光の人





「え、錦が帰って来るんですかい?」

「おお、水戸の方から引き上げて来るらしい。いつ着くか分からんから出迎えはいいと言われたぞ」



寝耳に水だ。その伝言が遠回しに自分に言われてるのだろうことはすぐにわかった。
聞けてよかった。
自分だけ知らずにあとから近藤も土方も知っていたとなれば、きっと自分は苛立って八つ当たりしていたことだろう。
近藤にはへえ〜と気の抜けた返事だけしてその場で別れた。


「(帰って来るのか)」


その人は我が真選組の隠れた統率者だ。屯所を外すことが多く、闇に紛れ潜伏し攘夷派を叩く役割を担っている。
今回も二月程前に起こった攘夷派の一派との小競り合いの後始末で、北に逃げおおせた残党狩りに部下数人とあたっている。


「(一月半、いやそれ以上だ)」


なんだろうか。
夏休みを待つ小学生のような、キャンプに出かける前の子供のような、そんな気分だ。自分はどこにも行かないのに。



水戸は遠い。いくら文明が発達したとはいえ、足がつくことをよしとしない監察隊は交通機関を使いたがらない。今回も全員揃いも揃って田舎電車にガタゴト揺られて帰路に着くとは考えにくい。


「(もしかしたら明朝とか、)」


穏やかな昼下がりの風を受けて縁側に立つ。
錦は屯所にいる空いた時間にはいつも縁側にいる。座って風を浴びる錦が、思い出そうとせずとも浮かんで来る。
隣に座ったあの人の、掛けたはずの耳からこぼれた後れ毛が風に揺れるのが、自分の瞼の裏に映る。


この穏やかに夕暮れに向かう綺麗な時間を、なんだかとても錦に教えたい気分だった。


「(明日は団子買いに行こう、それから野球観に行きてえ、それから……)」


明日錦と何をしようかはやる心が浮き立つ。




明日は、この素晴らしく美しい穏やかな時間を、あの人と一緒に過ごせるだろうか。



















何かに起こされたわけでもないのに自然と目が開いた。
障子から入ってきたうすらと白けた青い光が、ふんわりと部屋に満ちている。

夜が明けている。


「(………)」


起き抜けなのにやけにスッキリとした総悟の頭に、錦のことが振って湧いたように思い浮かんだ。
頭が回転し始めるよりも先に、乱雑に布団を剥いで部屋を勇み足で出た。


スズメも鳴いてないほどの早朝だった。

廊下を歩くのもじれったくて、踏み石に置いてあった草履を履いて中庭を突っ切る。向かいの縁側の角になってるところでまた雑に靴を脱ぎ捨て、目の前の障子に手を掛けた。錦の部屋だ。


スラリと障子を開ける。開ける前に声をかけることなど頭になかった。そういえば自室の障子は閉めただろうか?覚えていない。


部屋には誰もいなかった。
が、荷物があった。


「(帰って来てる!)」


すぐに向きを変えて縁側を降りて草履をつっかけた。ああまた障子を閉め忘れた。でもそれもどうでもいい。


少しだけ寝たことを惜しく思った。
昨晩は至って気にもしてないですよという風体で飯を食った後自室に引っ込み、布団の上にゴロリと寝転がって待っていたが、なにせ健やか18歳、いつのまにか寝入っていたのだった。

広間にも当直用の部屋にも、食堂にも目もくれず、その足は道場に真っ直ぐ向かった。むしろ今の総悟には、なぜだかここ以外の選択肢は浮かんでいなかった。

音も立てず入り口をくぐり、脱ぎ捨てた草履なぞには目もくれず道場に入った。








光があった。




まるで聖書の一文のようなことを思った。

そこには、差し込む朝日の中で素振りをする背中があった。

差し込む光ごとその人も含め、総悟は漠然と目の前の光景を光そのものだと思った。

その人は前後に踏み出す足音もきぬ擦れの音も立てない。
ただ刀が静謐を切り裂き、空気を割る音だけが聞こえた。


視界の端にあった木刀に手が伸びた。
思考よりも速く、光に刀を振り下ろした。


カァン!と木刀同士にしては重たい音が響いた。


「へへ、さすがでさァ」


交わった木刀越しに目が合う。
すぐに木刀を受け流され、腕をおろす。


「おはよう、総悟。はやいね」


その人は、錦は一息ついた様子も今のでリズムが乱れた様子もない。素振りをしていたときの集中力が、今も途切れることなく続いているのが分かる。

完璧にいなされた。
やはり錦の裏をとることは難しい。



「錦こそいつ帰って来たんでィ」

「夜中の2時過ぎかなぁ。
十四郎と少し話しして、それから一眠りしたんだけど……なんだか起きてしまって」


それで素振りしてたんだ。
そう行ってこめかみにうっすらと滲む汗を拭った。
どれくらいの間振っていたのだろう。


「総悟は?」


滲んだ汗に張り付いた前髪をほどいてやりながら答えた。俺も、と。(断じてお前が帰ってきたから飛んで来たのではない、という顔をして。)

そうしたら一層錦が笑ってくれるもんだから、なんだかやっと戻った気がしたのだった。
総悟の知る“真選組”に。


「朝の静かな時間の無人の道場、っていうのもいいよね。なんだか心が洗われる」

「そうですかィ?

まぁそんなジジ臭ェこと言えんのも今のうちでさァ、すぐにうるせェヤロー共が…」


と総悟が続けようとするとそれを打ち消すかのように外からガヤガヤと音が近づいて来て、やかましく戸が開け放たれた。


「オワアア頭ァ!!!おかえりなさい!」

「いや〜長かったですね今回は!!」

「頭が帰って来るってんで俺ァ全然眠れなくって…」

「嘘つけオメー俺の部屋までイビキ聞こえてたぞ!!」


急に波が押し寄せて来たように無遠慮なやかましさが道場で弾けたという感じだった。ドワハハハハという野太い野郎の笑い声を聞いて、総悟は朝からウルセェなぁと言いながらも、パズルのピースが1つずつはまっていくような心地を覚えていた。

ただいまと柔らかく返す錦の周りに道着をすでに着た隊士たちが集まって来る。まだ始めてもいないのに汗の匂いがしそうな光景だ。


「それはいいけどお前たち」


牽制するようにかぶせた錦の言葉に、隊士たちが快活にハイ!と答える。


「道場の中ではなんと呼べと言ったっけ?」

「ハ、」

「それから道場に入るときには一礼」


さては履物を脱ぎっぱなしなんかにはしてないだろうね?
そう言われて皆瞬く間に背筋がシャンと伸び、青くなった顔で入り口にピューーッと戻って行った。


「お前もだよ総悟」

「(言われると思った)
へいへい」

「まさか私のいない二カ月、サボり散らしてたわけじゃあないよね?」


薄い笑みでつい、とこちらを見やる錦にニッと笑みを返す。


「言ってなせェ。胡座かいてる隙に俺が叩っ斬ってやりまさァ」


そう言って入り口に向かう背中に、錦の笑い声が飛んで来た。



錦は静かな道場を好きだと言ったが、総悟はこのやかましく泥臭い真選組に愛着があった。活気に満ち溢れた道場が好きだった。
そしてそれを錦と近藤が書いた掛け軸を背にして高座で総見する2人の隣で眺めるのが、それ以上に。


「(まあ、あーいうのも、悪かねェがね)」


おはようございます師範代!!!!
そう馬鹿でかい声で入っていく隊士たちに続きながら、総悟の瞼の裏には素振りをする錦の姿が蘇っていた。


うっすらと空気中の塵が光る中で、
朝日に照らされながら刀を振る錦の少し後ろから見た横顔。
伝った汗の雫。

それだけは、まあ、よかったかな、なんて。総悟は柄にもなく思うのだ。

そんな考えを忍ばせたことなどつゆもバレぬよう、生意気な皮をもう一枚羽織り、道場に足を再びつけた。


「ウィース」

「ウィースじゃないでしょもう」


呆れた優しい笑みで、錦が自分を見た。


さあ、“やっと”今日が始まる。