6 夕日によって真っ赤に灯るような屯所に戻ると、どこかいつもと空気が違った。聞くに、どうやら総悟と土方がやり合ったらしい。それも、総悟の痛ましい敗北という形でもって決着がついたという。いつものおちゃらけた喧嘩でない事は察するよりも易いことだった。 頭痛の種が増えていく…。 自室に篭りきりだという総悟に、今は何を言っても受け入れられないだろうとそっとしておくことに決めた。この状況でこれ以上身内と言い合いをすることは錦には煩わしく、無意味なものに思えた。 その日片付けられる仕事をすべてこなし、遅めの夕食をとったときにはすでに日は完全に落ち、あたりは真っ暗になっていた。日が落ちてからも当直で外回りをする隊士がいる上に、今は数人ミツバの入院先に私服で張り込ませているため、屯所はしっとりとした静けさに包まれていた。僅かに聞こえる虫の音を聞きながら今では薄っすらになってしまった星明かりを見上げて自室に戻っていた。 総悟と土方、そして自分と土方がそれぞれ剣呑な空気になっていることを隊士たちは獣染みた鼻の良さで嗅ぎ分け、いつにも増して鳴りを潜めていた。まるで腫れ物そのものだ。 だから自分たちの自室がある方の区画に立ち入る隊士達がいるはずもなく、一層静まり返っていた。いつもなら通り掛かりに一声掛けられそうなものが、総悟の部屋の前を通ってもうんともすんとも言わなかったあたり、推して知るべしだ。 錦が自室の障子に指先を掛けたのと同時、隣の部屋の障子が開かれ隣人が出てきた。目付きの悪い隣人は、咥え煙草でぶっきらぼうに片手をポケットに突っ込んでいる。 あの一件以来の相方に、障子に手を掛けたまま視線を向けた。一瞬交差した視線は、土方によって断ち切られたが。 「総悟と酷くやり合ったんだって」 合わせた視線をぶつりと切った土方だったが、踏み出した足がぴたりと止まる。空気が重く、鋭くなった。 「あ゛?」 「ミツバちゃんの事? 天廻屋の事? それとも、どちらともかな」 分かりきった事をわざわざ聞いてくる錦に、土方は下らねェと一蹴した。すれ違おうとする土方を「やめなよ」錦の静かな制止が引き止めた。 この時の錦はまだ、どこかで土方のミツバへの恋心らしきものを揺さぶれば、流れを止められると思っていたのかもしれない。 人の恋情への理解の甘さが、錦に土方を尚も追撃させた。 「考え直せ十四郎。僕も天廻屋の密偵につくよ。 何かあればすぐ動こう」 「……」 「人質に取られないよう、ミツバちゃんの護衛も常時――」 「やめろ、錦」 冷ややかな声がぴしゃりと錦の意見を跳ね除けた。自分と、それから総悟に懇願されてこれで何度目かのやり取りになるだろうに、土方はいやに冷静さを保っていた。 「でも、十四郎」 「見舞ってるうちに情でも湧いたか?」 「……そんなことはないけど、でも、」 「アイツがあとどれほど持ち堪えるかも分からねえのに、いつまでもお前や他の人員割いてらんねェよ。この件は明日ケリをつける。 予定は変えねえ。俺は行く。 それでも、これ以上止めるってんなら―― いくらお前でも許さねえ」 険を含んだ牽制に、恐れは抱かなかった。不快感も。 そして錦の頭の中には打算的な考えよりも、純粋な疑問だけが残った。 なんで、どうして、そこまで頑なになるのか――? 「…………好きなんじゃないの?」 「あァ゛?」 ぽつりと産み落とされた疑問詞が間違いなく彼の、土方という男の触れて欲しく無い"柔い部分"であることは錦にも百も承知の事だった。しかし錦には、この人生で抱いたことも触れたこともない事だったので、余りにも理解に苦しむのだ。 解けない謎の糸口を探るように錦の口から言葉が零れ落ちる。 「十四郎は、ミツバちゃんのことが好きだろう?恋仲だったんじゃないのか?今も好きなんじゃ……どうして言わない?いや、それどころか会いもしない。お前がミツバちゃんの――」 さらに言い募ろうとする錦が、胸倉を掴まれ音を立てて壁に勢いよく押し付けられた。無防備につっ立っていたためもろに息が詰まる。 ギリギリと締め付けられるような息苦しさの中、土方が轟々と怒鳴った。 「お前に言われたくねェんだよ!!!! どういう了見でンな事言ってんだテメーは!! テメーに、俺の何が分かるってんだ!!!」 鋭く荒々しい言葉と共に壁に押し付けられ、どんどん上に押し上げられる錦のつま先が果てに床をかするだけになった。 怒鳴られながら、床に落ちた煙草から上がる煙を見て「ああ、火つきっぱなしだ」と寄る辺ない思考がぼんやり頭に浮かんだ。 「お前が俺のことを正しく理解したことなんざ一度もねェ!!!! 俺とお前は!!違う!!!」 そこまで啖呵を切った土方は、言葉を切った。 クソが…。悪態が力なく吐き捨てられた。だんだん握りしめた手のひらから力が抜けていき、やがて錦の足の裏が床をしっかり踏みしめる。 至近距離にあるはずの土方の目は前髪の奥に隠されて見えない。 土方が俯いたままさらに錦を壁との間に囲うように頭のすぐ横に肘をつくと、2人の距離は被さるように近くなった。 肩口にある土方の硬質な髪が頬にささる。 彼の上がった息が耳に当たり、唾を飲み込む音が聞こえた。 煙草の匂いが、強さを増す。 「…ンでお前がそんなこと言うんだよ…。 なんで、お前が……。 なんでよりによってお前が言うんだ……」 聞いた事のない響きでそう言うと、しばらく間を置いた土方だったが、やはり飲み下せなかったのか最後についた方の手で壁を殴ると、錦の顔なぞ見もせずに足早に場を後にした。 頭のすぐ横で鳴った大きな音に、わすがに肩を揺らした錦はその背中を見送ることしか出来なかった。鳴らした拳とは逆の手で押さえ込まれていた利き腕が、思い出したように痛む。現実に帰ってきたような心地だった。 腕をさする錦の視界に、白いものが映る。ゆっくりしゃがみこんで拾い上げると、それは燃焼材のせいで未だ燃え続けていた。火種がジリジリと、芋虫が葉っぱを食べるように煙草を蝕んでいく。 落ちていたそこには煤と、焦げ跡が残された。煤を払い、親指で撫でても、当然ながら焦げ目は消えない。 錦は消えない黒点を、ただじっと、見つめていた。 |