遠くきこえる





「なまえさん! 一緒に寿司を食べにいきませんか」

それは千寿郎くんの唐突な提案から始まった。
彼に手を引かれ、遠慮がちに土間の前へと顔を出した槇寿郎さんが「ね! 父上!」と促されて、「あ、ああ、良かったらどうだろうか……」と静かに言葉を口にした。
わたしは玄関口に佇んだまま、突然の誘いに何も云うことができず、そんなご厚意に甘えられるはずはないと思った。
けれども千寿郎くんの嬉しそうな、元気な表情を見ていたら、到底行かないとは云えなかった。

この時の寿司屋さんに行こうと誘った千寿郎くんの笑顔が、何かとてつもなく大きな戦いが終わった為だと知ったのは、ずいぶんと後になってからのことだった。煉獄さん宅は代々皆剣士なのだと父から聞かされていた。けれども、彼らが何と戦っているのかまでは知らなかった。

そうしてわたしは知らず知らずのうちに、誰かの想いの上に立ち、当たり前に明日が来るものだと信じて、呑気に日々を暮らしていたのだと思った。


 *

分厚い木の板の上に乗せられた魚はブリというらしい。
透き通ったその身が一枚一枚丁寧に切り取られていく様を、何か芸事でも見せられているような心持ちでじっと見つめていた。
職人さんというのは本当にすごい御方なのだ。
格式の高い寿司屋さんの皿は、家で見るようなありふれたものとは違った。長方形の器は縁が滑らかな曲線になっていて、料理を乗せるその場所には緩やかな起伏がある。
まずは一貫、「へい、お待ち!」と威勢よく出された寿司を頬張ると、口のなかで魚の身が蕩けた。
こんなにも美味しい寿司を、これまで味わったことはなかった。思わず、寿司を口に含みながら槇寿郎さんの顔を見つめた。

「上手いか」

槇寿郎さんの言葉に、行儀が良くないと分かりつつも、幾度も首を縦に振ることしか出来なかった。
感動したのだ。本当に美味しいのだから。
よほどみっともない表情で寿司を口に運んでいたのだろう、槇寿郎さんも千寿郎くんも、果ては寿司職人までわたしの様子を見て一様に笑った。
「そんなに感動してもらえるとは職人冥利に尽きます」と職人さんが優しく微笑んだ。


うちは貧乏であったので、寿司はおろか外で食事をするなどということも十九になるこの歳まで、父が生きていた幼い頃の一度や二度くらいしか覚えがなかった。
常日頃は近くの山で採れた山菜に、家の畑で採れた芋などを食べて暮らしていた。
芋は千寿郎くんの兄、杏寿郎さんが大変好物にしていたので、月に二度薬を届けに行く際に、一緒に持っていくと大層喜ばれた。

わたしの父は薬職人であった。医者ではなかったが、まだ瑠火さんが病で床に臥せって間もない頃から、薬を届けに上がっていた。
瑠火さんが亡くなり、うちの父も亡くなり、薬を届ける理由も繋がりもなくなって、九年の歳月が流れていた。
この間、とうに薬など必要はないはずなのに、きっと父を亡くして生活に困るだろうと彼らは薬を買い続けてくれていたのだ。子供ながらにだんだんと申し訳が立たなくなり、一度その事について話そうとしたが、使用する予定があるのでよいのだと槇寿郎さんはぶっきらぼうに答えた。


ある日、薬を届けようと煉獄さん宅まで来ると、近所の人たちだろうか、数人が集まって何やら立ち話をしていた。
通りすがりに聞こえてきたのは、この家の噂話だった。

「煉獄さんの家は奥さまが亡くなって、旦那さんはすっかり憔悴してしまっているのよ。日がな一日飲み明かして、二人の子が健気に暮らしているけれど、可哀想よねー」

わたしは、ただの薬売りだ。家の事情も、そこに住まう人の思いも何一つ解ってはいなかった。
けれども堪らなく悔しいような思いがして、黙って居られなくなってしまった時にはこれまで出したこともないような強い声を張り上げていた。
すると後ろから千寿郎くんに腕をつかまれ、彼は「よいのです。大丈夫ですから」と困ったように優しく眉を下げて、立ち話をしている人たちに会釈をした。
その姿にひどく申し訳ないような思いがして、余計なことをしてしまったと反省した。人の家の前で成すようなことではなかった。
ましてや関係もない自分が口を出したばかりに、関わりがあると思われて、これから煉獄さんたちが変な目で見られてしまったらどうしよう。
自分がこんなにも感情的な人間だとは思わなかった。
そんなことを考えて悶々としていると、千寿郎くんは察したように「ありがとうございます」と微笑んだ。
その表情に何だかとても胸が締め付けられて、わたしはただただ彼に謝った。
彼と少しばかり距離が縮まり、仲良くなったのはその時からであったかも知れない。

この家の人は誰も口にはしないけれど、皆が何かを堪えていて、そのなかで互いを思いやって暮らしていた。


「ブリは出世魚と云って、成長の過程で名前が変わってゆくのだ……」

槇寿郎さんが腕を組みながら、唐突にブリの蘊蓄(うんちく)を話し出した。
黙々と食べてばかりで会話がなかったから気を遣ってくれたのかも知れない。

「父は此処へ来ると家族にその話をするのです」

千寿郎くんは懐かしさからなのか、少し嬉しそうにして槇寿郎さんの話に耳を傾けていた。


すっかり夜の帳が下り、更けゆく景色のなかをわたしたちは並んで歩いていた。
槇寿郎さんは疲れて寝てしまった千寿郎くんをおぶさりながら、もうこいつはそんな歳ではないはずなんだがな、と苦笑しながらも、満たされた表情で夜空を見上げていた。

「君に礼を云わねばならない」

槇寿郎さんは立ち止まり、こちらへ向き直った。今日は楽しかった、と口にした。

「お礼を云わなければならないのはわたしのほうです」

本当にわたしのほうであった。その先の言葉が、込み上げたさまざまな感情に遮られて続かなかった。
彼らの家にお世話になって、わたしはちゃんとそのご厚意に報いたことがあっただろうか。

槇寿郎さんは、わたしを見て穏やかに微笑んでいた。
幸福とはこのような穏やかな日のことをさすのであろう。
わたしはこの日食べた寿司の味を生涯忘れないだろうと思った。

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