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夜のうちに江戸をすっかり覆ってしまった雨雲が、やがて耐え切れずに泣き出し昨日の予報通りとなった。

あのまま屯所を出て行ったらしい土方は、朝になってもとうとう帰ってこなかった。放った密偵の部下によると港でつきっきりの張り込みをしているようだった。


「(雨の中熱心なことだ)」


地面で跳ね返り烟る雨を見やりながら、先ほど顔を合わせた総悟の顔を思い出す。「今晩、らしいですぜ」冷えた嘲笑を口角に宿しながら総悟は吐き捨てた。そう、とも分かった、とも返し辛く、結局相槌は打たなかった。総悟も何か求めていたわけでなく、また錦を責めたりもしなかった。昨晩のやり取りが聞こえていたのかもしれない。すれ違ったときの僅かな空気の揺らぎだけを錦に残して、総悟は立ち去った。


結局、錦は自分の息のかかった部下たちをもっぱら引き上げさせた。暁鴉たちは未だ江戸に留まっているだろうが、機が訪れるまでは動くこともない。捜査の手はすんでのところで躱せた。
錦にしては悠長を踏んだかもしれないが、それも痛手にはならないだろう。






病院からミツバの危篤の連絡が入る頃には雨が本降りになっていて、瓦屋根をこれでもかと叩きつけていた。付き添いとして銀時が説明を最初に受けたらしかったが、礼を言うのは何故か憚られた。らしくもなく後ろめたさを感じていたのかもしれなかった。それも、山崎に連絡をとるために席を外れる体裁で、見て見ぬ振りをした。

手短に通話を終わらせて戻ると、銀時はまだそこにいて、まるで今日の天気を尋ねるように問いかけて来た。


「どーよ、オタクのマヨラー」

「どうもこうもあるもんか。」


来ないよ。
あっさり言い切って合皮のベンチに腰を下ろした。銀時も、あっそと興味なさそうな返事をしつつ、立ち上がる気配はまるでない。いつもの軽口のやり取りを装ってはいたが、銀時がこういう人の死を看取ることに敏感なのを、錦は知っていた。白夜叉の時でさえもその感覚を持ち続けていたのをずっと側で見ていた。よく知りもしない相手だろうと、死にゆく人に心を寄せずにはいられない人間なのだ。なんと生きにくい兄弟分だろう。ちらりと盗み見た横顔は、見慣れた呆け面だ。

先程電話口で、一緒にいる十四郎にも伝えてと言えば分かりやすくしどろもどろになった山崎の言い分を、全く聞かずに通話を切った。バレてないとは思っていなかっただろうが、ハッキリ告げられるととっさにあたふたするのは山崎の人柄によるところだろう。隠れるのは得意かもしれないが、隠すのは得意じゃない男だから。

だから、土壇場で病院に駆け込んで来た山崎にも、さして驚きはしなかった。大変だと、一大事だと叫びながら飛び込んで来た山崎の話を聞いた近藤が、彼の制服を掴み上げる。


「山崎ィィイ!!!テメーなんで今まで黙ってたァ!!」

「すみません…!副長に固く口止めされていたんです…!!

親類縁者に攘夷浪士と関係のある者がいると隊内に知れれば、沖田隊長が真選組での立場を失うと……!」


その山崎の言い分を聞けば、近藤も錦も合点がいった。
偽悪的なところがある男だ。
自分のことを良い人だなんてカケラも思っていないから、人にそう見られるのを大層嫌う性格。大柄に振舞っていても、隠せない土方の長所であり短所だった。


「十四郎らしいな……池田屋の時も、僕と銀時が縁者かもしれないことは一切無かった事にしてた」

「…トシの野郎……ハナからテメー1人で片つけるつもりだったな!」


示し合せるよりも先に懐から端末を取り出し、錦は原田にコールする。短縮ナンバーを押して耳に携帯をあてた錦が少し離れて背を向ける。


「あの野郎…ッ!!」


我に返って駆け出した総悟の胸ぐらを、自分を追い越す前に近藤が掴んで引き止めた。
いつも熱い男が冷水のような言葉を投げかける。


「お前は動くな。
ミツバ殿の側にいてやれ。

それに、今のお前では足手纏いだ。
剣に迷いがある奴は死ぬ」

「………、俺たちを信じろってかィ…」


ベストを掴んでいた近藤の腕を掴み返した総悟の顔が歪む。そして土方に借りを作るのだけは御免被ると吐き捨てた。


「近藤さん、アンタ俺を誤解してる。
俺はアンタが思うほど綺麗じゃねェ。人を信じるとかそういう奴じゃねェんだ。テメェのことしかかんがえちゃいねェ。
いつもアンタたちと一緒にいても溝を感じてた…。俺は、アンタらとは違うって。

だから姉上もアンタも、錦だってアイツに、」


それ以上の言葉は近藤の拳によって遮られた。重たい岩をも思わせる近藤の拳骨が、綺麗な総悟の顔を殴りつけた。もろに食らった総悟は身体ごとふっ飛ばされ、銀時の寝入る長椅子に強かに打ち付けられた。
そのけたたましい音に耳に当てた携帯をそのままに錦も振り返った。

詰まった息を吐き出し、殴られた頬を拭う。やさぐれたように総悟はなおも食い下がった。


「…ッハ、随分と俺には手厳しいな、近藤さんは」


嫌味を隠しもしない総悟にも近藤はなんのその、どこ吹く風と言うように笑って居直った。


「そりゃお前がガキだからだ。トシがお前とおんなじ事言ったら、俺ァ奴も殴ったよ。
俺たちは"そういう"仲だろう」


容赦なく鉄拳を下したその手が、何でもないように襟元を正していながら血を滲ませていた。


「誰かがねじ曲がれば、他の2人がブン殴って元に戻す。

昔からそうだった。
だから俺たちは永遠に曲がれねェ!
ずっと真っ直ぐ生きていける。

テメェが勝手に掘った小せえ溝なんて、俺たちゃ知らねェよ!
そんなもん、何度でも飛び越えてって何度でもテメーをブン殴りに行ってやる!」


通話越しにこちらを心配する原田に、大丈夫だと告げて通話を切る。
隠し立てせず、愛情に容赦のないところが近藤の良いところだ。
携帯をしまいながら、場が収束するのを見守る。


「そんな連中、長え人生そうそう会えるもんじゃねぇんだよ。

俺たちゃ幸せモンだぜ?
そんな悪友を、人生で2人も得たんだ」


言葉の切れ目に、錦が控えめに近藤を呼ぶ。総悟に背を向けて、近藤は歩き始めた。座り込む少年を置き去りにして。


「総悟、もし俺が曲がっちまった時は、今度はオメーが殴ってくれよな」


自分を追い越した近藤について行きながら、錦は近藤の言葉を反芻していた。
悪友。
あそこで狸寝入りをする天然パーマが自分にとってのそれなら、アイツは自分を殴ってでも止めるだろうか。
刺し違えてでも――…

考えて、すぐにやめた。

隊務に従事する間、自分はあの塾の門下生ではなく、"記憶のない真選組局長助勤"だ。
遠い記憶は、彼方に消すべきなのだ。


雨が窓を叩いている。強く。