忘れてしまえるのなら、いっそ忘れてやりたかったですよ。 黒子は呟く。黄瀬は、ふうん、と曖昧に返す。聞いているのかいないのか、それは実に何ひとつ判然としないもので、とても関心を持つそれとは云い難いものだったのだが、しかし黒子にとってはむしろそれらどうでもよさげな黄瀬の返答さえ有り難いようなそうではないような、そういう自身のなかでさえ曖昧にどうでもいいもので、つまりはお互いがお互いによく相手を見もしない一言だったのだ。黒子はバニラシェイクを啜る。黄瀬は窓の外を見遣る。いい天気スね。はい、そうですね。先ほどの呟きなんて、どこへやら、だ。春ですからね。そうスね。 鳥の囀りが聞こえた。窓辺には何も居ない。飛ぶ向こうから、こちらへ声を届けるだけの美しく玲瓏な、麗しくも澄んで透ったその歌声たちは、ある意味残酷であり残忍であり、そして陰惨でさえある。黄瀬は頬杖をついて、それでも窓の外を見詰める。青い。高い。届かない。あの人みたいだ。そう思う。あー、バスケがしたい。声に出さないのに、目の前の小さな彼だって同じ心持ちでいるだろう、不躾でありそして信頼に近い、確信。 そうやって、君はずっと空を見ている。 黙り続けていた黒子が云う。黄瀬は、そんなことないスよ、と返す。そんなことは、全然ほんとうに、ないんスよ。 俺だって、足元の影を見て、その濃淡に思うことのひとつやふたつ、あるんスよ。 空の如何によって、影は長さを変えてゆくでしょ。伸びたり縮んだり、薄くなったり濃くなったり。ころころ、変わるでしょ。俺みたいじゃないスか。黄瀬は、そこで初めて黒この眸を見た。うっそりと淀んで、そしてそれに反比例して、刻一刻と澄んでいく恐怖の硝子玉だった。何も映していないようで、その実すべて見ている。映している。ああ彼が鳥だったのだと、黄瀬はそのとき気がついた。 君は、鳥みたいですね。 黒子の、声。 黄瀬はブハ、と吹き出す。なんスかソレ。なんで俺と同じようなこと考えてんの。云ってるの。そんな、クサイこと、平然と。 俺は鳥なんかじゃないよ。 いえ、鳥ですよ。 なんで? 至極真っ当な、疑問の問いかけに。自由だったから。対するのは平坦な答え。 空のなかでないと、生きてかれないから。 違いますか? 黙る前に笑ってしまいそうで、笑う前に泣いてしまいそうだった。 空って、なんのことスか。誰のことスか。何を指してるの。誰を指してるの。 何を貶めてるの。誰を卑下している、の。 俺は黒子っちこそが鳥だと思いました。俯けて、瞼を閉じて、黄瀬は云った。もう何も見ることはできない。視界を閉じる他ない。黒子は変わりに窓の向こうを見た。そうですか。空にあこがれて空がなくては生きてかれないという点では、確かにボクと君は同じ何かなのかもしれませんね。 窓の向こう。四角く切り取られたその先。黄瀬が見詰めたその空は青くて、しかしどこか澄んで透っていて、淡い水色のソレに近くもあったのだが、しかし今まさに黒子が見上げた先の空は、確かに青さを帯びているが、やはりどこかその色には別の色彩を忍ばせて滲ませていた。陽を落として、宵に落ちはじめた空だった。陽の周囲は徐々に徐々に、明確に明瞭に、淡い黄色を帯びていっていた。浸しかけ始めていた。夕陽が好きだと、黒子は思った。 それでも、ボクは影ですよ。 それでも、俺は鳥じゃないッスよ。 欲しいものは同じで、居たい場所も同じで、生きてかれない空の色も、確かに同じだったけれど。 それでもボクは、それでも俺は、君が、アンタが、 羨ましかった。 366の軌跡 2013.06.03 黄瀬くんと黒子っちは造りと本質とがあまりに真逆がゆえに似ているのだと思う。 全く違うものが、自分とそっくりなのに全く違う眩いものが、目の前にあったら、それってすごく怖いことですよねって話でした。 . |