「やぁ、今日もやってるかい」

その男は、居酒屋ののれんをくぐるかのように気さくな笑顔を浮かべ、私の前にあらわれた。
そのとき私は三度目の自殺を図った真っ最中で、高層ビル屋上のフェンスに足をかけているところだった。きょとんと間抜けな顔をしている私に、彼は言った。今日もやってるかい、と。
そうだ、私は今日もやっている。
今日もどうにかして死んでしまおうと、自殺を目論んでここまでやってきた。

これまでの二回の自殺計画は、すべてこの男の手によって未遂に完結させられてきた。
一回目、横断歩道で飛び出そうとしたところで腕を掴まれ、二回目、駅のホームで線路に飛び込もうとして腕を掴まれ、そして今日はビルから転落しようとして腕を掴まれた。
彼はいつもどこからともなくやってきて、私の腕をがしりと握りしめる。痛いほどに。

「そんな顔をしなくていいんだよ。人生って思い描いた通りにはならないもんだ」


△▽


男の名は、木舌という。木の下、ではなく、木と舌。変わっているのは名前だけではない。彼は私たち人とはまるで異なった世界に生きる存在だった。

「生まれは、地獄」

きみは死体みたいだね。すごく綺麗な死体みたいだ。
褒め言葉として受けとるには難しい口説き文句を吐いて、彼は私の腕を握りしめる。そのまま優しく彼の胸元へと引き寄せられ、私の一世一代の決意はまたしても未遂に終わった。
彼はそのまま、私の背中に腕をまわして私を包み込んだ。

彼の瞳をやけにまばゆく感じるのは、網膜に浮かんだ水分のせいだろうか。
緑って、綺麗な色だ。見つめているだけで、泣けてくる。

「もっと、自分を大切にするんだ。そうでなきゃ、おれは悲しいよ」

私のことをやさしく見つめるこの男は、私の前を歩かない。いつでも私のうしろについて、私の自殺願望をなんとかして食い止める。

「地獄の水先案内はしないの」
「いや、そういう仕事をするときもあるよ」
「……それなら」
「おれは、きみのファンなんだ」
「…………」
「好きな女の子をみすみす死なせる男がこの世にいるとおもう?」
「あなた、故郷は地獄だって」
「ちがうよおれはそんな言葉が聞きたいんじゃない。わかるだろ?」

彼の言わんとしていることを理解できないでいるほど、私は馬鹿でも愚かでもない。かろうじて。

「おれが助けてやれるのは、三回まで。これで最後だ。四度目はない。だから、生きて」

赤、白、緑、黄色。都会のビルから放たれる人工的な光は闇夜であっても輝きを失わない。現代の人間は、すこし働きすぎている気がする。一切の光を消してしまって、ただぼんやりと星空を眺めるだけの夜があったっていいはずなのに。
私はストッキングの伝線した後がくっきりと残る自分の脚をじっと見て、まだ、がんばれるだろうかと自らの心に問いかけた。
返事はなかった。
けれどすこし、気持ちがらくになった気がした。

「おれはいつだって、がんばってるきみのことを見てるし、応援しているよ」
「……ほんとう?」
「ほんとうさ」




「おれからひとつ言えることがあるとすればそれは、生き方を誤ってはいけないってこと。おれは知っているよ。おれが暮らす都に毎日落ちてくる連中が、どういう世界に生きて、どんな思考をしているのかを。努力って、基本的には報われないものだ。悲しいけどね。意味なんてないよ。そこに理由をこじつけるのはやめてほしい。きみのせいでもなければ、他者のせいでもないんだ。だから、自分を呪ったり、他人を妬んだりしないで。それは、ときに、とても難しいことかもしれないけど。でも忘れないで」


△▽

私は、以前のように橋の上を歩いていても飛び下りたいと思わなくなった。お風呂にお湯をはっても、溺死する自分を想像しなくなったし、車や電車と衝突するという願望も消え失せた。
刃物は、紙と食材を切るためにある。
会社の人たちとも、以前に比べると話せるようになった気がする。その証拠に、今日は上司に飲みに誘われた。
もちろん、嫌なことや悲しいことはあいかわらず溢れるほどに身の回りに起きているが、それでも以前のように死んでしまいたいとまで思うほどに悩むことはなくなった。
どうしてだろう。自分にもわからない。
わからないから、私にとっての嫌なことや悲しいこと、その半分くらいは彼があの世に持っていってくれたのだと思うことにした。
上司と酒を交わしながら、彼のことを考える。四度目はない、なんて言っていたけれど、彼とはまた、どこかで会える気がする。
たとえば、この店の赤いのれんをふわりとくぐって。

「やぁ、今日もやってるかい」

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