11 夕暮れの屯所に帰ると、誰にも顔を合わせずに自室に閉じこもった。部屋の前の縁側には、自分の外履きが転がっているので、帰って来ていることは周知されていることだろう。 仕事をするでもなく、楽な格好に着替えるでもなく、ただ仰向けになって天井を見上げ続けていた。もうすっかり木目が目に焼き付けられる程に。やがて日が完全に落ち切って部屋の中が真っ暗になると、ようやく錦は部屋の灯りに火をつけ、のそりと腰を上げた。 湯を浴びたい。 今頃入っているだろう隊士たちは適当に急き立てて追い出してしまってさっさと入りたい。ゆっくり浸かって、頭から爪先までさっぱりしたら――そこまで考えてはたと気付く。ああしまった、着替えを忘れた。部屋を出たばかりだが取りに行くのも億劫でまあいいかと廊下を曲がった。 ぴたりと歩みが止まる。いつ振りだろうか、制服姿の相方が立っていた。予期していなかった再会にぎこちなく口を開いた。 「……帰ってたのか」 「うん、まぁね」 いつ振りだろうか、なんて、そんなの決まってる。ミツバが眠りについたあの日振りだ。なんせ目の前の男は、彼女の葬儀にさえも来なかったのだから。 ここまでくるともはや到底理解の範疇を超えているが、ミツバが死んだ今、それはもうどうでもいいことだった。 今なら分かる。頭ではなく、もっと深いところで。 ミツバは土方にとって大事な存在だったのだ。そして、彼女と過ごした日々も。 初恋だのなんだの、そんなものは分からない。 しかし故郷での在りし日は特別な、…他には代え難い、そういうものであることは錦にだって分かる。 そして、自分は"欠けている"ことも。 錦はあの黒点を思い出した。自分が欠けている事実を突き付けられ、証拠として残ったあの焦げ目。消えない、戒めの傷。それは床だけでなくしっかりと錦の心にも焼き付いていた。 人と違う自分の生まれ育ちを、今更とやかく言うつもりじゃない。どうしようもない過去と決別出来るならそうしたいが、それよりも重要なのは"今"だ。 "欠けている"、今の自分の空虚な部分だ。 床に残された焦げ目と、あの時の土方の顔が、代わる代わる目の前に繰り返される。 あの時の言葉が、頭の中でリフレインする。 ひどく頭が痛んだ。 謝らなければ。 明日、そして明日からも変わらず"相方"でいるならそうすべきだ。自分がここを去るまで、恙無くやっていくならば、そう、これは上手く歯車を回すため…。 いつも通り謝って、 お前に言われたくねェんだよ いつもの"古見錦らしく テメーに俺の何が分かるってんだ そしたら明日からも… お前が俺のことを正しく理解したことなんざ一度もねェ 俺とお前は違う!! 「ごめん」 たった一言の言葉が、かすれ切った音で落ちて行った。声が上手く出なかった。 おかしいな。感情とは別の部分で、錦は冷静に考えていた。 おかしい。いつものように、いつもの感じで、なんでもなかったように謝るつもりだったのに。 何故か顔が上げられない。伸びた髪の毛がカーテンのように表情を隠す。 気持ちとは裏腹に、懺悔が零れ落ちた。許されたいとは思わなかった。ただ、あの時の土方の顔を思い出すと自然と言葉が零れ落ちた。 「ごめん。 あんな顔をさせたい訳じゃ、なかったんだ」 なんでよりによってお前が言うんだ 「僕は、欠陥品だから… 出来損ないだから、分からないんだ……」 ごめん、十四郎―― 俯く相方のつむじを見つめ、土方は驚きとそれから後悔に目を開いた。 錦が呟いた単語には、彼は嫌な程聞き覚えがあった。 "出来損ない"、"欠陥品"。 浪士組が立ち上げられたばかりの頃、まだ幕内に"武士以外は人でない」という考えのとんちきがいた頃だ。 百姓や商人でさえ虐げられたが、それ以外にも人権階級の"最下層"たちがいた。"人間"ですらないとされる者たちだ。 錦たちはその非人と揶揄される類であったので、農民出の土方たちよりも随分と劣悪な扱いであった。 その後も錦たちへの風当たりは強く、真選組として体制が整えられてからも、事あるごとにその嫌味は囁きとなって耳に届いた。 だけど いつも通りだったから。 いつものように、何にも考えてないように へらへら笑うから。 いつものように、1人で竹刀を振り続けるから。 歯牙にも掛けていないのかと、そう思っていた。 気にしているのは、自分たち周りばかりだと――。 考えるより先に手が伸びていた。 腕を掴んで引き寄せて、頭に手を置いた。 「違う、そうじゃねェ。…悪い、……悪かった……」 歯痒い。どうしてこんな時でさえも自分は満足に言葉に出来ないのだ。どうにかして、笑っていてほしいのに。言葉が胸でつっかえたように口から出てこない。 錦はゆっくり首を振り、否定した。ごめんね。もう一度言う錦にどう言っていいか逡巡し、口を開きかけた。しかしその前に錦が話し始めてしまった。 「いい、何にも言わないで。僕が悪いよ。誰が見ても、そう思う。僕もそう思うから。 十四郎。 お疲れさま」 顔を上げた錦の表情を、なんと称したらいいのか土方にも分からない。見たこともない酷い表情だった。錦が上手く笑えてないのを始めて見た。想像したこともなかった。 気持ちのやり場がなくて抱き寄せた。もう下手な笑みを浮かべないよう、自分の肩に錦の頭を押し当て腰を深く抱き上げて、強く強く抱きしめた。錦のつま先がかすかに浮く。らしくもなく錦の腕が背中に回されて力が込められ、胸の内がカッと熱くなった。目蓋の裏に込み上げるものがあった。 ミツバが死んでからも気を張っていた部分が、解けていく。 土方は片手で錦の腰を抱えて、少し先の錦の部屋の障子を開けて滑り込んだ。後ろ手で適当に締めた。 強く抱き締め合いながらも、土方は正しく承知していた。 この抱擁は悲しみを埋めるための、そして傷の舐め合いのための抱擁だ。 暗闇で抱き締め合ううちにやがて2人の足から力が抜け、膝をついた。締め切っていない障子から、月明かりが2人をかすめる。 そのまま言葉は交わさず、いつのまにか畳に横になり抱き合って眠りについた。 胸の欠けた部分に吹き付ける冷たい風のようなものを、錦はようやく正しく知覚した。それは誰とも理解し合えない孤独に似たものだった。とても痛く、悲しく、寂しかった。こんなもの、気付きたくなかった。錦は頭を抱える。 「(晋助、知っているなら教えてほしい。 お前は知ってるはずなんだ。 あの時の、あの夜の十四郎の目は、いつかのお前によく似てるんだ――)」 「(晋助、知ってるなら、何故教えてくれなかったんだ。 どうして黙ってたんだ。晋助)」 黒点がじりじり、じりじりと燃やしていく。 まともな人間の振りをしていた、自分の張りぼてを。 露わになっていく。 "人"になりきれない、哀れな"化け物"の自分が。 「(銀時……お前も、私にひた隠しにして生きていたのか。 教えてくれ……なんで私は、知らないまま、分からないままなんだ……どうして…どうしてなんだ…晋助……)」 ここにはいない男の名を呼びながら、錦は冷たくなっていく心とそれとは裏腹に沸騰するような頭の中の熱で綯い交ぜになっていた。 何が違うというのだ。自分と彼ら、いったい何が。 自分だって、自分こそ、大事にしていた。大切に思っている。 他の何よりも、他の誰よりも。 キラキラ光って、喧しくて、面倒臭い兄弟たち―― この気持ちは嘘じゃないし、紛い物なんかじゃない。そんなんじゃない、違う! なのに、なんで、自分だけ皆と違う――…? どうして自分は、"足りない"ままなんだ……。 在りし日に感じた孤独に再び会ってしまった。 ここでも、"お前は違う"と烙印を押されてしまった…。 遠くなる意識の中、笑い方の似た君が困った顔で言う。ばかね、錦くん。 ああそうだ、ばかだ。 でも、ばかならいっそ、気付かないままのばかで居たかった。 − 主ある花篇 完 − |