ。俺は、きっと悲しかった。ただ握り締めた姉上の白い手の感触だけが確かだった。冷えて失われていく体温だけが、同時にまた、確かだった。
 これが喪うこと。喪われること。死んでしまうこと。
 冷たくなっていく姉上の指が、ほっそり伸びやかに、美しい。
 だのに、俺は。
 嗚咽しているはずなのに、泪が流れているのに。
 自分の感情がどこにあるのか、俺には分からなかった。



 泣いているんだろうな、と。考えていた。そして、ひどく困惑しているんだろうな、とも。自分の感情と向き合えない子供は、きっと、自分が泪するその感情をうまく呑みこめないでいるだろう、と。子供は、別に感情がないわけではない。その機微に気づかないわけでもない。ただ、思い込んでいるのだ。自分は欠けていると。自分は感情を知らないと。自分は人の痛みを知ることができない、と。思い込んで、冷たいふりをして、そうして生きてきたものだから、いざ本物の感情を、悲しみを目の前にしたとき、それが何なのか、名前はなんというのか、自分が抱くもので正解なのか、何も、確かなものだと分からなくなる。実感を得られない。自分が悲しむわけがないと、どこかで疑心を抱く。そういう子供だったから。沖田総悟は、そういう優しい子供だったから。きっと、最愛の姉の死を前にして、自分の泪の意味を量れないで、自分が泪することを、悲しんでいるという自分の感情を、悲しみを、信じられないでいるのだろう。困惑しているんだろう。そう考えていた。そしてそれは、全てが全て、俺に返ってくる思考だった。
 泣いているのも、困惑しているのも、俺だった。
 屋上で、彼女が好きだったスナック菓子を貪った。そして泣いた。この屋上の下の下、階下の白い病室で、大切だった姉と弟は、永遠の別れを交わしている。さようなら、と、悲しい最期を、交わしている。大切だったのにな、と、俺はスナック菓子を貪り続ける。
 彼女と、彼女の弟とを守りたかった。思い上がりで、自己満足で、そう思っていた。けれど実際のところ、自分がしたのはただあの姉弟を傷つけて引き裂いてどうしようもない悲しみに追いやった、それだけだった。彼女を突き放し、子供を突き飛ばし、そして最期の帰結が、これだ。
 ああ、全部俺の罪だ。咎だ。
 泪は流れていた。口の中は辛さで痺れて、もう何一つ感じたりもしない。ただ抱くのは、確かなのは、もう取り戻せない、その喪失感。虚無感。泪を流すことさえ、罪深い。
 ああ、俺は、人を不幸にする者だったのだと。昔から分かっていたのに。
 俺は人の子ではなかったのに。
 分かっていたのに。
 俺は、

「人の子じゃない?鬼の子?アンタ馬鹿なんですかィ?」
 ふと目を開くと、目の前には屯所の庭があった。俺は縁側に腰掛けていた。紺の着流しに、痛んだ草履を履いていた。屯所の庭は、少し荒れている。雑草が目立った。山崎め、手入れを怠ってやがる。
 空を仰ぐと、抜けるような快晴だった。空が高い。遠い。青さよりも蒼さが際立っている。雲はない。だが、天人の船が時折一本の白い筋を残して空の蒼を汚していった。
 夏、か。俺はぼお、としながらそう思う。
 右手には煙草があった。火が点いていない。こいつの前では吸えないのに、無意識に手にしていたらしい。それを俺は懐へしまった。
 背後で、ごほごほと咳き込む声が聞こえた。「ねえ土方さん、」総悟の声。
 す、と。
 首筋がふいに冷たくなった。
 視線だけを移せば、首筋に冷えた刀身が当てられていた。背後に総悟が立っていた。先ほどまで布団に臥せっていたのに、一瞬の動作で身を起こし、抜刀し、俺の首を捕りにかかっていたらしい。病にかかり、身体を衰えさせてなお、こいつの傍らには刀だけがあり続けた。
 俺は黙っていた。
「鬼の子っていうのはね、」総悟が虚ろな声音で続ける。
 刀が首筋を刎ねないように、ゆっくりとした動作で後ろを振り返った。すると、白の着流しを着た子供が、こちらへ刀を向けていた。少し伸びた亜麻色の前髪の奥で、臙脂色の瞳が覗いていた。光のない水晶体。顔色は悪い。青白い。心なしか、以前よりも一層頬がこけた気がした。青白い陶磁の肌の上に、唯一赤みを残した薄い唇だけが置いてけぼりだった。
 病は確実に、彼の身体を蝕んでいた。
 ごほ、と。一つ、せり上がるような鈍いくぐもった音をさせて、総悟は咳をする。空いた方の手で口元を押さえていた。その指の隙間から、赤いものが見えた。ぴちゃりと、それは床に落ちた。そして更に激しく咳き込む。ごほ、ごほ。ぼたぼた。赤く生温い液体。落ちて痕を作る。床を浸す。俺は黙っている。赤は飛んで、俺の着流しの裾と胸とにかかった。俺は総悟を見詰め続けた。
子供は、荒い呼吸を治めながら、俺の首筋にぴたりと刀身を当て続けている。それだけは離さずにいる。「鬼の、子はね、」苦しげに告げられる言葉。
「鬼の子はね、俺の、俺の役目でさァ。アンタになんざ、譲ってやんねえよ」
 赤い口元を歪ませて、俺に刀を向けて、総悟は云う。
 だから。
「だから、安心して、後悔しながら死にやがれ」
 子供は赤いまま笑っていた。口元は歪んで弧を描いていた。だのに、こけた頬は緩やかで、目尻は優しく、細められた瞳は穏やかだった。
 子供は優しい笑みを浮かべていた。
 その笑みを長く見詰めるいとまもないまま、総悟の身体は崩れ落ちた。俺の胸へと、小さな形よい亜麻色の頭が落ちて被さる。首筋に当てられた刀は、その動作とともに俺の肩を掠めて床に落ちた。首の皮を傷つけずに。肩を切り裂かずに。器用なやつだ、と思う。
 胸の中へと崩れ落ちた子供の身体は、成人を向かえた男のものにしては、あまりに貧相で、貧弱で、そして脆弱だった。華奢だった。それが、悲しかった。いつかの彼女の最期を思い返させた。
 荒い呼吸は続く。薄い肩が、上下している。
 俺は目を閉じて、その身体を抱き締めた。
 すまないも、ごめんも、何も云えなかった。

(お互い嘘を吐きすぎやしたねィ、土方さんよ)

 総悟の声が聞こえた気がした。



2.

 土方と殴り合いをした。いつもよりも少し激しい殴り合いだった。拳を交えるとかそんな綺麗なものではなく、相手が拳骨をしてくれば俺はその脛を蹴り上げて、それに反撃で胸ぐらを掴まれれば、その額に頭突きを返してやる。そういう汚い土煙の喧嘩だった。見かねた近藤さんが止めに入ってくれなければ、俺は次に奴の長い後ろ髪を抜き取ってやるところだった。惜しかった。
 家へ帰ると、姉上が救急箱を手にして待っていてくれていた。不安そうな顔だった。このとき俺は初めてほんの少しだけ反省した。あの野郎の毛根が死滅したところで何一つ思いやしないが、姉上が不安そうにしているのはだめだ。それはよくない。一番よくない。でもあの野郎はむかつく。幼い俺は板ばさみだった。だから、その日俺は姉上の顔を見ても不機嫌なままだった。
「そうちゃんはどうして十四郎さんが嫌いなの?」
 怪我の手当てをしながら、姉上が困ったように訊いてきた。小首を傾げて、俺の顔をまっすぐに見ながら。不安げというよりも、それは困惑の顔だった。俺はぶすっとしながら、その言葉に何も返さず、返せず、庭の向こう、山の波間に落ちていく夕日を見ていた。
「そうちゃん、」
 姉上が促す。俺はしぶしぶ口を開いた。
「……あの野郎は、嘘つきで卑怯な最低野郎だからです」
 ちら、と、落ちてしまった夕日の名残から目をそらし、姉上を見た。姉上は、夕焼けの朱色に染められながら、俺の顔を見続けていた。きょとんとしていた。もう一度小首を傾げた。不思議そうに、俺と同じ臙脂色の瞳を瞬かせて、云う。「そんなことないわ」
 「そんなことないわ、そうちゃん」
 姉上は微笑んでいる。俺の腕を取りながら、軒先を背景に、夕陽を背負って、逆光に輪郭をきらきらさせながら。
 微笑みというよりは、それは静かだった。静寂の表情だった。静謐に、姉上は笑っていた。
 それは受容のような、慈愛のような、諦観のような、どこまでも透き通った、形容しがたい美しさだった。弟ながら、こんな会話の中ながら。なんて美しい人なんだろう、と俺は思う。
「あの人は約束を守る人よ」
 消毒液を塗っていた片手と、もう片方、包帯の巻かれた手とを、姉上がとる。透明の薄い貝殻のような丸みを帯びた爪が、くるり、つるり、光った。それら一連の動作と輝きとを見詰めながら、幼い俺は黙っていた。
 夕陽は傾きすぎて、俺と姉上の影が、何もない畳の間の中へと細く長く伸びている。
 夜が近かった。
 姉上は云う。
「十四郎さんは、誓いと契りをまっすぐに貫く人よ」
 大丈夫だもの。俺の両手を自分の両手で包み込みながら、姉上は満足そうに溢した。俺の両手は幼く、丸く、姉上のほっそりとした拳の中にすっぽりと埋まっていた。幸せにくるまれていた。温かかった。熱かった。肉体と命との温度だった。
 けれど、夜は近づいていた。俺の背後に忍び寄っていた。いつしか朱色の陽光は傾き、無くなり、伸びた影はそのまま宵闇へと同化してしまう。二人分の影などはじめからなかったかのように、畳の間はただの暗がりの箱へと変貌してしまう。
 暗かった。
 そして、その暗がりの中、握り締められた両手は、次のまばたきの間には温度も感触も変わってしまった。温かさは冷たさに、幸せのくるみは哀切のそれに。
 何より、俺の拳が変わってしまっていた。無骨にごつごつと骨ばった指先は、姉上の白い指先の中にはもう納まることができなかった。
 髪を結い上げ、山吹色の着物を着ていた姉上は、いつの間にか髪を切っていた。患者服を着ていた。顔に赤みはなく、手のひらの中に命の温度は僅かだけ。
 闇夜のいつかの畳の間で、隊服を着た俺ともう長くない姉上とが、両手を握り合っていた。
「ね、」か細い姉上の声。「云ったとおりでしょ?」
 それは、病床の人間が発したようには思えないほどに。
 とても嬉しそうな声だった。
 自慢げに、誇らしげに。安心したように、安堵したように。
 これでよかったのよ、と。
「あの人は、約束を守ってくれたでしょう?」
 そうちゃん。
 そうして別れの宵の明けは、すぐそこまで。

(でも、姉上を選ぶことだって、あんたには出来たはずなんだ)
 誰もいない暗がりの箱の中。いつか姉上と暮らした家、部屋、畳の上で、俺は一人立ち尽くしている。夜は更けきって、もうすぐに山の間に間に、突き刺すような朝日が差し始める。
 見たくもない感じたくもない、姉上のいない世界の夜明けが。
(あいつが姉上を殺したんだ。俺から奪って、挙句殺したんだ)
 眼の奥が熱かった。焼けるようだった。それが泪の前触れだとは知っていた。けれど、泪は流さなかった。篭る熱はおびただしい憎悪だった。こんな感情で、姉上のためと泪したくはなかった。そんなのは許せなかった。
 瞳が、水晶体が、虹彩が。赤く赤く染まっていった。



3.

 廊下を歩くその人の後姿に、俺は云った。「なあ、」
「アンタはどうして、俺を抱かねえんですかィ」
 土方さんは訝しげにこちらを振り向く。若干煩わしそうだ。
「はあ?」
「アンタ、俺のこと好きでしょう」
 さも当然のように、おはようございますと挨拶を交わそうとするような気軽さと手軽さで。俺は問う。
 屯所の廊下に人通りはない。皆、公務に勤しんでいるらしい。勤勉なことだ。俺は勿論サボりだ。
「なら、なんで抱かねーんですか」
 不思議そうな声音を繕う。
 土方さんはその俺の様子と態度に眉根を寄せていた。意味不明の生物を見るかのような、不審と疑心と猜疑との瞳だった。
「男を抱く趣味なんざねえよ」
 阿呆らしい、仕事しろ。土方さんは顔を背け前に向き直ると、そのまま歩き出していってしまった。
 さいですか。 
 乾いた思考。
 けど、その後姿に、俺はさらに問う。追い討ちをかけて突き落とそうとする。
「姉上を抱けなかったからですかィ?」
 ぴたりと。
 土方さんの歩が止まった。
「アンタは、ただ怖いだけなんだろ。姉上と同じ顔の子供を抱くのが。知ってるんですぜぃ」
 アンタが何で抜いてるのか。俺は知ってますよ。
 笑みを含むでもなく、嘲りを含むでもなく、嫌味ったらしくもなく。
 ただ突きつける。単調と淡白の刃で、目の前の男を殺そうと目論む。
 アンタはこの顔が好きなんだろ?
「遊郭へ行っては、亜麻色の髪の女を探してるそうじゃないですか」
「姉上じゃなきゃ駄目なくせに。俺も抱けないくせに」
「そのくせ離さないんですね」
 女々しい野郎でぃ。
 俺は言い募った。
 土方さんが、緩慢に振り向く。黒髪に隠れてその表情は伺えなかった。けれど、きっと傷ついたような顔をしているのだろう。怒りに震えているかもしれない。汚物を見るかのような眼で、俺を見返しているのかもしれない。それとも、軽蔑の瞳をしているのだろうか? どちらでもいい。こいつを言葉の刃で傷つけられるのなら、それでいい。
 たった一人を選べなかったくせに、
 俺のことだって選べなかったくせに。
 土方さんは完全にこちらを振り返ることなく、肩越しに、その瞳さえ覗かせずに云った。
「自分の云った言葉で、傷ついてんじゃねーよ」
 
 何を云っているのだろうかと、つかの間思う。土方さんはこちらへ完全に向き直ると、まっすぐに俺の目を見た。瞳を、鴉の濡れ羽色で射抜いた。見透かされたような心持ちになった。肩が少し、跳ねた。
「……何を云ってるんでぃ。耄碌したんですかぃ? 日本語通じないんですか?」
「そんな泣きそうな顔して、何が抱くの抱かねえのだ」
 躊躇なく、目の前の男は続ける。
 彼の背後の廊下の奥が、底の見えない、とても深くの宵闇に見えた。その先に、あの一人きりの畳の間が続いてる気がした。
「ガキには十年早いんだよ」
 懐から煙草を取り出す。火を点ける。宵闇の手前に、灯かりが射す。
 そうして、土方さんは廊下の奥へと歩き出そうとする。
 暗闇のその向こうへと。
「そうやって」
 俺は、その後姿に投げつける。
 感情の塊。
「そうやって、アンタがいつも逃げるから!」
「だから姉上は死んだんだ!」
 吐露。
 激昂の汚濁。
 汚水。
 本音ともいう、それ。
 吐き出したら、驚くほどに簡単だった。
 こいつのせいだって。 
 本当は、そんなこと、もう微塵も思っていやしないことに。
(殺してやる)
(お前なんか)
 感情と理解の齟齬。ちぐはぐに噛み合わない自らの全て。
 それらに、俺は唇を噛み締めた。
 血の味がした。



4.

 知っているんです、姉上。俺は、知っているんです。
 全部、姉上の云うとおりだったってこと。
 アイツが、姉上との約束を、契りを、誓いを、守り通して生きていく男だってこと。
 俺がアイツを殺す道理は、すでに破綻していて。
 もう逃れられなくて。
 けれどほころびは、ほころびのままで。姉上は死んでしまって。俺は一人で。アイツはやっぱり、姉上も近藤さんも奪っていってしまって。俺はアイツがどう足掻いても嫌いで、憎くて、妬ましくて、疎ましくて。
 どこにもいけないんです、姉上。
 俺は、苦しいです。
 手の平ばかりが、赤いのです。
 今、どこに居ますか。どこで笑っていてくれてますか。
 ……姉上は、あいつを、許していますか。

 愚問だと分かっていた。姉上は初めから全て分かっていたし、全て許していたのだから。
 だから俺は、ただ姉上の死を受け入れる。それだけでよくて、それしかなくて、それだけの話なのだ。彼女の死を受け入れて、あの男の背中を、誓いを貫くその姿を最期まで見届けてやれば、それで、それだけで。本当は、そんな風に単純な話だったはずなのだ。
 でも、
「……できません、姉上」
 俺はあの畳の間で丸まっていた。
 宵闇は濃く深く広がっている。視界は悪く、畳の匂いとすべらかな感触とが確かだった。懐かしいそれらだった。だから、横顔を押し付けてそこに丸まり続けた。
 明けない夜の部屋の中、俺はそこから出ることが出来ずにいた。
 腕の中には愛刀がある。畳の暖かさとは裏腹に、鞘はひどく冷えていた。鈍く黒光りを放ち、俺の腕と胸との中で眠っている。その刀身を強く握り締めた。指先が潰れてしまうのではないかと思うほど、ぎゅっと、強く、痛く、傷みで握って。そして、意味もなくその力を緩める。握り締めた刀身が、指先から温まることなどなかった。
 殺してしまえれば、楽なのに。
 暗闇。宵闇。仄暗い世界。丸まって、目を閉じて、世界と現実を遮断して、ただ一人の笑顔を思い浮かべる。
 知ってる。
 俺は、知っているんです。
(俺は怖いだけなんだ)
(姉上が死んだことを受け入れるのが、怖いんだ)
 遮断された世界と視界の向こうもまた、暗かった。黒かった。怖かった。思い浮かべたはずの姉上の笑顔さえない暗がりだった。怖かった。だから、また目を開いた。瞼を上げた。
 そこは、畳の上ではなかった。俺は隊服を血に染めて立っていた。列車の車両の中だった。ごとごとと振動が伝わってくる。動いている。車両の中は非常灯だけが点いており、赤かった。目の前に立ち並ぶ見慣れた顔つきの男たちも、俺の身体も、赤い光で照らされていた。おあつらえ向きの舞台じゃないか、と俺はせせら笑おうとした。だが、表情筋と言の葉とは別のことを示した。俺は何か言葉を発し、男たちへ語りかけると、その刀を抜いた。振るって落として斬りつけた。肉を削いで裁って刻んで、血しぶきが盛大に散って。そして俺は笑っている。死んじまいなァ、と、にんまり、鋭利な口角を吊り上げて笑っている。
 男たちはまだ残っていた。だから俺は歩き出した。斬りつけて斬り捨てて斬り破って殺してしまわなければならない。ゆっくりと、右足を、左足を。交互に。歩いて。血のついた刀身を一振り。飛沫。ああ、そうだ、そうなんだ。
(そう、姉上との誓いを妨げる奴らは皆、俺が、この手で、)
 ふらふらと、足取りは緩やかに軽く。軽快に。相手は警戒を強めて。構える。刀。それらをなす術もないままに切り伏せる。横に薙いで、腕先を飛ばす。飛沫。顔が濡れた。生ぬるい温度。
(でも、一番殺したいアイツが、一番、)
(姉上との約束を、守っている)
 右後方から負傷した男が襲い掛かる。上体を前のめりにして、避ける。そのまま斜めに刀を振り上げれば、相手の腹が裂ける。裂けた。男の口から、大量のそれ。被る。背中が濡れた。布を通して、皮膚まで濡れた。気持ち悪い。
(じゃあ、じゃあ俺は、)
(いったい誰を殺せばいいんだ?)
 思考は定まらないのに、動きだけは鋭敏だった。前のめりの上体を更に全身ごと屈めて、前方の男の懐へと一瞬の間に入る。驚愕の瞳と目が合う。引きつるその顔を見詰めながら、動けないでいる上半身へ、刀で貫く。ごぷ。血が溢れていく。俺にかかる前に右足で蹴飛ばした。それを見詰めた。目の奥が熱かった。焼けるように、爛れるように、らんらんと奈落の光を放つように、目の奥が疼いていた。瞳孔が血の色に染まっていくのを感じた。愉悦の色を浮かべていくのが分かった。俺の瞳は、赤くなっていた。
(赤い、眼。鬼の子)
(ああそうだ、俺は)
 あと一人。また背後から襲い掛かる。それを視認せず、空を斬る様に後方へと刀を振るった。俺の視界に納まらないままに、男は倒れた。
 どさりと、重たい音。
 呼吸の絶えた死体が転がった。それらは車両を埋め尽くさんばかりに倒れている。幾つも幾つも、どれもが何もが、もう意味もない有機物の塊でしかなくなっている。意味がない。価値もない。俺が絶った命だった物。それらを見下ろして、息を一つ溢して、俺は、赤く底光りする瞳を細めて笑った。「姉上、」
 目の前に、まるで姉上が立っているかのように。そちらへ向かって微笑みかけて、手を伸ばして、空を掴んで、指先の赤色を滴らせて。
 俺は何もない仄暗い空間に向かって呟いた。
 ねえ、おれ、もういいですよね。
「俺、あの人を許さなくても、いいんですよね」
 誰も居ないから、泣きそうだった。



 お互い嘘を吐き過ぎた関係だから。それだけしか築けなかった繋がりだったから。言葉だったから。だから俺とお前は共犯で、共同体で、そして決して交われない、決して殺せない相手だった。
 だからお前は苦しむんだろうか。だから俺には、お前の幸せを搾取するような人生しか贈れなかったのだろうか。
 総悟は縁側に横たわって、ひゅー、ひゅー、と、浅い息を繰り返していた。肩で息をするよりも、胸の浅い部分で必死に酸素を吐き出しているような様子だった。伸びた前髪でその瞳は窺い知れない。ただ、耳障りに不吉な濁音を混ぜたその呼吸が、俺の鼓膜を揺らすばかりだった。苦しげだった。仰向けに倒れこんだその身体は、やはり白く、細く、まるで幼子の矮躯のように果敢なかった。たおやかというにはあまりに歪に病的だった。そうか、こいつは病だったのか、と当たり前のことを思い出した。
 死ぬのか、とは問えなかった。百年後にまた会いましょうとのたまったのは、どの文豪だったか。そんな希望も未来も、俺と総悟には要らなかった。だから俺は問えなかった。願えなかった。死ぬなと、祈れなかった。
 一際大きく、総悟の肩が上下した。胸が凹む。こぷりと、赤いそれが口から溢れて止まらなかった。口の端から床へと落ちて伸びてゆく。木目を濡らして、広がる。口の中も唇そのものも頬も着流しも全てが全て赤い。赤く、紅く、鮮血よりも尚暗がりを帯びて、黒く、赤黒く。
 俺は子供の前髪を小さく掻き分けた。臙脂色の瞳が覗いた。苦しさに泪眼になったそこから、一筋、雫を溢れた。足早に、美しく頬を撫でて落ちた。臙脂色は水面のように揺らいでいる。たゆたっている。また、もう一つ零れた。生理的なそれ。憎しみのこもらない、愛情のこもらないそれ。純粋な水。
 臙脂色の瞳は、ただずっと俺を見ていた。
 俺もまた、その瞳と赤い口元とを見詰めていた。
「総悟、」
 頬に触れた。
 白い陶磁のそれは、思った以上に冷たかった。
 そして、生身に温かかった。
 生きていた。
(お前は、)
「お前だけは、永遠に俺を許さないでくれ」
 上半身を屈めて、顔を近づける。血と、死の香りがする。
 そのまま、口付けを落とした。
 触れるだけの口付けは、血の味しかしなかった。
 だから尊かった。
 唇を離しても、総悟は何も云わずに俺を見詰め返しているだけだった。臙脂色の瞳は泪でたゆたうだけだった。何も語らなかった。何も伝えなかった。言葉が無益だった。俺は優しく笑うことも出来なかった。
 しばしの間、そうして無為な空間を共有した。
 交じり合えず分かり合えず、理解もできずに、ただもうお互いの存在を望むことさえ、出来やしない。そんな二人のいつかの終わりを、俺は考え続けた。
「大丈夫ですよ、土方さん」
 声。
 雑音交じりに連ねられる。
 ごほ、こぷり、また溢れる赤色。
 見詰め返すその白い顔を、俺はきっと永遠に忘れることは出来ない。
「あの世でだって、ずっと呪ってやりますぜィ」
 そうやって、子供は優しく笑うから。
 だから俺も、何も果たせない約束のように、笑みを返した。



















A promise is made in the tear which fell.

good-bye.




































結局いちばん土方を許している沖田の話

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