!死ネタ











そのとき俺は、あぁようやく彼女のもとに帰ることができると内心でほっとしていた。俺が彼女のもとから離れて随分経ってしまったが、それでも名前は律儀に俺を待ち続けているに違いない。たまには花でも買って帰ろうか。俺は雪の積もった道にざくざくと足を沈めて、彼女の住まうおんぼろ小屋を目指す。沈みかけた太陽がそこら一帯の雪景色をオレンジ色に染め上げていて、いまにも爽やかな柑橘系の香りがただよってきそうだ。
俺が彼女のもとを離れると伝えた最後の日、名前は桃色の薄い唇を震わせ、目には大粒の涙をためながら情けない声で「いってらっしゃい」と俺の背中を弱々しく押した。どんなときでも俺の味方でいてくれる、天使のような人だった。俺は彼女のそんな強がりを心配するのと同時に、どうしようもなく愛おしく感じて、必ずこの家に帰ってくるのだということを糸を結ぶみたいに固く決意した。


いつのまにか日は落ち、辺り全体が獣の腹のなかのような暗闇に包まれていた。雪の混ざった風が前方からひゅうひゅうと吹き付け、俺のコートは旗のように激しく揺れ動いていた。花が、台無しにならないといいんだが。
俺は、行き道にある花屋で買った薔薇の花束をかばうようにして、星も月も雲に隠れた完璧に孤独の世界をなんとか突き進み、ようやく見覚えのある小屋を見つけだす。やっと心から安堵の息を吐くことができた。見間違うはずもない。あれは、名前の家だ。
風の音にかき消されないようにすこし大げさにドアをノックすると、少ししていぶかしげな表情をした名前がひょこりと顔をだす。なにやら不穏を集積したものを見るような目を俺に向けていた彼女だが、俺が「ただいま」と伝えるとすぐに「おかえり」といつもの顔をして小屋のなかへと俺を招き入れてくれた。その姿に俺はなんだか奇妙な違和感を感じたが、彼女が微笑んで俺のコートをハンガーにかけ始めた頃にはそんなことはすっかり頭の外にはじき出してしまっていた。

部屋の中は随分と様変わりしていた。家具、服、小物。俺が知っているものなんて、それらすべての所有者である彼女と、ぱちぱちと音を立てている部屋の隅の暖炉、それから強烈な存在感を放つソファーくらいではないだろうか。
懐かしいにおいは確かにするのに、なんだかまるで知らない家のようだ。

彼女が「お腹はすいている?」と聞くので、それに対して俺は子供のように大きく頷いた。あれから数日、俺はまともな食事をとれていなくて、底なしに腹が減っていた。いまならピザやパン、落ちたおにぎりだって食べられるほどの自信があったし、美味いとはお世辞にも言えない海兵用のレーションだろうが大歓迎な状態で、まぁ、つまりは腹が減って死にそうだった。
だから彼女の「あまりもののシチューでよければ、あたためようか」という提案は願っても無いもので、期待と嬉しさにたまらなくなった俺は思わず彼女の体を抱きしめた。彼女は俺の腕のなかで、恥ずかしそうに身じろぎする。そこでようやく俺は、彼女の唇にただいまのキスをすることができた。ひっきりなしに胸にこみ上げてくる彼女への愛しさで、もうなにも考えられそうにない。

彼女のシチューを大量に胃に流し込んだ後、広々としたソファーに体を投げ出す。これは、やたらと図体のデカい俺でもくつろげるようにと彼女がこつこつと貯めた金で買ってくれた特注品だ。森のような深い緑色をした革張りのソファーで、まだふたり一緒に暮らしていた頃、俺はよくここで居眠りをしてしまっていた。

代わり映えのない日常は俺たちに月日の流れをまるで感じさせないが、それでも自分が永らく彼女のもとを離れていたという事実は変わらない。本当によかった。彼女がまだ待っていてくれていて。
もし、俺のことなんてすっかり忘れて他の男とよろしくやっていたとしたら。そんなふうなことを全く考えなかったわけじゃあない。

「眠いの?」
「……うん」
「それなら、ベッドに行きましょう」
「ここでいい」
「どうして?」
「ここでいいんだ」

握りしめていたはずの薔薇は、俺の手に水分をしぼりとられたかのように枯れ果ててしまっていた。

「ねぇ、血が出てる」

ソファーから起き上がってみると、俺の体にはたしかにいくつもの風穴が空き、そこからはルビーと呼ぶには汚く、錆びと呼ぶには鮮やかな赤がだらだらと垂れ流しになっていた。あぁ、いてぇな。暖炉のなかの火は消えていないのに、やけに体が寒い。青ざめた顔をしてこちらを見る名前がなんだかこんなときでさえ愛おしくて、肉体を通じて見つめることのできるこの感情に出会えたことに俺は心から感謝した。
本当に、俺にとっての天使だった。こんな、どうしようもない俺をいまだって彼女は愛してくれているのだ。俺はポケットから取り出した煙草に火をつけようとして、それが湿気っているのに気がついた。そうだ、そういえば、俺はずっと前に死んだのだった。

「自分でもわからないんだ、これでよかったのかどうか。本当はこんなのはただの自己満足だってわかってる、でも、アイツを見てるとまるで昨日のことのように思い出すんだ。どうしようもなく無知で、無力だった頃の自分の姿を。炎が黒い煙を上げながら燃え上がって、俺の家を、家族を、めちゃくちゃにしちまうんだ。きっと、ドフラミンゴだってそうだったんだと思う。そういうところは似てるんだ、俺たち。だけどそんなのは違うじゃないか。そんな俺たち兄弟の事情なんて、アイツには関係ない。
お前には悪いことをしたよ、本当に。嫌いになってくれていいよ。次の男ができたら、前の奴はひどかったんだって罵ってもいい。でも、アイツのことだけは悪く思わないでやってくれ」

名前はなにか言いたげに唇を震わせたあと、すがりつくように俺の体にしがみついた。俺は再びソファーに倒れ込む。「大丈夫よ。あなたは正しいことをしたのよ。もうなんの心配もしなくていいの」子供をあやす母親のように優しい声色。そのとき俺は、心底、このこを好きになってよかったと思えた。
朦朧とする意識のなかで、彼女の好きなところについて俺は考える。まるで、夜眠れない子供が羊を数えるみたく、なんの迷いもなく、穏やかに。





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