!死ネタあります







 記憶の奥にだけ住む人がいる。
 彼女について多くのことを俺は知らないが、うだるような暑さが四方八方に充満する夏日が続くとあのまぼろしのような日々を思い出さずにはいられない。
 蒸し暑い夏の日、淡い色合いの着物に身を包む女性、季節外れの淡雪のような、白い灰。 彼女は俺の上司である災藤さんのもとにやってきた花嫁だった。



・ ・ ・



 その頃の俺はいまより頻繁に彼からピアノの指導を受けていて、その場所は大抵、大きなグランドピアノの置かれた二人の住まう家であったから彼女と会うことも必然と多かった。
 災藤さんがなまえさんと暮らすために購入した家で俺がピアノの練習をするのはなんとも場違いな気がしてならなかったが、なまえさんは俺に対して十分すぎるほどよくしてくれた。 いつも笑顔で俺を迎え入れ、冷たい飲み物と甘い洋菓子を出して、災藤さんがくるまでのあいだ、退屈しないようにと俺の話し相手になってくれたし、帰りが遅くなった日は夕食をご馳走してくれた。

 災藤さんは仕事のために家を空けていることのほうが多かったそうだが、それでも彼女は幸せそうだった。
 しかし俺が帰って災藤さんがまた外へ出ると、彼女はこのひろい部屋に再びひとりきりになってしまうのだと思うとどうも胸が痛む。 たとえ本人がそれをどんなに幸せなことと思っていても、俺はあのとき、心のどこかでたしかに、彼女に同情をしていたのだ。

 開けられた窓からやってくる蝉の鳴き声や風鈴の涼しげな音は最初こそ落ち着かなかったが、いつのまにか日常化し、あたりまえのようにピアノの音色と共存するようになった。
 それに、極端に家具の少ない彼らのひろい部屋にあるピアノの鍵盤は驚くほど俺の手によく馴染んだ。 あの頃、俺はどんな曲でも二、三度練習をすればマスターすることができていたし、練習用のテキストなど開きもしなかった。 しかし自分のなかのなにかが開花しつつあることを確信しはじめた頃、俺はなまえさんが以前に比べて笑わなくなっていることに気がついた。
 厳密には、幸せそうに笑うことがなくなったようになっていることに気がついたと言える。 いつのまにか当たり前になっていた薄い笑みはまるで能面のように彼女の皮膚にはりついていて、おもわずぞっとしたのを、俺はいまでも覚えている。

「ピアノ、すっかり上手になったね。 佐疫くん」

 そう言って微笑んだ彼女からはおおよそ感情と呼べるものが一切読み取れず、俺はひどく困惑した。
 いったい彼女はいつからこんなふうになってしまっていたのだろう。 俺は、こんなにも頻繁に此処へきていたはずなのに。
 うつろな瞳に見つめられて、俺は身動きが取れなかった。 けれど、それは決して嫌なものではなかった。 俺はたちまち、胸を刺されたかのように息苦しくなり、 目には涙が浮かび、指は鍵盤のうえで震えていた。

「私は、あなたたちのようにはなれない」

 大人になることに抵抗する少女のような頼りない声を聞かされては、目の前の女性をどうにかしてあげたいと思わざるを得なかった。 だから俺は、わけのわからない使命感にかられ、衝動的に彼女の手を握りしめたのだ。

「なまえさん、僕は、あなたの味方です。 あなたがなにか非愁なものに思い悩む姿は、見ていられない。 もし、僕にできることがあるのなら、なんでも言ってください。 僕、あなたのためなら、きっとなんでもできます」

 口を突いてでた言葉に、俺自身驚かされた。
言い終えたと同時に恥ずかしさが込み上げて、赤面せずにはいられなかった。
 これではまるで、上司の大切な人に想いを寄せる男の哀れな告白だ。 なぜこんな浅はかな行動にでたのか、自分にもわからない。 もし彼女がこの手を握り返したとしたら、自分はその瞬間に立派に罪人だ。 体に押し寄せる熱気をすべて、夏の暑さのせいにして、俺は唇を噛みしめて彼女の言葉を待った。

 そして彼女は、俺の手を握ることはなく、ただ、嬉しそうにも悲しそうにも、俺にとってそれが彼女と交わす最後のものになるであろう言葉を紡いだのだった。

「やっぱり、佐疫くんは、あのひとに似ているね」



 最後の日、俺は彼女と目も合わせられなかった。
 青空の下で白く焼けた地面に打ち水をしていた彼女にぺこりと頭をさげて、そうそうにピアノの置かれた部屋を目指し、しばらく触れもしなかったピアノのテキストを開いた。
 俺が弾いたのは、此処に通いはじめた頃に練習した曲で、彼女が最も好んでいたものだった。 俺の指にあの頃の歪さはまるでなく、機械が弾いているかのような完璧な旋律を奏でている。
 彼女はいったい、それをどんな気持ちで聞いていただろう。
 どんなに叫びたかっただろう。 どんなに泣きたかっただろう。 どんなに、逃げ出したかっただろう──……。



・ ・ ・



 いまでも時折、獄都ですれちがう女性にハッとする瞬間がある。 それはその大抵がなまえさんによく似たなにかを持っている人なのだから、本当に救えない。
 あの人はもういない。 けれど、俺は、まだ心のどこかで彼女がこの都に舞い戻ってくるやもしれないという期待を抱いているのだ。
 いつまでもいつまでも、夏のまぼろしのような彼女の面影を探し続けている。 それなのに、もう俺は彼女の声も思い出せない。

「この体はとても便利だ。 どんなに大きな傷もたちどころに治ってしまうし、老いることもない。  ……私は本当に、彼女のことを愛していたんだ。 だからこそ、彼女と永遠に寄り添うことができれば、それはどんなに幸せなことかと思った。 きっと、愛しすぎてしまったんだね。 彼女の気持ちなど、考えもしなかった。 ……あの頃の私は、いまよりまだ、若かったから」

 二人の結婚生活は僅か三ヶ月で終止符をうった。
 ピアノの練習を終え、災藤さんと俺とが特務室へと戻ったあと、彼女はあの家に火をつけて建物もろとも灰になった。
 家のあった跡地には、ほとんど形を留めてはいないグランドピアノの傍らに彼女のものと思わしき灰のようなちいさな骨が落ちていた。 たかだか家事でこんなになるのは普通ありえないことなのだが、科学では到底証明できないものがごまんと存在するのが獄都なのだ。
 そうすれば此処はまちがいなく、彼女にとっての火葬場だったのだという説明がついた。

 翌日、なんでもないことのように書類に向き合っていたこの人が、本当は深く傷ついていたことを俺は誰よりも知っている。 俺たちの前にいるときは堂々としていて、おくびにもだそうとはしなかったけれど、本当は夜中に、肋角さんとお酒を交わしながら涙を流していたことも知っている。
 たった三ヶ月。
 それは俺たち鬼にとってはまぼろしのように現実味のない期間だった。


「そのとき私は、私があれほど渇望した永遠がもう二度と手に入らないものになったのだということを悟ったよ。 朽ちることのない肉体でも、時の流れに左右されることのない精神でも、私が本当の意味で望んだ彼女との永遠は二度と訪れることはない。 どれだけ朝をむかえようとも、どれだけ四季がめぐろうとも──」



・ ・ ・


「……僕は、もうなまえさんの声を思い出せません。 このまま、名前も、顔も忘れてしまうのかと思うとおそろしいです。 自分という鬼が」
「それが正しいことなんだよ、佐疫。 私ひとりが背負うべき咎を、わざわざお前まで背負う必要はないのだから。
……彼女は、私を呪いながら灰になった。 だから私が彼女を忘れることはなくとも、お前が忘れるのは当然のことだ」
「災藤さん、僕は知っているんです。 貴方がどれだけなまえさんを愛していたか。 なまえさんだって、貴方のことを想っていた。 それなのに、どうして、こんな結末になってしまうんですか。 僕にはそれがわかりません……」
「それは、私にだってわからない。 あのね、お前、わからないことをすぐに私に尋ねるのはやめなさい。 私だって、わからないことはたくさんあるのだから……」
「す、すみません……」
「それから、佐疫。 これは失敗した私だから言えることだけど、もし、この先、すべてを捧げてもいいようなお嬢さんに出会ったときは、なにがあってもそばにいてやりなさい。 たとえ、私や肋角がどれほど反対をしたとしても、お前が本当にその人を愛しているのなら、絶対に手離してはいけない」

 何故、いまそんな忠告をされるのか。
 それは彼女と俺が最後に交わした言葉を思い出せば簡単なことだった。

 それでも俺は特務室の皆を選ぶだろう。 たとえどんなに美しく可憐な女性と恋に落ちようと、どんなに甘く幸せな日常をすごそうと。
 きっと俺は、この人たちを裏切れない。
 自分の感情のみを優先するようになってしまったら、それはもう俺であって俺ではないのだ。

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