明け続ける







寝坊した。
昨日までずっと気を張り詰めて仕事に明け暮れていたものだから、肩の荷が降りたとたん眠りがすとんと深くなった。いつ眠りに落ちたのかさえ思い出せないほどだ。
こんこんと眠り続け目を覚ましたら、屋敷はもぬけの殻、日は登り切っていた。すっかり疲れが抜け落ちたのか、すっきりとした頭で布団を抜け出した。屋敷の中に誰もいないということは皆行ってしまったという事だ。声を掛けてくれてもいいのになあ。錦は急ぎながら浴衣の帯を解いた。

夏の暑さの盛り。太陽が今日も遠慮なしにじりじりと地表の熱を上げていく。庭には暑さにやられてしまったのか、鳥さえその姿を消していた。

いつも通りの所作で布団の片付けから身支度を済ませ、前の晩に用意していた気に入りの白い着物を纏った。誰ぞかに貰ったものだ。青みの強い襦袢と角帯を合わせて、きっと涼しげに見えるだろう。着たい着たいと思っていたが、ずっと箪笥の肥やしになっていた代物だった。仕事がひと段落したからやっと着られる。

最後に全身に少し手を加えて着物を正して、手早く部屋を出た。

屋敷には人っ子一人、気配もない。
途中、厠やお勝手も覗いたが、がらんとした空間が広がるばかりだ。
そのままちらりと横目に通り過ぎようと歩みを進める錦の目に、今から曲がろうとしていた廊下の角の死角に黒い浴衣の足元が見えた。
おや、と思い角を覗き込むように頭を出した錦の目がまんまるに広がった。


「あれ、まだいたの?」


曲がり角には晋助が腕を組んでどかりと壁にもたれて陣取っていた。しゃらりと夏物の浴衣を着こなす晋助が、片目で錦を見下ろした。「別に」。つんと晋助が言い返した。


「先に行っててよかったのに」

「だからお前を待ってたんじゃねェっつってんだろ」


見え透いた嘘を追求する理由もないので、はいはいと聞き流した。おい、と突っ込まれたが無視して土間に下りる。
涼しげな下駄を引っ張り出して突っかける。振り返る間も無く晋助も草履に足を通したので、2人は揃って玄関を潜った。

ギラギラの太陽光が晋助の髪で跳ね返って眩しい。こんな暑い日にそんな黒い浴衣を着るなんて暑くないのかと錦が茶化す。自分が贈ったものだということを棚上げして。それに晋助が、お前の浴衣が眩しくて余計に暑いんだと文句を垂れた。これも晋助が贈ったものだった。


「あーあ、銀時たち待ちくたびれてるかな」


水辺へと続く道を歩いている。ふと思い出したようにそう言った錦を、片眉を上げて晋助が振り返る。


「何言ってんだ」

「え?」

「アイツらなら遅れて来るぜ」


その言葉にぱちくりと瞬きを1つして、えっと声を漏らした。てっきり屋敷には誰もいないかと思っていた。そういえば適当に流し見ただけで部屋までは見なかった…。
ゆっくりと来た道を振り返る。


「なんだ、じゃあ書き置きでも残して来ればよかったなぁ、」

「錦、」


もう遅えよと振り返って笑った晋助に、観念したように笑みを返した。そうかな、そうだな、戻るには少し骨が折れそうだ…。


「またこうして2人だけで抜け駆けして。
あとで銀時に怒られるね、きっと」

「ヅラも大概煩ェだろうなァ」


2人して頭の中で同じような想像をして、同時に吹き出した。揺れる肩を並べて歩くお互いの距離は、この日差しの下歩くには少し近過ぎるかもしれない。そういえばその紫黒色の浴衣姿をとても似合っていると、もう自分は言ったろうか。はたと気づいた。なんだか言っておかねばいけない気がするのだ、とても。
2人の間の慣れ親しんだ静寂を、錦が押し退けた。


「浴衣、似合ってる」


無言の晋助を胃にも介さず、続けて自分の見立ての良さを自画自賛する。本当は羽織も一緒に贈ったはずだが、暑さに負けて置いてきたらしい。それでいい。要らないものはもう全部手放して身軽になって欲しかった。
夏のぬるい風が目元を覆い隠す晋助の前髪を、ふわりと揺らした。


「ほんとは待ってたでしょう」


優しく言い当てる錦に何も言わない隣の男。錦も、待たせてごめんと言って、それきり2人はだんまりになった。一緒にいる時間のほとんどが沈黙なので今更痛くもない。が、どこが晋助は居辛そうだ。「もっと、」


「もっと、遅くてもよかった」


かすかで、自分でなければ聞き逃してしまいそうな声に錦は目も向けられなかった。閉口した。謝ればいいのか笑えばいいのか分からないが、ひとつ責められていることだけは分かった。そして今の言葉に、はっきりと晋助からの慈しみを感じて。錦は顔を向けられなかった。ただ、どんなにこの男に責められても、何度過去に戻ってもこの道を選んだだろうと思った。もうそれだけで充分だった。そう思える道の上に今自分が立っている。それ以外、何が要るというのだろう。充分だった。


水辺へと続く道を歩いている。2人の間には再び沈黙が訪れた。
もう戻れるはずもない道を、背中にあの頃の笑い声を聞きながら歩く。今も昔も隣にはこの男がいた。


「新しい浴衣、ほしかったな」


珍しくねだった錦を見やって、晋助は「それだって似合ってる」と片眉を上げた。上品な青白磁色の絽がしゃらりと揺れる。男物だのに帯まで美しくいっそたおやかなのは、女物を着なくなった錦を自分の手で飾り付けたいという晋助の男心のせいだった。お互いに贈り合ったものを着る2人に名前は与えられなかった。「晋助、」


「待っててくれてありがとう」
「……ん」


水辺へと続く道を歩いている。

遠い日々が去来してくる。
どれもが嬉しくって、はちきれそうで、胸がいっぱいになった。
口を開きかけた晋助の瞼が迷うように伏せられて、言葉を隠そうとした。それでも、晋助は今度こそ口を開いた。


「俺こそ、置いて行って悪い」



海が近い。波の音がとても大きくて、もうすぐ飲み込まれるのだと理解した。波音が近くなる。

晋助、私たち、自分たちの幸いについて話をした事があっただろうか。明くる日も明くる日も、竹刀を振り続けていただけの鈍感な私たちが、幸福の話など。
でも、どうやら、避けて通って来たらしいそれが過ぎた日々にあったんだと、僕らはとっくに気付いていた。


「晋助、」


乱反射した光が離れて集まって万華鏡みたいに踊り狂う。極彩色になって、駆け回る。おまえの目に光が飛び込んで、その中に僕がいた。

何もかも足らず仕舞いだった。何も成し得なかった。2人の間にはまるで全てが存在していたようでその実何も与え合わず、何も言わず、何も奪わず、何も。
伝え合わなかったくせに分かり合った振りをして、なんでも知った気になってた。だけどそれが何より的を射ていたなんてことさえ、答え合わせもしなかった。


「晋助、次はちゃんと、」


乱反射する光の中で、君のことをずっと、



2019.08.10 忌明けのための噺
明け続ける。貴方がいるならば。あるいは。