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ひさかたの 光のどけき 春の日に
     静心なく 花の散るらむ



「…いつになく感傷的な詩を読むじゃねーか」

「……どこぞの総督さんが休みをくれなくて、桜にでも思いを馳せてないとやってられないもんでね」

「ククッ、そりゃ悪かったなァ」



錦の返事に吊り上がった口角が、煙管を支え手の影から覗いて見えた。


今錦は京に来ている。
常日頃から屯所を開けることの多い錦が、江戸を離れ遠方に足を延ばすことはけして少なくない。
あの職についたのは錦の周到な計算によるものだったが、こうして幾分か勝手がきくことを思えば、間違いではなかったと思える。
もちろん直参である身だ。何かあれば首が飛ぶ恐れがあるし、猫の手も借りたいと思うくらいに多忙な時期もある。そして武力を行使する重要な組織であり、束ねる立場の人間であるので、しょっちゅう内部監査が入る。屯所から出て任務に就く錦の後ろを、幕府から差し向けられた調査員が尾行していることもよくあった。

そんな諜報員の目をかいくぐり、こうして京にまでやってきたのは、もちろん休暇旅行などではない。…羽を伸ばしたいという気持ちがないといえば嘘になるが。



「真選組局長助勤殿は、優秀だとよく聞いてたもんでなァ」

「…言ってくれる」



いつもギリギリの橋を渡らせているくせに、目の前の男はどこ吹く風だ。甘やかな匂いを、煙管から漂わせている。


派手な着流しを身につけ、上等な煙管を指先で遊ぶ男は、都を歩けばよく見かけることのできる人物だ。路地裏、駅の構内、電柱、いたるところに男の顔を見ることができる。


第一級指名手配犯―――過激派テロ組織“鬼兵隊”総督、高杉晋助。その男の顔を。



「もっとこっちに帰って来いよ、どうせ屯所にゃいつもいねーんだろ?」

「馬鹿言うなよ、役職ある身だぞ。真選組自体が上から睨まれてるのに。呼び出された時にいつも江戸にいないとなれば疑われるさ」

「まぁ俺ァいつバレてもいいがな」



他人事だとでも言うように言い切ったその言葉に、さすがに呆れを隠せない。
誰が江戸に入る手引きをしたり、幕僚たちのお忍び旅行だの会合だのの日程を突き止めていると思っているのか。どれもこれも錦が自身の話術で入手した情報だったり、城内に散らせて諜報活動をさせている部下たちの掴んだ情報だ。
昔からこういう――唯我独尊的なところがあったが、相変わらず頭が痛む。



「オメーがやらずとも、部下共がいるだろう」

「真選組のNo.2っていう立場がどれだけ私達にとって優位に働くか分かってるでしょ」

「フン…お前が幕府内に埋めた種があるんだ、」


そのうち艶やかな花を咲かせるさ。
高杉が吐き出した煙が宙に溶けていく様を見届け、そうだねと相槌を打った。


「最悪私はおらずとも、育てた部下達が十二分に働いてくれるだろう」

「……」

「そうなれば、私もすぐにでもこっちに帰ってくるよ」




「京に………鬼兵隊にね」



ニタリと笑みを浮かべた高杉が、嘲るように笑った。



「怖いねえ、うちのスパイは…」

「どこに行っても補佐役というのも大変だよ」

「俺ほど手のかからねえ上司もいねえだろう」

「どの口で言ってるんだか…万斉からよく聞いてるよ、好き勝手やってるって」



フフフと笑って流した高杉はご機嫌そうに見える。酒盛りの好きな彼だから、気心知れた仲の錦と飲み交わすのが楽しいのかも知れない。まだ陽気が暖かい昼下がりから、こうして屋内から桜を眺めながら飲むのも、いいものだ。
錦にとっても、こう静かに上等な酒と上等な料理に舌鼓を打つのは久々だ。計略を張り巡らさずともよく、口を滑らせる心配もいらないというのはとても楽だ。江戸にいるときはこうはいかない。

なかなか彼とこうしてゆっくり時間をとることは叶わない。
鬼兵隊の幹部――河上を通してやり取りをすることが1番多い。
錦が真選組に割かれる時間が多いため、「晋助のことをよろしくね」と頼んでいった、頼れる同志である。



「まるで春にだけ降る雨みてェで悪くねーな」

「春の雨、ね……」



綺麗な景色を愛でながら、しかし錦はくるりくるりとひるがえる桜の花びらに、かつての記憶を映していた。


曇天。やがてくすぶる黒い雨。怒号。飛び散るぬるりとした血脂。――師の最期の姿。



横に座る男と自分は、この世でたった1人、唯一無二の存在同士だ。
同じものを見続けながら生き長らえている、世界に食らいついている、たった1人の存在である。
この血濡れた後戻り叶わぬ地獄への片道の、唯一の同行者。

お互い何をしてでも、その悲願を成し遂げるまで、歩みは止めない。誓ったわけではないが、2人の間にはそういった、危うい絆があった。

――何をしてでも。



「…春の雨も、そう遠くないうちに、掴み取れるかもしれないよ」



沈黙を割った錦の横顔を見て、高杉は次を促す。



「ほォ?」

「前々からどうにか繋がれないか……、探ってたよね。―― 春雨とさ」






「晋助、数ヶ月前に江戸で春雨一派の小船が2人の浪人に奇襲を受けて鎮圧されたのは知ってる?」




計画のためには、何でもする。
成し遂げたい悲願のためには、そう、何でも……。