! 暴力表現あり
! 暗いです






名前がはじめて城にやってきた日、年端もいかない少年であった俺は深い眠りにつくような、底なしに現実味のない恋に落ちた。
他の使用人たちと大差ない衣服に身を包んだなんの変哲もないはずの少女。彼女の一族は代々俺の家に仕えていて、俺たちは生まれながらにしてその絶対的な上下関係を決定づけられていた。
当時の俺は自分がいったい何者で、どうして彼女が優しくしてくれるのかもわからないようなガキだったからなにも考えず、ばか正直に彼女になついていた。どこへ行くにも名前を連れ、夜は同じベッドで眠りたいと我儘を言ってよく彼女を困らせた。
名前はいつも俺が眠りにつくまで俺の手を握ってくれていたけれど、朝になると必ず部屋から姿を消していた。俺はまばゆい朝日と共にやってくる、なんともいえない虚無感にひとり心をきりきりと痛めていた。朝目覚めても、この子が隣にいてくれたならどんなにいいだろう。そんなことばかり考える。初恋だった。
そうして、俺は彼女の体にぎゅっとしがみついて、いつもの我儘を繰り返す。そのたびに名前は頬をかすかに紅潮させ、口元にやさしげな笑みを浮かべながら俺の金色の髪に指をとおして頭を撫でてくれた。
彼女の体はマドレーヌのようにやわらかくて、甘い香りがする。俺は名前に夢中だった。

ふたつ年上の兄は俺と違い、特別彼女に興味を示すことはなかった。兄は彼女に対しても他の使用人たちと同じように接していたものだから、必然と彼女は俺専属の使用人のようになっていった。
なにをしても兄には勝てないのだということを幼いながらに本能で悟っていた当時の俺は、俺が彼女に抱いているのと同じ感情を兄が彼女に抱かなかったことに内心ほっとしていた。かわいい名前。ぼくだけの名前。心から敬愛する世界にひとりの兄だとしても、彼女だけは譲りたくはなかったのだ。


あの日。肉体的にも、精神的にも俺たち家族がばらばらになってしまった運命の日。彼女が選んだのは、俺ではなく兄だった。ドンキホーテ家から任を解かれたことで職を失い路頭に迷っていたところトレーボルに発見され、再び俺たちの前に現れた名前。
彼女の体は細く痩せこけ、目の下には深い隈が刻まれていた。兄がドンキホーテ家の正当後継者であるから彼に従っているのか、自分をあんな目に合わせた父を恨んでいたから彼の元についたのかはわからない。
どちらにしたって彼女にとっての俺の立ち位置なんてそう大差のあるものではないだろう。
俺は長い眠りからようやく現実に引き上げられ、置物のように冷たくなった父の胸で泣きわめいた。こんな、地獄にも勝る苦痛だらけのこの街でこれからなににすがって生きていけばいい。
兄も、彼女も、その仲間たちも。おそろしくておそろしくてたまらない。それでも俺のなかにある、あの子のことを好きだったという過去の想いだけは宝物のように正しく美しかった。そして、ただの一度もきみに好きだと言えなかったことを俺は心から後悔した。


いま俺は、大人になったきみのすぐ目の前で、その華奢な体にむかって腕を振り上げている。勢いよく振り下ろされた俺の拳が彼女の頬を直撃し、派手な音とともにちいさな体が床に倒れこんでいった。俺はサングラス越しにそれを眺め、くわえた煙草に火をつける。
いつまでたっても起きあがろうとしない、芋虫のような体を踏みつけると彼女は苦しそうな呻き声をあげて体をふるわせた。俺がなにをしてもされるがままの彼女は、ある意味では過去と等しい。
俺は彼女と二人きりのときだけ、彼女に暴力をふるっている。

「ロシナンテさま……」

彼女は俺と二人きりのときだけ、俺のことを本来の名で呼ぶ。あの頃と同じ、慈愛に満ちた眼差しを向けて天使のようにも、奴隷のようにも俺たちのいいなりになっている。俺ははやく彼女にここからいなくなってほしくて暴力をふるっているのに、そのせいで彼女のクソみたいな忠誠心はむくむくと育ってしまう。その事実はどうしようもなく俺の心をイラつかせた。

「わたし、きっと、きっと貴方様と若様のお役に立ってみせます。だから、どうか捨てないで……」

父が王位から退いた後、職を失い路頭に迷うこととなった彼女の過去は幼い体にトラウマを刻みつけた。彼女はおそれている。あの日のように、ある日唐突にすべてを失う日がくることを。忠誠心で塗り固められたその瞳は兄や俺という媒体を通して、いまは亡き父の姿を映している。
ちがう。俺は、きみにこんなふうになって欲しかったわけじゃない。きみはここにいるべきじゃない。
ドッと鈍い音が部屋に響く。痣のできた彼女の頬の上を涙がぽろぽろとこぼれ落ちいくのを俺はじっと見ていた。
なんて、可愛くて、健気で、愚かしいのだろう。子供の頃、俺はきみを幸せにしたかった。父と母と、それから兄にそれを伝えて、きみと結婚をして、かわいい子供を授かりたかった。大人になって考えてみれば叶うはずのない夢だったけれど、それでも俺がきみに恋をしていたのだという事実は変わらない。
そしてそんなきみの腹の上に、いま俺は足を置いて体重をかけている。夢のなかの世界では、俺の子供を孕んだかもしれない白くて平べったい彼女の腹。その中には赤黒い臓物が敷き詰められていて、それはただ機能的に、彼女の生命活動を維持するためだけに動き続けている。不幸だと思うことはない。これが当然の結果なんだ。
赤く腫れた彼女の瞼にやさしくキスしてやると、彼女は顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくって俺の名を呼んだ。

「ごめんなさい、ロシナンテさま……ごめんなさい……」

彼女は床に手をついておいおいと泣きだしてしまった。謝らなければいけないのは俺の方なのに、彼女の世界ではいつだって俺のほうが正しいように作られている。あぁ、かわいそうだ。なんだか自分が惨めたらしくて泣けてくる。

好きだった。本当に、大好きだった。けれど俺のいまの望みは、きみと幸せになることではなくて、きみをここから追い出して、他の誰かがきみを幸せにすることだ。

「名前」

能力を使っているから、この声が彼女に届くことはない。俺は彼女の体を抱きしめて、そっと瞳を閉じる。彼女の手が、俺の頭を優しく撫でる。あぁ、まるで昔みたいじゃないか。なんだか今日だけは俺が眠りにつくまで手を握っていてほしい。
俺はやわらかな彼女の手に指を絡ませながら、そんなことを考えていた。

子供が泣いている。全身傷だらけで、ぼろぼろの服をきた背丈の低い男の子。
ロシナンテと呼ばれた少年は、もの憂いげにこちらを見ている。
俺の手に染み付いた彼女の鮮血を、物言いたげに、じっと。




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