落ちた月は甘い





いつもと何ら変わりない夜だった。

 担当地区の警備に当たっていた煉獄杏寿郎の耳が聞きなれた音を拾い、血の匂いが鼻孔を掠めた。音からして、戦っているのは一人だろう。救援依頼は入っていないが、杏寿郎は音のする方へ駆け出した。

 そうして駆けつけたちょうどその時、赤い刀身が鬼の首を刈り取った。自身のものとは違う、静かに燃え揺れるような炎をうつして、杏寿郎の目がチリっと輝いた。

 空に浮かぶ月の光が、木々の隙間から零れ、開けたその場所を照らしている。
 その中で少女が一人、崩れ去る鬼の傍に立っていた。肩で息をしているが、大きな怪我は見受けられない。血の匂いは、鬼のものであったらしい。そのことに、小さく安堵する。

 草木を掻き分ける音に、少女が再び刀を構えた。反応速度、隙の無い構え、闇を閉じ込めたような瞳が杏寿郎を捉える。その姿は、さながら小さな獣だった。
 そこにいるのが同じ鬼殺隊士であると認識すると刀を下ろし、小さく頭を下げた。刀についた血を払い、流れるように刀身を鞘へ戻す。


「…君、怪我はないか?」
「ありません。お気遣い、感謝します。…炎柱さま」


 感情のない、無機質な声だった。
 よく見ると整った顔立ちをしているのに、髪は痛んで艶もなく、戦いの中で切れてしまったのか長さもまばらだ。少し大きな隊服の袖から除く手首はやせ細っていて、満足に戦えるとは思えないほどに貧相な体つきをしていた。
 だというのに、彼女が打ち取った鬼は2mを超えていただろう。力も強く、首も太くて頑丈だったはず。ともすれば、男性隊士でも手こずったかもしれない。


 「(呼吸と体の重心の扱いが上手いのだろうか)」


 杏寿郎は、面倒見の良い男だ。階級や性別、能力など関係なく全ての隊士に平等に接するため、隊士からの信頼も厚く柱の中でも殊更好かれている人格者だった。
 ゆえに、放っておけなかった。痩せこけた体で、懸命に刀を構える少女を。
 そして、興味があった。意志の強い獣のような瞳がどこまで強く、研ぎ澄まされるか。

 少女が木の下に腰掛けたので、杏寿郎も迷わずその隣に腰を下ろした。なぜ隣に座るんだ?と視線で問いかけるも、杏寿郎が動かないことを悟り、少女は小さくため息をついた。
 柱は普段、尊敬や畏怖の念を向けられる。柱がいれば、隊士は起立したままその発言や一挙一動に気を配る。それを少し、窮屈に感じていたので、このように物怖じせず振る舞われることは新鮮で、有り難かった。


「君、名前はなんという?」
「みょうじなまえ、階級は戊、使用する呼吸は炎の呼吸です」
「実に無駄のない自己紹介だな!」
「恐れ入ります。炎柱さま」


 杏寿郎も、能面のようだと言われる男であったが、なまえはさながらからくり人形のようであった。笑みを浮かべる男と無表情の少女が、夜の中で並んで座っている姿は、常人の目には異様な光景に見えるであろう。


「みょうじ、腹は減っていないか」
「はい…いいえ、まだ」


ぐぅ、と小さな音が薄い腹から響く。


「今、減りました」






 みょうじなまえは不思議な少女だった。
 感情の起伏が少なく、自身の体の状態にも無頓着だった。空腹は、腹の虫がなったかどうかでしか判断しない。体の不調は、体が動くかどうかと意識が明瞭か不明瞭か。判断基準がおかしいのだ。白か黒。零か百。とにかく極端で、危なっかしい。
 だから、面倒見の良い杏寿郎が特別気にかけるのは必然であったかもしれない。

 竹皮に包まれたおにぎりを差し出すも、なまえは小さく首を振って、謝礼の言葉を伝えるだけだった。

 代わりに、彼女が懐から取り出した干し餅を食べ始めた時、杏寿郎に衝撃が走った。なんだその薄っぺらい硬そうな食べ物はと聞くと、干し餅だと教えてくれた。北国の出身というなまえにとって、干し餅は身近な保存食らしい。
 ちなみに、揚げて食べるなど、食べ方は色々あるが、そのどれも、なまえは試したことがない。楽しむという感覚を持ち合わせていないからだ。

 好きなのかと聞くと、少しの間をあけて考えたこともないと返答が投げられた。ただ、持ち運びに便利で日持ちがするうえに、餅なので腹持ちがよく栄養分が高いから食べているだけ。
 そして二口で食べ切れる大きさと、手が汚れないのが利点だ。食べているときに鬼がきても咄嗟の対応が可能である。
 
「…それはうまいのか?」という杏寿郎に、なまえは干し餅を1枚食べさせた。口にしたそれは硬く、かすかに米の甘さが感じられた。
 しかし、それ以外に味はなく口の中の水分がひたすらに失われていく。しゃわしゃわ、ぱさぱさとした触感に、杏寿郎は珍しく唸った。正直に言うと口に合わない。

 杏寿郎は食べることが好きだ。食事は体の資本であるが、それとは別に美味しいものを食べると、体の中が温かくなる。そこに誰かがいるとさらに良い。人と食べる美味しい食事ほど心を満たすものはない。殺伐とした命の取り合いに身を置く中で、普通を見失わないためにも、食事は大切なことだった。
 唸りながらも、どうにか干し餅を食べ続ける杏寿郎を見て、なまえがポツリと呟く。

「…他の隊士の方にはよく、不味いと言われます」

それを早く言ってくれ。




 それから、杏寿郎は渋るなまえを連れて街に降りた。時刻は、街の店々もいざ商いをはじめようかという頃であった。
 食事に対して、上手い・不味い、好き・嫌いの価値観を持たないなまえに、何か上手いものを食べさせてやりたいと思った杏寿郎の目に入ったのは、甘味処の赤いのれんだ。
 女子なら、甘い物が好きなのでは、という考えは安直かもしれないが、かつての継子や蝶屋敷の面々は、皆甘い物に目が無かったので、とっかかりとしては最適と思えた。


「みょうじ、あそこの店に入ろう!」
「いえ、結構です」
「なぜだ?」
「…こんな格好では、入れません」


 山の中で戦っていた為に、その隊服は土で汚れていた。髪はぼさぼさで、あかぎれた指先をいじる爪もよく見ると土が入り込んでいる。顔も、その手で拭ったのか汚れが目立った。だから、街に降りるのを渋っていたのか。

 なまえは、自分の身だしなみに気を配る方ではない。だからと言って、常識が欠落しているわけではなかった。体裁を気にしてなどいない。自分一人が汚いと言われるのは別に良いのだ。鬼を切るために生きているのだから。
 けれど、一緒にいる人や店に迷惑をかけるのは避けたかった。それくらいには、他人に関心があった。汚れた姿で店に入っては、迷惑になります。と俯く姿に、杏寿郎は眉を下げて微笑んだ。


「ここで待っていてくれ」


 石鹸のような香りが土の匂いを覆った、と同時に頭にのった温もりに目を見開く。顔を上げると、殺と書かれた背中が、店の中に消えていくところだった。
 その姿が戻ってくるまで、なまえは視界の端で揺れる赤を感じながら、静かにそこに立ち尽くしていた。





 蝶屋敷の主人である胡蝶しのぶは、並んで立つ見慣れない組み合わせに「あら?」と上品に首を傾げた。片方は、一度見たら忘れられないような、強い印象を持つ男。もう片方は、そんな男とは対照的な、あか抜けない地味な少女だ。


「煉獄さんがいらっしゃるなんて、珍しいですね。そちらは、もしかして新しい継子ですか?お怪我でも?」
「みょうじは継子ではない。怪我もないが、この通り…」


二人の視線がなまえに移る。
言いたいことは分かったとしのぶは小さく頷き、蝶屋敷で看護に従事する少女に声をかける。
 そして、湯場へと連行されるなまえを見送って、杏寿郎を促されるまま客間へと向かった。

 そうして身を清め、髪を切り揃えられたなまえを待っていたのは、湯気の上がる玉露と黄金色の芋羊羹だった。
 羊羹など、食べるどころか見たこともなかったなまえは、渡されたそれを暫く、じっと眺めていた。日の光に当てると、それはますます輝いて、闇を閉じ込めた瞳に色が反射する様は、まるで夜に浮かぶ月のようだった。
 すん、と鼻を近づける。


「…芋の香りがします」
「芋羊羹だからな!」


 飽きもせず、しげしげと見続けるなまえの隣で、杏寿郎は茶を啜る。渋みがなく、丸みのある甘みが舌の上に転がり、海苔のような覆い香が鼻の奥に通っていく。薄い青緑色の水色からは思いもかけない濃い旨みだ。思わず「うまい!」と言いかけて、口を噤む。
 先程しのぶに怒られたばかりだった。


「美味しいですね。これ、どこのですか?」
「最近出来た店らしい。大通りの味噌屋を右に曲がって…」


 など、柱二人が和気あいあいと話している。そして蝶屋敷で働く少女たちは、芋羊羹を頬張っては幸せそうに表情を緩めている。
 お茶と芋の甘い香り、畳のふわりと柔らかな感触、森の中にいるようない草と、自分の髪から香る石鹸の香り。少女たちの姦しい笑い声。

 そして―・・・


「どうしたみょうじ!食べないのか?」
「…いただきます」


 さっきまで、夜の中にいたはずなのに。
 そう、ずっと、夜の中にいたはずなのに。

 そう思いながら、小さく切った芋羊羹を小さな口の中に放り込む。瞬間、芋のまろやかで柔らかい甘みが広がる。ほろりほろりと口のなかで解けていく触感。呼吸と共に、鼻の奥に通って抜けていく香ばしい香り。思わず、ぎゅっと目を瞑った。まるで、鼻の奥に香りを止めるように大きく吸い込んで小さく息をつく。
 夢中になってもう一口、羊羹を口の中に放り込んだなまえに、固唾をのんで見守っていた面々は、表情を和らげた。


「美味いか!」
「う、うまい、です」


 「もっと食べると良い!」と笑う杏寿郎と「お茶も飲んでくださいね。喉を詰まらせないように」と微笑むしのぶ。「美味しいですね」「幸せですね」と笑う少女たち。

 不思議な心地だった。初めて感じるものに、なまえは酷く戸惑った。お腹のあたりから全身が温かくなっていく感覚。ぞわぞわと、左胸がうるさく騒ぐ。なのに、嫌な感覚じゃない。しあわせ?幸せ…この感覚が幸せ。
 そうか、食事とは、幸せなものだったのか。


「美味くて、胃が、ひっくり返ったのかと思いました」


 そうしみじみと言ってお茶を啜るなまえに、杏寿郎が笑う。その顔を見て、今度は心臓がひっくり返ったのかと思ったが、なぜだかそれは、口にすることができなかった。







 炎柱が、継子を迎えてから1年が経った。

 男性隊士でさえも泣いて逃げ出す炎柱の稽古を粛々とこなすのは、闇を閉じ込めたような瞳と華奢な体の少女だった。
 もともと、呼吸の使い方は上手かったが、杏寿郎の指導の元で、剣術や体術にも磨きをかけ、階級は戊から乙まで、瞬く間に駆け上がった。


「師範」
「なまえ、調子はどうだ?」
「完治しました。本日から復帰できます」


 顔色と包帯が取れた姿に、嘘ではなさそうだなと満足げに頷く。
 一年前とは、見違えた姿のなまえがそこにいた。頬は丸くなり、痩せこけた首と手首もふくよかになった。ぶかぶかだった隊服も、その体に合っている。痛んで艶のなかった髪は、日の光を含んで輝くほどになったし、無機質だった表情も、ほんの少し柔らかくなった。

 痩せていたせいで、幼く見えた見た目も、年相応になった。杏寿郎は出会った時、なまえを弟と同じくらいの歳だと思っていたが(実際には三つ上だった)これは一生秘密にしておこうと誓った。

 なによりも、師範と、杏寿郎を呼ぶ声に温度が宿った。もう、そこにいるのは、からくり人形のような少女ではない。


「なまえ、快気祝いだ!美味いものでも食べに行こう!」
「はい」
「何が食べたい?君は何が好きだ?」


 そう、好きも嫌いも、美味いも不味いも考えなかったあの頃とは、もう違う。美味しいを教えてもらった。食べるということが、幸せなことだと教えてもらった。人と笑い合うことの悦びを教えてもらった。
 隣に立つために、恥ずかしくない自分になろうと思うようになった。
 全て、この人から、もらった。



 いつもと何ら変わりない夜だった。
 なんの変哲もない出会いだった。

 なのに、あの夜から全てがひっくり返った。この人に出会って変わったのだ。そんな出会いが、人生の中で、いったいいくつ得られるのだろう。

 ーーきっと、最初で最後の出会いだと思う。


「芋羊羹が、食べたいです」

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