! 暗いです





「また、こわい夢をみたの?」

 ぐっしょりと汗に濡れた私の前髪をかき分ける佐疫さんの手はひんやりしていて気持ちがいい。 すこしだけ眉間にしわが寄っているのは、私のことを心配してくれている証拠なのだろう。 ここのところ私はよく悪夢にうなされる。

「大丈夫、僕がいるよ。 僕がなまえを守ってあげる」

 そう言ってシーツごと私を抱きしめた佐疫さんの心臓からは私のと同じような規則正しい音が流れ続けていた。 優しい人。 この人が私のことを特別好いてくれているなんて、私は未だに信じられない。
 彼の背中に腕をまわして、胸に顔をよせる。 そのときにこつんとあたった鉄の塊のようななにか固いもの。 それが拳銃だということを私が知ったのはそれからしばらく先のことだった。



+ + +


 彼っていうひとは、どうしてあんなにも優しくて、物知りで、綺麗なのだろう。 彼の背中なら、何時間だって見つめていられそう。 これまでの私の人生に登場した男の子で、こんなに素敵な人がかつていただろうか。

 その頃の私は、何者かに追われ続ける悪夢を毎日のようにみていて、目の下にはひどい隈ができていた。 追いかけてくる相手の顔は見えない。 追いかけられるのは毎回決まって暗闇のなかなので、見えるものといえばせいぜい相手のシルエットくらいなものだ。
 なぜ、顔も知らない相手から追われ続けなければならないのか。 まるで心当たりがない。 それとも忘れてしまっているだけなのだろうか。

「アップルパイを焼いたよ。 今日のは自信作なんだ」
「うん、おいしそう」

 彼はにこりと目を細め、人懐こい笑顔を浮かべている。 たった一度のその微笑みだけで、私の体は地に根をはった植物のように動けなくなる。 胸がどきどきと高鳴って、この人のことが好きで好きでたまらないのだと心臓がうるさくなる。 あぁ、本当に奇跡だ。 今この目の前にいる人と、自分が恋人同士だなんて。 女の子は誰だって彼のことを好きになるだろうけど、彼はそうじゃない。 私なんかより、もっと似合いの女の子なんてたくさんいたはずだ。 それでも彼は私を選んだ。 これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぶというのか。

 パイ生地がさくさくと口の中で砕けていくのと同時に、りんごのあまい香りが口内いっぱいに広がっていく。 私は彼の作るこれが本当に大好きだった。



+ + +


 起きたばかりで、力の入らない体をなんとかして引きずりながらリビングへと足を向ける。 鉛でも括りつけられたかのように体が重かった。 私が規則正しく朝に目覚めるのなんて滅多にないことだから体が驚いてしまっているのかもしれない。

「おはよう」

 キッチンからひょこりと顔をだした佐疫さんは水色のエプロンをつけて菜箸を握っている。 どうやら今日も、何時に起きてくるかわからない私のために二人分の朝食を作ってくれているようだった。

「今日は随分はやいね」
「目が冷めちゃって」
「うん、そっか。 ちょうどいいから、ごはんにしようよ。 鯵を焼いたんだ」
「あじ」
「そう、鯵」




「小骨をとってあげる」

 そう言って彼は私の眼の前の鯵の腹に箸をつきさし、ふっくらと焼き上がった身をほぐしながら所々に隠れている小骨を丁寧に取り除きはじめた。 彼は箸の使い方がとても上手い。 食べ方もとても綺麗で、そういう、ふとしたしぐさに私はいつも彼の育ちの良さを感じる。 彼の親はきっと随分教育熱心な人だったのだろう。 それにしても私は本当に、なにからなにまで彼の世話になりっぱなしだ。 そのうち本当に彼なしでは生きていけないような体になってしまうかもしれない。

「そんなに甘やかさなくてもいいのに」
「……僕が、甘やかしたいんだよ。 誰だって好きな子には、優しくしてあげたいって、思うでしょ?」
「佐疫さん……」

 一言一言大切そうに、ゆっくりと発せられた彼の言葉に私はおもわず涙ぐんだ。 きっと、いまならなんだってできるはずだと思った。 毎朝規則正しく起きられるような気がしたし、悪夢にうなされることだってなくなるような気がした。 なんでもない、時計の針が進む音や、白米からほかほかとあがっている湯気が愛おしくてたまらないのは、きっと本気で彼のことを愛しているからだ。 私の彼にのみ向ける感情は日に日にかさを増していく。

 彼の言葉には、魔女も顔向けの魔力が含まれていた。 それは時にはこうして私の心をときほぐし、時にはひどく傷つけた。
 聡明な彼はきっと、私なんかよりずっと先にそのことに気がついていたのだろう。



+ + +


 歩き疲れた子供みたく地面に腰をおろしている私の足元には、あらゆる種類の銃が星のように散らばっていた。 あたり一帯が暗闇に包まれているというのに、不思議と銃の区別ははっきりとつく。 私を追い回す例の男はもうすぐそこにまで迫ってきていた。 殺される。 そう直感するのとほぼ同時に、私の利き手は一番近くに転がっている拳銃を本能的に掴んでいた。 扱い方なんて到底わかるはずもない異国の銃のはずだった。 けれどもそのときの私は自分でも信じられないような慣れた手つきとスピードで、立て続けに発砲し、リロードし、さらに発砲をした。
 ばしゃばしゃと噴水のように水しぶきがあがる。 それを見て私はようやく、自分が座り込んでいたのはただの地面ではなく川の浅瀬であったということに気がついた。 

 相手の男が私に突き付けたものもまた、銃だった。 騎兵銃の黒い銃口がまっすぐこちらに向いている。

「なにが、目的なの……?」
「どうして、私を追うの!」
「あなたは誰なの……ッ!」


 かちり。 男が引き金を引く。 その瞬間、どこからともなく差し込んできたスポットライトのような細い光が彼の姿をはっきりととらえ、その素顔を浮き彫りにした。 私は言葉を失った。 目が覚める。


 男は私の最愛の人とおなじ顔をしていた。

 


+ + +


 本当はとっくに気づいていたはずだ。
 悪夢から私が目覚めたとき、決まって彼がそばにいた理由。
 私は彼が眠っているところを見たことがない。 もともと私の生活は不規則だったけれど、でも、それにしたって、一度も彼が寝ているところを見たことがないなんてそんなのはおかしすぎる。

 私が何かに勘付いていること、彼はすぐに察知をした。 毒々しい赤色をした夕焼けが窓から差し込んでくるせいで、目がひどく痛む。 彼は笑っていた。

「佐疫さんはいつ寝てるの」
「君が眠ったあとにちゃんと寝ているよ」
「普段、なにをしてるの」
「なまえの世話をしてる」
「どこからきたの」
「遠いところだよ」
「両親は」
「いない。 けれど、親のような人ならいる」



 気づくと、夜だった。つい先程まで禍々しい色をした夕焼けが部屋全体を真っ赤に染め上げていたのに、私の体はすっかり夜の闇に溶け込んでいた。 ブヴヴン……と換気扇が回り続ける音だけがいつまでもいつまでも鳴り続けている。 佐疫さんはゼンマイ式の人形のように私の前でぴたりと立ち止まっている。 違っているのは彼の身につけている衣服が深い緑色をした、軍服らしきものに変わっているということだ。 いったいどこの国の軍服だろう。 見たことのないデザインのものだ。 

 まったく、なにがどうなっているというのか。
 考えれば考えるほど、こんな時間が永遠に続くような気がして頭がおかしくなりそうだ。 彼はじっと私を見つめている。 いつもの柔和な笑顔も、優しい声もなく、まるで知らない人みたいになってしまっている。

 ガシャン。 彼の羽織る外套から黒い鉄の塊が転がり落ちていく。

 それはまぎれもなく、夢のなかの自分が彼に突きつけたものと同じ銃だった。


「これは、俺の宝物。 いつも肌身はなさず持ち歩いているんだ」
「けれどこれ単体じゃあ意味がない。 やっぱり物には持ち主がいないと。 君も、そう思うだろ?」
「俺は、ときどき死ねることのできる人間を羨ましく思うよ」
「なにも敵うことのない、絶対的なものが欲しい。 ……俺はね、君に殺されたいんだ。 君に崖から突き落とされたいし、メッタ刺しにされたいし、薬を盛られたい。 死ぬほど君のことが好きだから。 忘れられない絶対を体験したい」

 真っ暗闇のなかで彼の宝石のような瞳だけがちかちかと光をはなっている。 私は途端に自分が誰と話をしていたのかさえもわからなくなってしまい、目の前の男の名前を口にできなくなった。 あなたじゃない。 私が好きになったのは、あなたなんかじゃない。



「かなしいね、なまえ。 ……俺を見てそんな顔をするんだから、君の好きになった僕なんてはじめから存在してはいなかったのさ」

 彼の顔に埋め込まれた水色は、虚しく光り続けていた。


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