春は全てが初耳だった。小さい頃から功士を知っているのに、何故その女を知らないのか。すると考えていたことを1から説明するように、功士は言った。

「美奈子さんと同居したのは、10年も前のことだし、同居期間も二年程だ。知らなくて当然だよ。」
「え、じゃあなんで桐間は功士さんのところに?」

 聞いた瞬間、しまった、と思うが、もう遅い。功士はにっこりと笑って、話した。

「彼女は、男と逃げた。理依哉は置いて行かれたよ」

 春は、服をぎゅ、と握る。聞いたことを後悔した。少し考えれば、すぐに分かる。そんな家など少ないが確実に存在するし、実際中学の友達にもいた。なのに、功士が言いたくないであろうことを、簡単に聞いてしまった。

「すみま、せん…」
「ふふ、春くんは謝ってばかりだね。平気だよ。僕は彼女に未練はない。ただ、」

 ただ? 春は首を傾げて、功士を見ると、それこそ、功士の一番悲しい顔だと思った。

「理依哉は只でさえ前の父親で傷ついていたのに、そのせいで、もっと傷ついて。理依哉は人間不信になってしまったんだ」

 人間不信と聞いて、確かに思い当たる節はたくさんあった。龍太に触れたときのあの怯え方、あのそっけない態度もひとが近寄らないように…。いろいろと頭で整理しながら、功士を見ると、功士の目は、赤く充血している。思い出しただけで、美奈子への怒りや悲しみが湧き出てきたのだ。
 春は気付いた。功士は自分が捨てられたことを怒っているわけでも悲しんでいるわけではない。

「桐間が捨てられたことを、功士さんは許せないんですね。」

 ふるふると、自分の手が震えるのが、わかった。春は功士にそう質問しながらも、春も怒っているのだ。功士は、笑いもせずに頷く。春もつられて頷いた。
 何故、傷付いていた桐間を置いていけるんだ。まず、そうしてしまった自分を責めるのが普通の母親じゃないのか。
 春は視界がだんだん滲んでいくのがわかる。それがこぼれないように上を向くが、あまりにも優しい手のひらが頭を撫でたので、それは無駄になった。

「う、なんで、なんで…」
「春くん、君は優しいね。本当に…。」

 功士は春の眼鏡を外しながら、涙を拭う。頬にそえられている手を、春は掴みながら泣いた。それを慰めるように、功士はテーブル越しに春にただ手を貸す。
 春は自分がなんでないているのかすらわからなくなる。ただ、涙が止まらない、そうとまらないのだ。
 あんなに自分に酷いことをしたのに。

「こうじ、さ…」
「理依哉のために泣いてくれるなんて嬉しいよ。でも、泣き止みなさい。」

 春の頬から手を離し、もう帰るね、と笑うと功士は帰る準備をする。そして、春に背中を向けながら春にいった。

「僕は今まで一回も、理依哉を笑わせたことがないんだ。だから」

 横に垂れた、腕に力が入るのが分かる。

「だから、春くんがあいつを笑わせてやってくれ」

 今まで聞いた震えた声色が、功士の気持ちを表していた。失礼したね、と言いながら、ドアが開かれる。差し込む夕日が何故滲んでいるのか、春が気付くのは、少し時間が掛かった。





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