霧の街、夕景幕情《後編》
ムスッとしたままそう言う不死川先生の視線は、足元の空缶へと向けられる。缶の数は全部で五缶。三缶は不死川先生が空けて、残りは私だ。
「ええ? 酔ってませんよ。これくらいで酔うわけがないじゃないですかぁ」
「……酔っ払い程そういう台詞を言うんですよね」
そう言いながらホワホワ気分で飲みかけのビール缶を傾けると、空になっている事に気付く。テーブルの奥に置いていた未開封のビールへ手を伸ばせば、不意にその手を掴まれた。
大きい手のひら、太い指。ビール缶を触っていたせいなのだろうか。不死川先生の手は、ヒンヤリと冷たくて気持ちが良い。
「不死川先生? 何ですか?」
「一旦ストップした方がいいです。ジュース……いや、水の方がいいですね。待ってて下さい、今買ってきます」
「ん……じゃあ、お金……」
「いいです。座ってて下さい」
「……やだ。不死川先生、行かないで」
重なっていた手が離れていこうとするので、指を絡ませるようにしてその手を引き止める。
この人、また自分の財布からお金を出す気だ。私には一銭たりとも出させないつもりなんだ、そんなの駄目だ。そう思った上での行動なのだが、不死川先生はえらくギョッとしていた。何度も瞬きをしながら、私に握られている自身の手と私を交互に見つめている。
「みょうじ先生、あの……」
「私、自分で買います。せめて自分の飲み物くらいは」
「……はァ?」
「だって、このザンギも元はと言えば先生が買ってきたものですし。ビールだって全部用意してもらっちゃって」
「……何だよ、そっちかァ」
空いていた方の手で目元を隠し、溜息をつきながら項垂れる不死川先生。何となくその様子を眺めていると、彼の耳の先が赤く染まっている事に気付く。暑いのだろうか。そういえば、空調の加減かこの部屋は微妙に暑い気がする。
「……仰る通りですよね、すみません」
浴衣の合わせ目を掴んでバフバフと体表面へ風を送っていると、顔を覆った指の隙間からこちらへ視線を送りながら不死川先生が言う。随分と疲れた様子だ。
「元はといえば話を持ちかけたのは俺の方なので、全部出すべきだと思っていました。ですが、そうですよね。そういう関係でもないのに全て奢られたんじゃあ居心地悪いですよね」
「そういう関係……?」
「……いや。とにかくみょうじ先生は、今は外を彷徨かないで下さい。先程のような事が起きてしまってはいけない」
「あ……」
不死川先生は私が絡めていた指をゆっくりと解くと、着崩していた自身の浴衣の襟ぐりを微妙に整えながら立ち上がった。「すぐ戻りますからこのままここにいて下さいよ。いいですね?」と何度も言い含めてから、急ぎ足で部屋を出て行く。
モワッと暑いホテルの部屋で一人きり。どことなく寂しくて、私はそのまま仰向けに寝転がった。天井の模様はボワ〜ンと歪み、多幸感や人恋しさが行き場もなく自分から溢れ出しているような気がした。
「不死川先生……すぐ戻るって言ったのに」
遅い、と口に出す。その内戻るのだろうと頭の隅で考えつつも、無性に寂しさが募っていく。
じっとりと汗ばんだ上半身が居心地悪くて、瞬きをするのも億劫だった。ゴロンと寝返りを打ち、先程まで不死川先生が座っていた座布団をぼんやり眺める。何となく抱き枕が欲しい気分だったので、肉厚なそれを引き寄せて、ギュッと抱きしめ目を瞑った。
意識が遠ざかるのはそれから間もなくの事で、ハッと気付いた時には視界の中に気遣わしげな不死川先生の顔が映っていた。
「みょうじ先生、大丈夫ですか」
「……ん」
「待たせてしまってすみません。眠いですか?」
何度か瞬きすると、朧げだった視界がハッキリしてくる。不死川先生の部屋で呑んでいる最中という状況を思い出すのにも時間がかかり、私はしばらくその端正な顔をぼんやりと見つめ返していた。
「部屋まで送ります。歩けますか?」
「んん……」
「明日も早いのでもう休んだ方が良いです」
斜めに傾いたその顔。いつもより立ち上がっていない、長めの前髪。彼はおそらく私の傍らにしゃがみ込んでいるのだろう。
正直言って、眠かった。このまま眠ってしまいたいのは山々だし、明日の事を考えれば部屋へ戻るべきなのだろう。現に他人様の部屋でこうして横になってしまっているのだし、これ以上居座るのは迷惑以外の何物でも無い。
しかし、だ。
「……眠くないです」
「え?」
「大丈夫です。まだ寝ません」
どうしてか、大人しくその言に従えない自分がいた。このまま部屋に帰ってしまうのを惜しいと思ってしまったのだ。
上半身を起こしながら横目で彼の顔を確認してみると、やはり戸惑ったような表情をしている。募る罪悪感。発言を撤回しようか迷ったがやはり我儘心が勝り、首を縦には振れなかった。
「みょうじ先生。無理はなさらない方が」
「……でも」
「乗って下さい。運びます」
不死川先生は私に背を向け、その背に乗るよう促してくる。自分のそれとは比にならない程広いその背中を見ていると、流石に頭が冷えてきた。
やはり、迷惑なのだ。図々しく思われているのかもしれない。心の中でそう呟くと、気分が急速に消沈していくのがわかった。
「……大丈夫です。自分で歩きます」
身体は鉛のように重く目眩もしていたが、思いのほか普通に立ち上がれてしまう。私を背負う体勢のまま、不死川先生は肩越しに視線を送ってくる。なるべく目を合わせないようにしてその脇を通ると、彼が後ろを付いてくる気配がした。
「ひ、一人で帰れますよ? 大丈夫です」
「足元がふらついてます。危ないので、部屋の前まで」
優しい。そう、彼は優しいのだ。ワイルドな見た目や数々の悪評判で誤解していたが、決して威圧的ではなくむしろさりげない気遣いが出来る紳士なのだ。
けれど、何故か今はその優しさが辛かった。悲しい事に、たった十数歩歩けばあっという間に自室の前へと辿り着いてしまう。
「鍵、場所わかりますか」
背後に佇んでいるであろう不死川先生の男性的な低い声が、心地良く耳へと届く。私は頷き、鍵の先端と鍵穴を合わせようとする。が、先端は中々入っていかない。酔いが回っているせいだろうか。
と、横合いから大きな手のひらがそっと差し伸べられた。
「……俺が開けますか?」
廊下を照らし出す目映い照明と不死川先生の顔が重なって、その表情が判別出来ない。私が言われるままに鍵を差し出すと、不死川先生は鍵を受け取ってスムーズに扉を開錠する。
決して触れる事がない、受け渡しの手と手。扉は重苦しい音を立てて空気の流れを変える。
「開きましたよ」
すぐ脇を、大学生らしい団体客が騒ぎながら通り過ぎていく。皆男の子で、その内の何人かは私達にチラチラと視線を送っているような気がした。彼らの大きな笑い声が反響し、遠ざかっていく。私は落ち着いた紅色の絨毯を、意味もなくジッと眺めていた。
「……どうしました?」
そう私に呼びかける不死川先生の声は優しかった。私がその袖を握りしめているので、戸惑っているのかもしれない。
自分の行動が普段ではあり得ないような、おかしいものだという事は理解していた。けれど、握らずにはいられないのだ。
不死川先生と離れたくない。まだ一緒にいたい。隣で彼の身体にもたれかかりながら、どうでも良い事を延々と喋っていたい。
「……まだ、不死川先生とお話ししたいです」
袖を握る手が、微かに震えている。こんなに我儘を言って甘えてしまうなんて、私はどうかしていると思う。
不死川先生の返答はなかった。あまりに恥ずかしい。やはり私は言ってはならない事を言ってしまったのだろう。
今の無し、とでも言って部屋に駆け込もうか。そんな事を
夢想していた私は、突如強く腕を引かれていた。
──あっ! 俺財布忘れたわ!
──ギャハハ、バカじゃねーの! 早く取ってこいや!
エレベーターホールの方からは、そんな会話が響いて聞こえてきていた。扉のすぐ向こうにある廊下をパタパタと走っていく足音は、先程の大学生だろうか。私と不死川先生は、その音を私の部屋の内側で耳にしていた。真っ直ぐに肘を伸ばして扉に手を付く不死川先生が、ゆっくりと唇を開く。
「ご自身で仰った言葉の意味、わかってますか?」
私がもたれかかり、不死川先生が圧をかける扉がギシッと音を立てる。つけっぱなしにしていたデスクライトの微かな明かりを背後から浴びている不死川先生の顔は、影になって見えない。
石鹸の香りに紛れ鼻先を掠める、ほのかな汗のにおい。心が泡立ち、鼓動が速くなる。
「い……意味って。そのままの……意味です」
「わかってやってるんですよね?」
「え?」
「そんな物欲しそうな目で見つめられて、黙っていられる男がいるとでも?」
明らかに変化した雰囲気。身体が、密着していた。不死川先生は扉と自身の身体で私を押し挟んでいるのだ。
返ってきた反応が自分の想像していたものとは違う事に、今更ながら驚きを隠せない。先程とは打って変わって、彼の声色に怒気のようなものが含まれているのにはすぐ気が付いた。だが何故彼がいきなり怒り出したのか、そしてどう答えればその怒りが治まるのかが皆目見当がつかない。
「あ……あの」
私の発した声は明らかに震えていた。予想よりも弱々しく出てしまった声に、動揺を隠せない。
すると、思っていたよりもかなり耳元に近い位置から不死川先生の声が聞こえてきた。
「……怖いですか?」
「あっ」
「ッハ……みょうじ先生。無防備すぎますね」
彼の吐息が耳にかかり、思わず声が出てしまう。混乱しているのを嘲笑われているのだろうか。不死川先生は鼻で笑いながら、ますます私の耳元へ顔を寄せてきた。
腿の間にぐいぐいと割り込んでくる彼の膝。胸の前で畳んだままだった手の存在を思い出し、その大きな胸を押そうとするのだがすぐに両手首を掴まれ、頭上で固定されてしまう。
「ま、待って下さい。不死川先生、何を」
「みょうじ先生。同僚だからって、俺の事を過信しすぎてやいませんか」
「そ……っ」
「先生が思っているより、男って生き物は短絡的なんですよ」
「あっ!」
耳朶を、滑らかな粘液を纏ったものがじっくりと這っていく。一方で膝から上方向にかけて腿を撫で上げられる感覚もあった。足元がスースーするのはおそらく、裾をたくし上げられているのだろう。不死川先生はますます腿の間に自身の脚を割り込ませてきて、より身体が密着していく。
何故、こんな事になってしまったのだろう。未知の感覚にビクビクと震える私の耳に、その低い声で紡がれる言葉が流れ込んでくる。
「普段は警戒心の強い女性がいきなり無防備な姿を見せてきたら、男はどう感じると思います? そりゃあドキドキしますし、自分に気があるのかと勘違いもする。無邪気に微笑みかけられれば、もうイチコロですよ」
「っん」
「みょうじ先生は、他の野郎の前でもこんな無防備なんですか?」
「あ……っ!」
不死川先生の手が、浴衣の上から腰からお尻の辺りを撫でている。くすぐったいようでくすぐったくない絶妙な力加減で触れてくる指は、ショーツのラインに沿って徐々に下降していた。思わず脚を閉じようとするが、不死川先生はその分強く自身の腰を押し付けてくる。
私はハッと息を飲み、真っ赤になった。今更ながら、その熱を持った塊の存在に気付いたのだ。
「これから俺にされる事、予想出来ますよね?」
「……っ」
「怖いですか?」
不死川先生の発する言葉の一つ一つが、心に突き刺さるようだった。私を蹂躙していた手のひらや脚が離れていくと、支えを失った私の身体はズルズルとその場に座り込んでしまう。
自分が涙を流している事に気付いたのは、傍らでしゃがんだ不死川先生に目元を指で掬われた時だ。
「……すみませんでした」
「……っ」
「あなたの振る舞いで、俺個人が不快に思う事はありません。ただ世の中の男は俺のような奴ばかりではないので……そこをわかってもらいたくて」
「……しません」
私が再びその袖の端を握りしめると、不死川先生がハッと息を飲むのがわかった。涙はとめどなく流れていたが、私は震える声をなんとか制御しながらゆっくりと言葉を紡いだ。
「他の男の人の前でなんて、こんな事しません。私……本当に、不死川先生とお話ししたかっただけなんです」
「……みょうじ先生」
「今日一日……ずっと無駄に緊張してしまって。変な事ばっかり言っちゃって、雰囲気を悪くさせてしまったのをすごく後悔していたんです。お酒の力を借りる形にはなりましたけど、普通に言葉を交わせるようになって嬉しかったんです、私」
「……」
「明日になれば、きっとまた元の自分に戻ってしまう。上手く話せなくなってしまう。だから、今のうちに……不死川先生ともっと仲良くなりたかったんです」
涙が止まらないのは、お酒のせいでは無いはずだ。どうして自分という人間はこうなのだろう。どうやっても不死川先生に迷惑のかけ通しで、情けない以外の言葉が出てこない。
けれど、このまま諦めたくはなかった。お酒の力なんて借りるのがいけなかった。素面の時でももっと頑張って、上手く話せるようにしなければ。
(……あれ?)
自分はどうして諦めたくないと思うのだろう。不死川先生は単なる同僚だ。別にそこまで仲良くならなくても、仕事には支障が無い筈だ。
この、彼と仲良くなりたいという気持ちは。もっと話したい、一緒にいたいと思う気持ちは、なんなのだろう。そう思って顔を上げた瞬間、ふと視界が影に包まれ、唇にほのかな感触が触れた事に気付く。
(え……?)
「意地悪い真似をして、すみませんでした」
ゆっくりと顔が離れていく。急激に心臓が高鳴って、目の端がチカチカとしているような心地がした。ゆっくりと顔を離した不死川先生に真正面から見据えられた時、初めて自分はキスをされたのだと気が付いた。
「俺も、もっとみょうじ先生とお話ししたいです」
「……!」
「多分……あなたとは感情のベクトルが微妙に違うかもしれませんが。仲良くなりたいというのは同じです。俺も」
「じゃあ……」
「ですが、今日はここまでにしませんか。こんな時間ですし、あなたは勿論、俺も……酒が入っているので」
多分、自制出来ません。そう呟く不死川先生は私から微妙に目を逸らし、頬を赤らめる。その言葉の意味する所は、その手の事に疎い私でも流石に理解出来る。押し付けられた不死川先生の下半身が、益々硬さを増しているような気もした。
不死川先生の下半身の状態を想像しかけた私は、慌てて脳内の映像を払拭する。そんなもの、今すべき想像ではない。失礼すぎる。
(不死川先生も……私と同じ気持ち)
そう、今考えるべきはこの件だ。彼も私と仲良くなりたいと思ってくれている。それは良かったのだが、あれは間違いなくキスだった。
キス、という事は。不死川先生が私に抱くのは、恋愛感情に相当するものなのだろうか。
(不死川先生が……私を好き!? 嘘でしょ!?)
けれど、私もそうかもしれない。キスをされたが、決して嫌ではなかった。彼の唇の柔らかな感触が今でも残っていて、思い出すと心が高鳴る。甘い感情で胸がいっぱいになる。
(私も……不死川先生の事が、好きなのかな)
それからしばらくは、微妙な沈黙が流れた。薄暗い室内。戸を背にして二人並んで座り込み、お互い何も言葉を発そうとしない。
ただ、いつ重ね合わせたのか手と手だけが触れ合っていた。互いにじっとりと汗をかいている。緊張の度合いは、おそらく同じくらいなのだろう。
「……あの」
不死川先生は、声を発すると同時に手に力を込めた。わざとらしく揺れてしまう身体。心臓は、もう口から飛び出してきそうだ。
「は、はい」
「そろそろ……」
ああ、部屋に戻るのか。そう思うと急に寂しさが募る。私は自然と自分から彼の手を握り締めていた。頭では別れなければいけない事を理解していながら、その手を握らずにはいられなかった。
こんな駄々っ子のような事をして、きっと不死川先生は困っている筈だ。そう思いながら顔を横に向けて彼と目を合わせると、そっと頬に手が添えられる。
互いに、言葉はなかった。不死川先生は眉を寄せ、案の定困ったような表情を浮かべていたが、その眼差しは静かな熱情を秘めていた。ひどく優しげで、激しく胸が高鳴った。
おそらく私も同じような表情をしているのだろう。不死川先生がふと視線を伏せると、その顔が近付いてくる。私が目を瞑るのとほぼ同時に重なり合う唇。
果たして自分の選択は正しいのだろうか。場数を踏んだ玄人ではないので、自分がただその場の雰囲気に流されているだけではないのかと不安になったのだ。
彼と深く関わったのは今日が初めてだ。それまでは、挨拶しかしてこなかった。そんな人といきなりこんな関係になるだなんて、性急すぎるだろうか。不健全だろうか。貞操観念の緩い女だと思われてはいないだろうか。
「ん……」
だが、唇の動きも性的な衝動も止まらなかった。互いに身を乗り出し、指と指を絡め合い、愛を確かめ合うように唇を啄み合う。
息を吸う為に唇を離せば至近距離で視線が交わり、どちらからともなく視線を伏せれば、まるでそれが合図のように再び唇が重なり合う。触れ、絡み合う舌先。交わる吐息。
「ん、ん……」
「……っはァ」
「んんっ」
自分達の唇が艶かしいリップ音を放つ度に、何とも言えない淫らな気分で脳内が蕩けていった。不死川先生はそろそろ部屋に戻らなければいけないと言っているのに、口付けは益々深いものへ変わっていく。終わりが見えない。
(けど……ずっとこのままでいたい。もっと──)
だが、行為は唐突に終わりを迎えた。突如、背にしていた戸口のノブがガチャガチャと動き始めたのだ。二人とも瞬時に身体を離し、驚愕の表情を浮かべながら扉へ顔を向ける。
私を部屋に引きずり込んだ瞬間、不死川先生は反射的に鍵を掛けていたのだろう。それが功を奏し、結果的に扉は開かなかった。
『あっ、ヤッベ! 部屋間違えた!』
『逃げろ逃げろ!』
扉の向こうから聞こえる声は、おそらく先程の大学生のものだ。外出先から帰ってきたのだろうか。パタパタと足音が遠のいていくと、私は手を胸に当てて長く息を吐いた。
「び……びっくりした」
「……みょうじ先生」
不死川先生が立ち上がりながら、私に手を差し伸べてくる。その仕草でもう完全に行為が終わってしまったのだと察した私は、内心気落ちしつつもそんな淫らな自分を恥じる。
なるべくその思いを表に出さないようにしながら、その手にそっと自身の手のひらを重ねた。
「すみません。長居しましたが、そろそろ」
「え、ええ。こちらこそ……なんか」
「いえ」
互いに俯いたまま、また沈黙が流れていく。だが、これ以上このままでいるわけにもいくまい。名残惜しく思いながらも手を離そうとすると、ふと前髪を撫で上げられた。
顔を上げた瞬間、額に触れる柔らかな感覚。チュッと音を立てながら唇を離した不死川先生は、目をパチクリさせている私に柔らかく微笑みかける。
「では、また明日」
「は、はい……っ! おやすみなさい」
「おやすみなさい」
古めかしい音を立てて閉まる扉。ペタペタと足音が遠ざかり、隣の部屋の扉が閉まる音が壁越しに聞こえてくる。その瞬間、私は顔を覆いながら声をひそめて叫んでいた。
「う、うそ……! キスしちゃった、どうしよう……っ!」
いてもたってもいられなくなり、駆け出しながら身体を捻ってベッドへダイブする。柔らかな大きい枕を力いっぱい抱きしめて、ひたすらベッド上をゴロゴロと転がった。
微かに酔いが残っていたとはいえ、思考は既に平常時のレベルまで戻っていた。恥ずかしさの極み。後悔している訳ではないが、明日も彼と顔を合わせなければいけないと思うと逃げ出したくて堪らない。頭が爆発してしまいそうだ。
(これは、付き合っている事になるのだろうか)
告白も済ませていないのにキスを済ませたのは、果たして正しい順序なのだろうか。いかんせん経験値が足りなさすぎる。わからない。頭を抱えて考えるが、上手く頭が回らない。
結局色々と考えや不安が尽きなくて、その日は明け方近くなるまで寝付けなかった。ふと気が付いた時には枕元に置いてあったスマホがけたたましく鳴っており、カーテンの隙間から外の光が漏れ差している。
「……?」
頭がひどく重かった。寝ぼけ頭でスマホを眺めると、画面にはゴシック体の『不死川先生』という文字が表示されている。何となく通話ボタンをタップして、端末を耳に押し当てた。
『起きました?』
「……はい」
『おはようございます。そろそろ朝食をと思ったのですが』
電話越しに聞こえてくる不死川先生の声は、冷静そのものだ。反射的に壁時計を眺め、ぼんやりと口を開ける。
七時二十五分。朝食。七時二十五分。
「……えっ!? あっ」
『……』
「やだっ! す、すみません! 待ち合わせ、六時半でしたよね!? ごめんなさい!」
『……いえ』
フッと笑っているような声が聞こえた。端末を耳に当てたままベッドから跳ね起き、スリッパも履かずにスーツケースの蓋に手を掛ける。が、片手では中々開かない。そんなワタワタ感が向こうには伝わっていたのだろう。不死川先生は『ゆっくりでいいですよ』と言いながら、くつくつ笑っている。
結局身支度を整え終えたのは、それから三十分以上経った頃だった。そのままチェックアウトするので、私達は連れ立って朝靄漂う釧路の街へと一歩踏み出す。
「明け方よりは大分晴れてきましたが、このガス、地元では『じり』と言うそうですよ」
「そ……そうですか」
目的の海鮮市場近くの駐車場で止まる車。雨は降っていなかった筈だが、アスファルトはどこも色が変わっていて、水溜りすら出来ている。
「足元、気を付けて」
ふと気付くと、先に車を降りた不死川先生が助手席側まで回り込んでいた。扉に軽く手を添えながら、私に向けて手を差し伸べている。逆光で顔は見えないが、恥ずかしくて堪らない。
脳裏をよぎるのは、勿論昨晩の出来事だ。
「す、すみません」
「いいえ」
立ち上がる瞬間、重なる手のひら。このまま手を繋いで歩くのだろうかとソワソワしたが、意外にも不死川先生は自ら手を離し、私に背を向けて歩き出していく。
早朝からの不安は意外な形で解消された。昨日あんな淫らな事が起こったので、今日はどんな形で関わるのかと想像するととても不安だったのだ。
だが不死川先生ときたら何事もなかったかのように振る舞うので、ホッとした。若干寂しく思わない事もないが、とりあえず昨日通りの関係に戻れた事に安心した。
◇
早朝という時間帯ではあったが、市場の中は人で賑わっていた。あらゆる海産物を陳列した商店が軒を連ね、通りがかる客に売り子が威勢良く声をかけている。
「お姉さん、今朝獲れたばっかりのトキシラズ、食べていかないかい!?」
ホッケやカレイといった干物も沢山売られていたが、何処の店にも並んでいるのが鮭だった。一般的に思い浮かぶ鮭といえば秋に産卵の為日本の河川に遡上する鮭だが、今獲れる鮭は春から初夏にかけてロシアの河川に遡上する、海を回遊中のものらしい。産卵前であるので、秋鮭に比べ三〜四倍の脂肪を蓄えているのが特徴なのだそうだ。
そういえば、昨日の夕食に炉端焼きで食べた中にトキシラズのハラスがあったかもしれない。あの時口にした脂ののった味を思い出し、急に食欲が湧いてくる。
「すみません、後で購入したいのですが」
銀色に光る鱗に覆われた立派な魚体を眺めていると、背後に佇んでいたらしい不死川先生が不意に身を乗り出してくる。ついドギマギしてしまうのだが、幸いにも店員と不死川先生はそんな私の様子を気にせずにやり取りを始めた。
「あっ、お兄さん本当? ありがとね! 千円負けとくわ!」
「いいんですか?」
「なんもなんも! どこかに送るのかい? クール便になるからね」
「先に朝食を済ませてきてもいいですか。勝手丼は……」
「ああ、なら向こうの方だわ!」
店員に誘導されながら進んでいくと、ちょっとした飲食スペースで海鮮丼を食べている観光客の姿が目に付いた。近くの店舗では使い捨ての醤油皿に切り身や刺身が数切れ載っている物が無数に陳列されている。
「隣のお店でご飯を買ってきな。後は自分の好きなネタを選んで載せて食べたらいいさ」
刺身はどれも煌びやかだ。捌かれて間もないのだろう。朝なので念の為一番少量の白飯を購入したのだが、そのすぐ後に不死川先生は大盛りの白飯を選んだので、密かに目を見張った。
「美味そうですね」
「そ、そうですね」
勿論ネタは選べば選ぶほど料金が嵩む。だが折角の旅行なのだからと、この際食べてみたいものを全て食べる事にした。
種類は普段回転寿司等で見かけるものが殆どだ。私がサーモンやマグロ等特定のネタに偏っている一方で、不死川先生はあらゆる種類のネタを満遍なく白飯に載せている。好き嫌いは無いタイプなのだろう。
「食後に辺りを軽く散策してもいいですか」
「え、ええ」
「迷ったんですが、土産はここで選ぼうかと思いまして」
席に着いてご飯を頬張りながらポツポツと交わされる言葉。生物のにおい。飛び交う人の声で騒がしい中、涼しい顔で雲丹を口の中へ放り込む不死川先生は、手元の丼に視線を落としている。微かに膨らんだ頬が、あどけなくて可愛らしい。
「さっきのトキシラズもお土産ですか?」
「ええ。悲鳴嶼先生に送ろうと思って」
「悲鳴嶼先生?」
何だか意外だ。やり取りが無いわけではないが、二人が特に親しいというイメージはなかったのである。
そんな私の考えは顔に出ていたらしい。不死川先生は私をチラッと見ると、食べていたものを飲み下した後に付け加えた。
「ああ、ちょっと借りがありまして」
「借り……?」
「まあ追い追い話します」
話の先が気になったが、私は自分の食事に集中する事にした。彼の丼が残り僅かである事に気付いたからだ。会話に気を取られて箸の動きが鈍ってしまうのは私の悪い癖だ。今日も回らなければならない所は沢山あるので、あまり待たせないようにしなければ。
「みょうじ先生」
だが、そんな私の思惑はお見通しだったようだ。急いで食べようと丼を持ち上げた瞬間、彼と目が合った。
「急がなくていいですよ」
「……!」
「俺の事は気にせず、みょうじ先生はご自分のスピードで食べて下さい」
そう言いながら、不死川先生はすぐに目を伏せてしまう。私も自分の丼に視線を落とすが、胸がざわついてしまって食事に集中する事が出来ない。
(笑った……?)
ほんの一瞬だが、彼が笑っているように見えたのだ。微かに細めた目は優しげで、声すらも柔らかく聞こえた。気付かれないようにそっと視線を上げてその表情を確認してみるが、手元のパンフレットを眺める彼の横顔はもういつもの沈着冷静さを取り戻している。
見間違いだったのだろうか。しかし自分が彼を意識しているのは確かだ。ジッと見つめられているわけではないのに胸が騒ぎ、自然と頬が赤らんでしまう。パンフレットへ向けられている筈の彼の意識が、どうも自分へ向けられている気がするのだ。
◇
食事を終えると、車は一路東を目指した。ナビ上の所要時間は一時間半と表示されているが、不死川先生は制限速度をきっちり守って運転するので度々赤信号に引っかかって停車している。だが初日とは異なり地元の車にビュンビュン抜かされようが全く動じないので、隣に座っていてかなり安心感があった。
僅かな窓の隙間から吹き込んでくる風に靡く髪を押さえながら、私は視界に広がる空を見上げる。昨日とは打って変わって、清々しい晴天だ。たまに浮かんでいる、真っ白な綿を千切ったような雲。新緑は陽光に照り映えて眩しいぐらいだ。
道路は主に海岸に沿って延びていたが、時折内陸部へ入り込む事もあった。平野と呼ぶには狭すぎる野が広がっていたが、牛や馬などの家畜の姿が散見されるようになる。彼らがのんびりと草を食む光景はまさに牧歌的とも言える平穏さで、私は暫し言葉もなくその光景に見入るのだった。
「みょうじ先生、楽しそうですね」
その言葉にハッとして振り向く。ハンドルを握る不死川先生は、眩しげに目を細めながら道路の先を眺めていた。てっきり運転に集中しているとばかり思っていたが、密かに様子を観察されていたのだろうか。
(景色にはしゃぐなんて、子どもっぽいと思われるかな)
何と答えようか迷ったが、はぐらかす気にはならなかった。私は頷き、小さな声でボソボソと答える。
「……楽しいです。天気が良いってだけでワクワクしますし、それに」
不死川先生がいるから、このような何気ない一瞬一瞬が色鮮やかに映るのだ。ただの旅行ではここまで胸は弾まない。
(これは……恋なのかな)
昨日あのような事をされて、一人で舞い上がっているのかもしれない。そう思うと少し胸が締め付けられるような気がしたが、それでもこの旅が一分一秒でもいいのでもっと長く続いて欲しいと願う気持ちは消えない。
不死川先生側の窓からは、木々の緑の隙間から海が見える。多少白波立っているものの、遠目から見た限りでは海は穏やかだ。空の青よりも、海の青の方が濃い。普段目にする機会のない光景なので、物珍しくてついついそちら側を眺めてしまう。
ふと、不死川先生が横目でこちらを見ている事に気が付いた。
「奇遇ですね」
「え?」
「俺もです」
吹き込んでくる新鮮な風が、互いの髪を撫でていく。均一に唸るエンジンの音に紛れて聞こえてきた、張りのある低い声。
俺もです。端的なその返答は声だけ聞けば素っ気なく聞こえてしまうかもしれない。けれどその横顔は、確かに笑っているように見えた。口の端を上げて、眩しそうに目を細めながら。
(……笑ってる)
心が躍る。淡い色をした温かな感情が胸いっぱいに広がり、とてつもない喜びで目に映る全てのものが輝いて見える。
「あ、キタキツネ」
と、不死川先生が目を瞬かせながら前方を指差した。その視線の先に顔を向けると、快調に走っていた車は徐々に減速し始める。
「あそこの木立の根元です。見えますか?」
「木立……うーん」
「二頭いますね。小さい方は子ギツネでしょうか」
「あっ」
運転席側へ身を乗り出すと、ようやくその姿が見えた。道沿いに生えていた白色の樹皮に覆われた白樺の根元でピンと姿勢を正し、親ギツネと思われる一匹がじっと私達の車を見つめている。
対向車もいなければ、後続車の姿も見えなかった。キツネとの距離が最も近くなる位置で不死川先生は車を止め、私達は暫くキツネの親子の姿を眺めた。
こちらを警戒している親ギツネに対し、子ギツネは私達に興味津々だったようだ。丈の短い草をかき分けて一直線に向かってきたかと思えば、ちょこまかとにおいを嗅ぎ回っている。
「可愛い……」
多分この様子なら、扉を開けても逃げる事はないだろう。しかしキツネを野良犬や野良猫のような感覚で扱うのは大変危険だ。野生動物、特にキツネは絶対に素手で触れてはならない。
車中から息を詰めてその様子を眺めるのだが、キツネは思いのほか早く向こうへ駆けて行ってしまう。好奇心旺盛なので、すぐに他へ興味が移るのだろう。子ギツネはやがて親ギツネの元へ戻り、二頭は寄り添い合うようにして自然の奥深くへと姿を消していく。
「居なくなりましたね」
その声が妙に近くで聞こえたなと思っていると、私は自分が運転席の方へかなり身を乗り出していた事に気付く。私がもう少し身体を傾ければ、その胸元に顔を埋められてしまいそうな距離だ。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ」
慌てて身を離すが、妙な雰囲気はなかなか元に戻ってくれない。空高い位置から聞こえてくる名も知らぬ海鳥の声、穏やかな日差し、緑風にざわめく耳に優しい草木の音。
高鳴る動悸はなかなか治まらない。自分の席へ戻ったからといって、依然として手を伸ばせば触れられてしまう距離であるのには変わりないし、視界には常に彼の身体の一部が入っている。
事もあろうに、頭は勝手に昨晩の熱烈な口付けを思い出していた。だが意外にも、何も起きる事なく車は再発進する。
「……あと三十分程で着くと思います」
ようやく走行を始めた私達の車を、久しぶりにその姿を見た後続車が軽々と追い抜いていった。そっと盗み見た不死川先生の横顔はもう笑ってはおらず、何事もなかったかのように鋭く前方を見据えている。
「霧多布湿原の岬を散策して昼食が終われば、後は空港へ向かいます」
「あ……」
「寄りたい所があれば早めに仰って下さい」
浮き立っていた気持ちが、潮が引いていくように消沈していく。そうだ、この特別な瞬間は決して永遠には続かない。この旅は、間もなく終わりを迎えるのである。
◇
車は程なくして市街地に入った。陸の方に深く入り込んだ湾とそれに伴って出来た湖との間に架けられた橋を越えると、道は大きくせり出した奇岩の立ち並ぶ集落へと入る。集落を抜ければ辺りは林道のような風景へと変わり、途端に空が雲で覆われ始めた。雲というより霧かもしれない。それほど雲と霧とが一体化している。
岬付近の駐車場へ辿り着いて外へ出ると、表示されている温度はよりもかなり寒く感じた。持ってきたカーディガンを羽織っても、肌寒さは紛れない。
「実際の旅行では、最終日辺りに一時間程度この付近の散策が計画されているようですね」
散策道路の入り口に立て掛けられた看板を眺めていると、不死川先生が自身の羽織っていた上着を私の肩に掛けてくる。ほんのりと彼の温もりの残った上着ですぐに肌寒さは解消されたが、当の本人は露出の多い半袖一枚なので流石に申し訳なくなってしまう。
「あの、これ……でも不死川先生が」
「大丈夫です。みょうじ先生が着ていて下さい」
暑がりなので、と不死川先生は言うが、本当に良いのだろうか。筋骨隆々とした胸元や腕は、よく見ると鳥肌が立っているように見える。
「あの……やっぱり」
「あっ!! やっぱりさねセンじゃん!!」
と、その時だった。今し方到着したばかりのワゴン車から出てきた団体客が、こちらを指差しながら嬉しそうに駆けてくる。男女混合の観光客らしい。一番最初に声を上げた女の子が不死川先生の腕に飛び付くと、彼の周りはあっという間に若者で埋め尽くされる。
会話から察するに、どうやら彼らは不死川先生の元教え子のようだ。彼と私は似たような年頃だが、齢は彼の方が上で尚且つ勤続年数も彼の方が多い。私が赴任する前に在学していた子達なのだろうか。大学生同士の親睦旅行、そんな所かと思われる。
「ていうかこんな所で会うなんて偶然〜。旅行?」
「ただの下見だよ。修学旅行のなァ」
「へ〜……えっ、もしかして」
あの人、彼女? 不死川先生の腕に絡み付いていた女の子は、ニヤニヤとこちらに視線を送りながら声を顰める。不死川先生は間髪入れずに半笑いで返した。
ハッ、んなわけねえだろ。ただの同僚だよ、と。
「あの、私先に歩いてますね! 積もる話もあるでしょうし、ここからは別行動にしましょう!」
私は極力明るめにそう言い切ると、逃げるように走り出した。不死川先生がどんな反応をしていたのかはわからない。だがすぐに彼らの気配は遠ざかり、私は観光客が行き来する林道の途中で立ち止まり、息を整える。
ただの同僚。実に正しい答えだ。現に昨日炉端焼きの店員に関係を訊かれた時、私もそのように答えた。間違っていない。いる筈がない。
なのに、どうしてこんなに心を打ち砕かれたような気分になるのだろう。不死川先生が何と答えれば私は満足だったのか。雰囲気にあてられてキスをしただけの関係に、特別な名前なんて付くわけがない。
(……何やってるんだろう。とにかく落ち着かなきゃ)
無駄に気が急いている。息を胸いっぱいに吸い込むと、ヒンヤリと湿った空気で少しは頭のモヤが晴れたような気がした。
人が踏み固めて出来たような道を明るい方へ辿っていけば途端に視界が開け、丈の短い草や白い花に覆われた丘陵が見えてくる。丘の起伏に沿って延びる道の両脇は苔むした木枠で囲まれ、その先には柵に囲われたコンクリート造りの高台があるようだ。
ふと、不死川先生の上着をそのまま羽織ってきてしまった事に気付く。ハッと息を飲んで踵を返すが、唇を噛み、再び高台の方へと歩き出した。もう、後の祭りだろう。
「意外と距離あったね」
「ホントホント! 息が切れちゃった」
すれ違う若い観光客の会話が耳に入ってくる。彼女らの言う通り、散策路は踏破するのに意外と時間がかかった。先程見た所からは、丘陵の微妙な高低差が把握出来なかったのだ。当然既に息は上がっており、背中の中心は少し汗ばんでいる。
だが、視界に広がる広大な景色を眺めていると不思議と疲れを忘れた。時折晴れる霧の向こうに見える澄んだ青空。群生する水芭蕉の草原の向こうには、野生と思しき馬の群れを発見する。耳をすませば微かに波の音が聞こえ、少し歩くと緑に覆われた崖や岩場があり、白波だった海も見えてきた。
日本の最果て。普段は滅多に目にする事のない光景に、頭の中ではそんな言葉が過ぎる。
(不死川先生、気を悪くしたかな)
立ち止まり、絶えず吹き抜ける風に身を任せながら目を瞑る。目蓋の裏には車中で見た、不死川先生の穏やかな横顔が蘇った。強い孤独感を感じるのは、自分の振る舞いを後悔しているからだろう。もうすぐこの夢のような時間が終わってしまうのに、自らそれを放棄するような真似をしてしまった。あの子達の視線に晒されるのが辛くても、耐えれば良かった。この雄大な景色を、彼と一緒に眺めたかった。
(……っ、こんなの。一人で見たって)
「みょうじ先生!」
その時だった。後方から響いてきた声に振り返り、目にした光景に想いが込み上げる。口元を覆って立ち尽くす私の手前で足を止めた不死川先生は、肩で息をしながら随分と切羽詰まった表情を浮かべていた。
「すみません、遅れました」
「い、いいんですか? あの子達」
「自分がすべきなのは、お喋りではなく下見ですから。行きましょう」
「あっ」
強引に握られた手のひらは、随分冷たかった。不死川先生はそのまま歩きだそうとするのだが、私は反射的に腕を引き、手を離してしまう。
「!」
振り返った不死川先生の顔を見て、やってしまったと思った。ドクドクと心臓が狂ったように鼓動を響かせ、全身に冷や汗が浮かぶ。
手を振り解いてしまったのは、どこかであの生徒達が見ていたらという危惧に負けたからだ。触れられて、手を引かれて嬉しかった筈なのに。一度引っ込めてしまったものは、もう元には戻せない。
「……すみません」
その消沈したような声を聞いて、グラリと頭が揺れるような心地がした。彼が折角向けてくれていた好意が離れていくのを感じる。
「い……いえ、こちらこそ」
「……」
「あの、これ」
彼が貸してくれた上着を脱ぎ、手渡す。いくら暑がりと言っても、汗をかいたままこんな寒い所にいたら風邪を引くと思ったから。けれどそんな真意は言葉として決して出てきてくれず、拒絶として受け取られているのであろう雰囲気がありありと伝わってくる。
「ありがとうございました」
「……いえ」
なんとかこの雰囲気を払拭したくて明るい声を出そうとも、不死川先生の表情が変わる事は無かった。上着を受け渡す手と手は一瞬触れ合うものの、不死川先生は何事もなかったかのように上着を羽織り、早足で歩き始める。
決して拭い去れない後悔で、気分がひどく沈んだ。先程まで握られていた手を胸の前で抱え込み必死に彼の後を追うが、かなり早足で歩く不死川先生の背中には決して追いつかない。
結局、その後は一言も交わさずに散策を終えた。帰りの車中でも会話は起こらず、霧が晴れて目映い景色に包まれようとも私達はお通夜のような沈黙のまま、ひたすら時の流れに身を委ねた。
風向きが変わったのは、昼食の蕎麦を啜っている時だった。食事途中に掛かってきた電話を取った不死川先生が、眉を寄せながら呟いたのだ。
「え? 今日の便は全て欠航なんですか?」
思わず顔を上げた私を見た不死川先生は、スマホを耳に当てたまま席を立ち、玄関の方へと姿を消す。再び戻ってきた時には眉間に皺を寄せ、食べかけだった蕎麦には一切手を付けずに腕を組んで黙りこくってしまう。
「どうしました……? 航空会社からですか?」
「……そうです。着陸予定の空港がかなりの悪天候だそうで、今日のフライトは全便欠航だそうで」
「……!」
「とりあえず、これ全部食ったら学校に相談してみます」
まさに、寝耳に水だった。明日からは平日だ。二人とも授業がある。いや、その前に帰る筈だったものが帰れないとなると、泊まるホテル等も新たに探さねばならないだろう。
念の為現金は多めに持ってきたが、果たして部屋に空きはあるのだろうか。レンタカーも延長して借りねばならないだろう。そんな事を考えている間に、一足先に食事を済ませた不死川先生が学校との通話を終えて席へと戻ってくる。
「とりあえず、明日は公休扱いになるそうです。もし明日も飛行機が飛ばなければ、その次の日も同様と」
「そ……そうですか」
「陸路での移動も考えましたが、たとえ釧路から新千歳へ移動したとしても着陸する空港は変わりませんし、JRを使っても新幹線に乗れる場所まで辿り着くには時間がかかりすぎます。ですので下手に移動するよりは、飛行機が飛べるようになるまで釧路に留まった方が良いのでは、と教頭は」
「……」
「みょうじ先生、着替えは余分に持ってきていますか?」
最低限の着替えならば、一応は持参してきている。そう告げると、不死川先生の強張っていた表情が微妙に柔らかくなったような気がした。
「クレジットカード等はお持ちですか。もし足りなければ」
「だ、大丈夫です。念の為現金は多めに持ってきたので」
「何かあれば仰って下さい。今夜分の旅費は、残念ながら自己負担のようですが」
「そうですか。まあ……仕方ないですよね」
「……あの」
食べている蕎麦は美味しい筈なのに、味がよくわからない。予想だにしない事態に混乱しているからだろうか。そんな状態で咀嚼を繰り返していると、不死川先生が視線を逸らしながら声をかけてくる。
「な、何ですか?」
「教頭からは、一応飛行機が飛ぶまでは自由に過ごして良いと言われたのですが」
「そうですか……」
「……行ってみたい所があるんですが、良かったら付いてきて頂けませんか」
彼にしては珍しく、定まらない視線。願ってもない申し出に、私はすぐに首を縦に振るのだった。
◇
一旦釧路市内に戻った車は、再び厚岸方面へと進路を取る。南中時刻を過ぎても空は依然として晴れ渡っており、一度見た覚えのある景色を私は言葉もなく眺めている。
相変わらず車中は沈黙状態だったが、不思議と先程までの重苦しい雰囲気は解消されていた。ハンドルを握る不死川先生の表情は柔らかくはないが、先程のような壁を感じる事もなかった。
一時間程をかけて辿り着いたのは、近隣町村の市街地にあるこじんまりとした牛乳屋だった。ファンシーな外観の一軒家の軒下には、アイスクリームの立体看板が設置されている。
店先のテラスにはアンティーク調の丸テーブルと椅子が置いてあった。ここで座って待つように言われたのでおとなしくその通りにしていると、程なくして両手に真っ白なソフトクリームを携えた不死川先生が戻ってきた。
「どうぞ。俺の我儘で付いてきて頂いたので、金は入りません」
鞄を開けて財布を取り出そうとすると、先手を打ってそう言われてしまう。我儘だなんて、そんな事は全く思っていないのに。
「あの……」
「何かの口コミサイトで見かけてから、ずっと気になっていたんです。ただ一人で来るには気まずかったので」
確かに、不死川先生が一人でこのテラス席に座ってソフトクリームを頬張っている姿を想像すると頷ける気がした。奢られてしまった事には未だに気後れしていたが、融けるから早く、と食べるのを促されるので私は融けかけた表面を舐めながらその甘味を頬張った。
(はぁ……! お、美味しい……!!)
釧路に来て食事をして美味しいと感じない事はなかったが、中でもこのソフトクリームの美味しさは随一だった。圧倒的生クリーム感。何とも言えないコクがあり、そこまで甘ったるいわけではないクリームはまだ口内の味が無くならないうちから次を頬張りたくなる中毒性がある。一口ごとに感動する美味しさだった。
我を忘れてしまう程にその冷ややかな甘さに浸り切っていると、ふと視線を感じる。振り向くと当然のように不死川先生と目が合い、羞恥心から赤面してしまう。
「すみません。あんまり美味そうに食べていたので」
「は……恥ずかしいのであまり見ないで下さい」
「飲み会の時も、いつもそんな風に召し上がっていますよね」
「え?」
既にコーン部分の中程までを食べ終えていた不死川先生は、コーンの先を口内に放り込み終えると指に付いていたらしいクリームを一舐めする。その赤い舌先がチラッと見えた瞬間、私は思わずドキッとしてしまった。
「小せェ口で一生懸命食ってるなと思って。呑みながらたまに眺めています」
「……そ、そうなんですか。でも会話にも加わらないで食べてばっかりで。社会人としては駄目ですよね」
「そうですかねェ」
俺は、好きです。みょうじ先生が美味そうに飯を食う姿を見るのが。不死川先生がゴミを捨てに立ち上がりながら、ボソッと呟いた言葉を聞いた私は、心臓が止まりそうになった。顔を上げた時にはもう彼の姿はテラスから随分離れたゴミ箱へと向かっており、戻ってきた時には私ももうソフトクリームを食べ終えていた。その件が話題に登る事はなく、不死川先生はやはり何事もなかったかのように次の行き先について話を進める。
(好きです、だって)
釧路市内へ帰る車中の私は、上の空で景色を眺めていた。本当だったら今頃は、空を見上げるのではなく上空から街並みを見下ろしている筈だった。不死川先生ともギクシャクしたまま空港で別れて、明日からは学校で顔を合わせても以前と変わらず挨拶だけ交わすといったような毎日が続くと思っていた。
それが私はまだ不死川先生の運転する車の助手席に座っている。しかも『修学旅行の下見』という業務ではなく、完全なるプライベートの時間だ。仕事ではないのだから別行動という選択肢もあった筈なのに。不死川先生は私を誘い、ソフトクリームをご馳走してくれた。
まるで、恋人達がするデートのように。
「着きました」
会話も無く走っていた車は古い住宅街へ入ったかと思えば、坂の登り降りを繰り返してとある公園へと辿り着いていた。遊具等は一切設置されておらず、石碑と灯台を模した展望台のような建物しか建っていない。住宅街の中にある公園という事もあり、随分と静かだ。うっすらと縦横に棚引く雲は夕色に染まり、微かに潮の匂いを含んだ風が気持ち良く肌を撫でていく。
「ここ、街が一望出来るんですね」
「昨日炉端焼きの店員に聞いた場所です。まさか来られるとは思っていなかったので、来られて良かったです」
並んで歩き、海沿いの街並みが一望出来る位置で立ち止まる。ペンキの剥げかけた手摺りに凭れかかった不死川先生は、眩しそうに目を細めて口の端を上げた。
夕映えの空。潮風に揺蕩う、極めて色素の薄い長い前髪。細めた目もその頬も夕日に照らし出されて色付いている。
「あの……二日間、どうもありがとうございました」
おずおずと声を出すとその鋭い瞳がこちらを向き、私は慌てて景色へと視線を移す。雲に隠れていた日はいつの間にか顔を出し、遥々と広がる海を赤々と染め上げていた。ふとスマホを出して写真を撮ろうかと思ったが、端末を掲げかけて鞄へと戻す。
多分、この美しさは今この瞬間だけのものだ。写真として残しても、今のような感動は味わえないと思う。
「不死川先生のお陰で、とても有意義な旅行となりました。と言っても、旅の主役は何ヶ月か後の生徒達ですけど」
「……そうですね」
「楽しかったです。とても」
謝るべき事も、感謝すべき事も沢山ある筈なのに。胸がいっぱいで、言葉にならない。そこら辺の絵画よりも美しく雄大な景色の前で感傷的になっているせいだろうか。この旅が終わってしまうのが、惜しくてならない。
海鳥が鳴き声を交わしながら、夕日に向かって飛んでいく。じゃれ合うように近付いては離れ、近付いては離れを繰り返しながら影となり、景色と一体化していく。
「……朝行った市場で」
風で不死川先生の前髪が舞い、その目元を覆い隠す。私は髪の毛を耳に掛けながら、彼の言葉にじっと耳を傾けた。
「追い追い説明すると言ったこと、覚えてますか」
「ええと……悲鳴嶼先生のお話でしたっけ」
「……当初は教頭先生の代役が悲鳴嶼先生だったと言ったら、驚きますか?」
「えっ」
「直前で変えてもらったんです。実は」
「そ、それはどうして」
その時脳裏をよぎったのは、旅の最初で見かけた旅行雑誌だった。びっしり貼られた付箋やボールペンの書き込み具合
を思い出し、一人合点する。
そうだ、この人は元々釧路観光を凄く楽しみにしていたのだ。だから土壇場で交代を願い出たのかもしれない。
だがその時、手摺に載せていた肘が不死川先生のそれとぶつかった。いや、ぶつかったのではない。不死川先生が、私との距離を詰めたのだ。うっすらと照れを含んだ真摯な眼差しが、肩と肩の触れ合う距離で私へと向けられる。
「わかりませんか」
「……え」
「みょうじ先生と……少しでもお近付きになりたかったんです。不純な動機なので……引かれるかもしれませんが」
「そ、それは」
「……好きです。俺は、ずっとあなたの事が好きでした」
薄々勘付いてはいた。というか口付けられた際の私への触れ方や、時折感じる視線の温かさからその想いに気付いてはいた。途中様々な出来事があり紆余曲折を経たものの、言葉にして伝えられると改めて込み上げてくるものがあった。
不死川先生の手は、既に私の手の甲の上に重ねられている。日は早くも地平線に沈みかけていて、燃えるような色に染まった空が私達を赤く照らし出していた。
「これから……予定はありますか」
「……」
「良かったらどこかで呑みませんか。もっとみょうじ先生の事を知りたいですし……許されるのなら、朝まで隣にいたいです」
そっと見上げる横顔は、目元が前髪に隠れてしまって見えない。しかしキュッと引き結ばれた唇も、形の良い耳も頬も全て赤く染まっている。深呼吸を一つして、私は手を裏返した。彼の大きな手と手のひらを合わせて指を絡めると、不死川先生が微かにこちらへ顔を向ける。
熱情を秘めた眼差し。昨晩口付けを交わした時同様、私への想いが透けて見えるような想いのこもった眼差しだった。
「……いいんですか?」
ゆっくりと頷くと、顔を傾けた不死川先生が目を伏せる。二人の影が重なる前に、私はその肩口に腕を回しながらその耳元で思いの丈を打ち明けるのだった。
「ええ? 酔ってませんよ。これくらいで酔うわけがないじゃないですかぁ」
「……酔っ払い程そういう台詞を言うんですよね」
そう言いながらホワホワ気分で飲みかけのビール缶を傾けると、空になっている事に気付く。テーブルの奥に置いていた未開封のビールへ手を伸ばせば、不意にその手を掴まれた。
大きい手のひら、太い指。ビール缶を触っていたせいなのだろうか。不死川先生の手は、ヒンヤリと冷たくて気持ちが良い。
「不死川先生? 何ですか?」
「一旦ストップした方がいいです。ジュース……いや、水の方がいいですね。待ってて下さい、今買ってきます」
「ん……じゃあ、お金……」
「いいです。座ってて下さい」
「……やだ。不死川先生、行かないで」
重なっていた手が離れていこうとするので、指を絡ませるようにしてその手を引き止める。
この人、また自分の財布からお金を出す気だ。私には一銭たりとも出させないつもりなんだ、そんなの駄目だ。そう思った上での行動なのだが、不死川先生はえらくギョッとしていた。何度も瞬きをしながら、私に握られている自身の手と私を交互に見つめている。
「みょうじ先生、あの……」
「私、自分で買います。せめて自分の飲み物くらいは」
「……はァ?」
「だって、このザンギも元はと言えば先生が買ってきたものですし。ビールだって全部用意してもらっちゃって」
「……何だよ、そっちかァ」
空いていた方の手で目元を隠し、溜息をつきながら項垂れる不死川先生。何となくその様子を眺めていると、彼の耳の先が赤く染まっている事に気付く。暑いのだろうか。そういえば、空調の加減かこの部屋は微妙に暑い気がする。
「……仰る通りですよね、すみません」
浴衣の合わせ目を掴んでバフバフと体表面へ風を送っていると、顔を覆った指の隙間からこちらへ視線を送りながら不死川先生が言う。随分と疲れた様子だ。
「元はといえば話を持ちかけたのは俺の方なので、全部出すべきだと思っていました。ですが、そうですよね。そういう関係でもないのに全て奢られたんじゃあ居心地悪いですよね」
「そういう関係……?」
「……いや。とにかくみょうじ先生は、今は外を彷徨かないで下さい。先程のような事が起きてしまってはいけない」
「あ……」
不死川先生は私が絡めていた指をゆっくりと解くと、着崩していた自身の浴衣の襟ぐりを微妙に整えながら立ち上がった。「すぐ戻りますからこのままここにいて下さいよ。いいですね?」と何度も言い含めてから、急ぎ足で部屋を出て行く。
モワッと暑いホテルの部屋で一人きり。どことなく寂しくて、私はそのまま仰向けに寝転がった。天井の模様はボワ〜ンと歪み、多幸感や人恋しさが行き場もなく自分から溢れ出しているような気がした。
「不死川先生……すぐ戻るって言ったのに」
遅い、と口に出す。その内戻るのだろうと頭の隅で考えつつも、無性に寂しさが募っていく。
じっとりと汗ばんだ上半身が居心地悪くて、瞬きをするのも億劫だった。ゴロンと寝返りを打ち、先程まで不死川先生が座っていた座布団をぼんやり眺める。何となく抱き枕が欲しい気分だったので、肉厚なそれを引き寄せて、ギュッと抱きしめ目を瞑った。
意識が遠ざかるのはそれから間もなくの事で、ハッと気付いた時には視界の中に気遣わしげな不死川先生の顔が映っていた。
「みょうじ先生、大丈夫ですか」
「……ん」
「待たせてしまってすみません。眠いですか?」
何度か瞬きすると、朧げだった視界がハッキリしてくる。不死川先生の部屋で呑んでいる最中という状況を思い出すのにも時間がかかり、私はしばらくその端正な顔をぼんやりと見つめ返していた。
「部屋まで送ります。歩けますか?」
「んん……」
「明日も早いのでもう休んだ方が良いです」
斜めに傾いたその顔。いつもより立ち上がっていない、長めの前髪。彼はおそらく私の傍らにしゃがみ込んでいるのだろう。
正直言って、眠かった。このまま眠ってしまいたいのは山々だし、明日の事を考えれば部屋へ戻るべきなのだろう。現に他人様の部屋でこうして横になってしまっているのだし、これ以上居座るのは迷惑以外の何物でも無い。
しかし、だ。
「……眠くないです」
「え?」
「大丈夫です。まだ寝ません」
どうしてか、大人しくその言に従えない自分がいた。このまま部屋に帰ってしまうのを惜しいと思ってしまったのだ。
上半身を起こしながら横目で彼の顔を確認してみると、やはり戸惑ったような表情をしている。募る罪悪感。発言を撤回しようか迷ったがやはり我儘心が勝り、首を縦には振れなかった。
「みょうじ先生。無理はなさらない方が」
「……でも」
「乗って下さい。運びます」
不死川先生は私に背を向け、その背に乗るよう促してくる。自分のそれとは比にならない程広いその背中を見ていると、流石に頭が冷えてきた。
やはり、迷惑なのだ。図々しく思われているのかもしれない。心の中でそう呟くと、気分が急速に消沈していくのがわかった。
「……大丈夫です。自分で歩きます」
身体は鉛のように重く目眩もしていたが、思いのほか普通に立ち上がれてしまう。私を背負う体勢のまま、不死川先生は肩越しに視線を送ってくる。なるべく目を合わせないようにしてその脇を通ると、彼が後ろを付いてくる気配がした。
「ひ、一人で帰れますよ? 大丈夫です」
「足元がふらついてます。危ないので、部屋の前まで」
優しい。そう、彼は優しいのだ。ワイルドな見た目や数々の悪評判で誤解していたが、決して威圧的ではなくむしろさりげない気遣いが出来る紳士なのだ。
けれど、何故か今はその優しさが辛かった。悲しい事に、たった十数歩歩けばあっという間に自室の前へと辿り着いてしまう。
「鍵、場所わかりますか」
背後に佇んでいるであろう不死川先生の男性的な低い声が、心地良く耳へと届く。私は頷き、鍵の先端と鍵穴を合わせようとする。が、先端は中々入っていかない。酔いが回っているせいだろうか。
と、横合いから大きな手のひらがそっと差し伸べられた。
「……俺が開けますか?」
廊下を照らし出す目映い照明と不死川先生の顔が重なって、その表情が判別出来ない。私が言われるままに鍵を差し出すと、不死川先生は鍵を受け取ってスムーズに扉を開錠する。
決して触れる事がない、受け渡しの手と手。扉は重苦しい音を立てて空気の流れを変える。
「開きましたよ」
すぐ脇を、大学生らしい団体客が騒ぎながら通り過ぎていく。皆男の子で、その内の何人かは私達にチラチラと視線を送っているような気がした。彼らの大きな笑い声が反響し、遠ざかっていく。私は落ち着いた紅色の絨毯を、意味もなくジッと眺めていた。
「……どうしました?」
そう私に呼びかける不死川先生の声は優しかった。私がその袖を握りしめているので、戸惑っているのかもしれない。
自分の行動が普段ではあり得ないような、おかしいものだという事は理解していた。けれど、握らずにはいられないのだ。
不死川先生と離れたくない。まだ一緒にいたい。隣で彼の身体にもたれかかりながら、どうでも良い事を延々と喋っていたい。
「……まだ、不死川先生とお話ししたいです」
袖を握る手が、微かに震えている。こんなに我儘を言って甘えてしまうなんて、私はどうかしていると思う。
不死川先生の返答はなかった。あまりに恥ずかしい。やはり私は言ってはならない事を言ってしまったのだろう。
今の無し、とでも言って部屋に駆け込もうか。そんな事を
夢想していた私は、突如強く腕を引かれていた。
──あっ! 俺財布忘れたわ!
──ギャハハ、バカじゃねーの! 早く取ってこいや!
エレベーターホールの方からは、そんな会話が響いて聞こえてきていた。扉のすぐ向こうにある廊下をパタパタと走っていく足音は、先程の大学生だろうか。私と不死川先生は、その音を私の部屋の内側で耳にしていた。真っ直ぐに肘を伸ばして扉に手を付く不死川先生が、ゆっくりと唇を開く。
「ご自身で仰った言葉の意味、わかってますか?」
私がもたれかかり、不死川先生が圧をかける扉がギシッと音を立てる。つけっぱなしにしていたデスクライトの微かな明かりを背後から浴びている不死川先生の顔は、影になって見えない。
石鹸の香りに紛れ鼻先を掠める、ほのかな汗のにおい。心が泡立ち、鼓動が速くなる。
「い……意味って。そのままの……意味です」
「わかってやってるんですよね?」
「え?」
「そんな物欲しそうな目で見つめられて、黙っていられる男がいるとでも?」
明らかに変化した雰囲気。身体が、密着していた。不死川先生は扉と自身の身体で私を押し挟んでいるのだ。
返ってきた反応が自分の想像していたものとは違う事に、今更ながら驚きを隠せない。先程とは打って変わって、彼の声色に怒気のようなものが含まれているのにはすぐ気が付いた。だが何故彼がいきなり怒り出したのか、そしてどう答えればその怒りが治まるのかが皆目見当がつかない。
「あ……あの」
私の発した声は明らかに震えていた。予想よりも弱々しく出てしまった声に、動揺を隠せない。
すると、思っていたよりもかなり耳元に近い位置から不死川先生の声が聞こえてきた。
「……怖いですか?」
「あっ」
「ッハ……みょうじ先生。無防備すぎますね」
彼の吐息が耳にかかり、思わず声が出てしまう。混乱しているのを嘲笑われているのだろうか。不死川先生は鼻で笑いながら、ますます私の耳元へ顔を寄せてきた。
腿の間にぐいぐいと割り込んでくる彼の膝。胸の前で畳んだままだった手の存在を思い出し、その大きな胸を押そうとするのだがすぐに両手首を掴まれ、頭上で固定されてしまう。
「ま、待って下さい。不死川先生、何を」
「みょうじ先生。同僚だからって、俺の事を過信しすぎてやいませんか」
「そ……っ」
「先生が思っているより、男って生き物は短絡的なんですよ」
「あっ!」
耳朶を、滑らかな粘液を纏ったものがじっくりと這っていく。一方で膝から上方向にかけて腿を撫で上げられる感覚もあった。足元がスースーするのはおそらく、裾をたくし上げられているのだろう。不死川先生はますます腿の間に自身の脚を割り込ませてきて、より身体が密着していく。
何故、こんな事になってしまったのだろう。未知の感覚にビクビクと震える私の耳に、その低い声で紡がれる言葉が流れ込んでくる。
「普段は警戒心の強い女性がいきなり無防備な姿を見せてきたら、男はどう感じると思います? そりゃあドキドキしますし、自分に気があるのかと勘違いもする。無邪気に微笑みかけられれば、もうイチコロですよ」
「っん」
「みょうじ先生は、他の野郎の前でもこんな無防備なんですか?」
「あ……っ!」
不死川先生の手が、浴衣の上から腰からお尻の辺りを撫でている。くすぐったいようでくすぐったくない絶妙な力加減で触れてくる指は、ショーツのラインに沿って徐々に下降していた。思わず脚を閉じようとするが、不死川先生はその分強く自身の腰を押し付けてくる。
私はハッと息を飲み、真っ赤になった。今更ながら、その熱を持った塊の存在に気付いたのだ。
「これから俺にされる事、予想出来ますよね?」
「……っ」
「怖いですか?」
不死川先生の発する言葉の一つ一つが、心に突き刺さるようだった。私を蹂躙していた手のひらや脚が離れていくと、支えを失った私の身体はズルズルとその場に座り込んでしまう。
自分が涙を流している事に気付いたのは、傍らでしゃがんだ不死川先生に目元を指で掬われた時だ。
「……すみませんでした」
「……っ」
「あなたの振る舞いで、俺個人が不快に思う事はありません。ただ世の中の男は俺のような奴ばかりではないので……そこをわかってもらいたくて」
「……しません」
私が再びその袖の端を握りしめると、不死川先生がハッと息を飲むのがわかった。涙はとめどなく流れていたが、私は震える声をなんとか制御しながらゆっくりと言葉を紡いだ。
「他の男の人の前でなんて、こんな事しません。私……本当に、不死川先生とお話ししたかっただけなんです」
「……みょうじ先生」
「今日一日……ずっと無駄に緊張してしまって。変な事ばっかり言っちゃって、雰囲気を悪くさせてしまったのをすごく後悔していたんです。お酒の力を借りる形にはなりましたけど、普通に言葉を交わせるようになって嬉しかったんです、私」
「……」
「明日になれば、きっとまた元の自分に戻ってしまう。上手く話せなくなってしまう。だから、今のうちに……不死川先生ともっと仲良くなりたかったんです」
涙が止まらないのは、お酒のせいでは無いはずだ。どうして自分という人間はこうなのだろう。どうやっても不死川先生に迷惑のかけ通しで、情けない以外の言葉が出てこない。
けれど、このまま諦めたくはなかった。お酒の力なんて借りるのがいけなかった。素面の時でももっと頑張って、上手く話せるようにしなければ。
(……あれ?)
自分はどうして諦めたくないと思うのだろう。不死川先生は単なる同僚だ。別にそこまで仲良くならなくても、仕事には支障が無い筈だ。
この、彼と仲良くなりたいという気持ちは。もっと話したい、一緒にいたいと思う気持ちは、なんなのだろう。そう思って顔を上げた瞬間、ふと視界が影に包まれ、唇にほのかな感触が触れた事に気付く。
(え……?)
「意地悪い真似をして、すみませんでした」
ゆっくりと顔が離れていく。急激に心臓が高鳴って、目の端がチカチカとしているような心地がした。ゆっくりと顔を離した不死川先生に真正面から見据えられた時、初めて自分はキスをされたのだと気が付いた。
「俺も、もっとみょうじ先生とお話ししたいです」
「……!」
「多分……あなたとは感情のベクトルが微妙に違うかもしれませんが。仲良くなりたいというのは同じです。俺も」
「じゃあ……」
「ですが、今日はここまでにしませんか。こんな時間ですし、あなたは勿論、俺も……酒が入っているので」
多分、自制出来ません。そう呟く不死川先生は私から微妙に目を逸らし、頬を赤らめる。その言葉の意味する所は、その手の事に疎い私でも流石に理解出来る。押し付けられた不死川先生の下半身が、益々硬さを増しているような気もした。
不死川先生の下半身の状態を想像しかけた私は、慌てて脳内の映像を払拭する。そんなもの、今すべき想像ではない。失礼すぎる。
(不死川先生も……私と同じ気持ち)
そう、今考えるべきはこの件だ。彼も私と仲良くなりたいと思ってくれている。それは良かったのだが、あれは間違いなくキスだった。
キス、という事は。不死川先生が私に抱くのは、恋愛感情に相当するものなのだろうか。
(不死川先生が……私を好き!? 嘘でしょ!?)
けれど、私もそうかもしれない。キスをされたが、決して嫌ではなかった。彼の唇の柔らかな感触が今でも残っていて、思い出すと心が高鳴る。甘い感情で胸がいっぱいになる。
(私も……不死川先生の事が、好きなのかな)
それからしばらくは、微妙な沈黙が流れた。薄暗い室内。戸を背にして二人並んで座り込み、お互い何も言葉を発そうとしない。
ただ、いつ重ね合わせたのか手と手だけが触れ合っていた。互いにじっとりと汗をかいている。緊張の度合いは、おそらく同じくらいなのだろう。
「……あの」
不死川先生は、声を発すると同時に手に力を込めた。わざとらしく揺れてしまう身体。心臓は、もう口から飛び出してきそうだ。
「は、はい」
「そろそろ……」
ああ、部屋に戻るのか。そう思うと急に寂しさが募る。私は自然と自分から彼の手を握り締めていた。頭では別れなければいけない事を理解していながら、その手を握らずにはいられなかった。
こんな駄々っ子のような事をして、きっと不死川先生は困っている筈だ。そう思いながら顔を横に向けて彼と目を合わせると、そっと頬に手が添えられる。
互いに、言葉はなかった。不死川先生は眉を寄せ、案の定困ったような表情を浮かべていたが、その眼差しは静かな熱情を秘めていた。ひどく優しげで、激しく胸が高鳴った。
おそらく私も同じような表情をしているのだろう。不死川先生がふと視線を伏せると、その顔が近付いてくる。私が目を瞑るのとほぼ同時に重なり合う唇。
果たして自分の選択は正しいのだろうか。場数を踏んだ玄人ではないので、自分がただその場の雰囲気に流されているだけではないのかと不安になったのだ。
彼と深く関わったのは今日が初めてだ。それまでは、挨拶しかしてこなかった。そんな人といきなりこんな関係になるだなんて、性急すぎるだろうか。不健全だろうか。貞操観念の緩い女だと思われてはいないだろうか。
「ん……」
だが、唇の動きも性的な衝動も止まらなかった。互いに身を乗り出し、指と指を絡め合い、愛を確かめ合うように唇を啄み合う。
息を吸う為に唇を離せば至近距離で視線が交わり、どちらからともなく視線を伏せれば、まるでそれが合図のように再び唇が重なり合う。触れ、絡み合う舌先。交わる吐息。
「ん、ん……」
「……っはァ」
「んんっ」
自分達の唇が艶かしいリップ音を放つ度に、何とも言えない淫らな気分で脳内が蕩けていった。不死川先生はそろそろ部屋に戻らなければいけないと言っているのに、口付けは益々深いものへ変わっていく。終わりが見えない。
(けど……ずっとこのままでいたい。もっと──)
だが、行為は唐突に終わりを迎えた。突如、背にしていた戸口のノブがガチャガチャと動き始めたのだ。二人とも瞬時に身体を離し、驚愕の表情を浮かべながら扉へ顔を向ける。
私を部屋に引きずり込んだ瞬間、不死川先生は反射的に鍵を掛けていたのだろう。それが功を奏し、結果的に扉は開かなかった。
『あっ、ヤッベ! 部屋間違えた!』
『逃げろ逃げろ!』
扉の向こうから聞こえる声は、おそらく先程の大学生のものだ。外出先から帰ってきたのだろうか。パタパタと足音が遠のいていくと、私は手を胸に当てて長く息を吐いた。
「び……びっくりした」
「……みょうじ先生」
不死川先生が立ち上がりながら、私に手を差し伸べてくる。その仕草でもう完全に行為が終わってしまったのだと察した私は、内心気落ちしつつもそんな淫らな自分を恥じる。
なるべくその思いを表に出さないようにしながら、その手にそっと自身の手のひらを重ねた。
「すみません。長居しましたが、そろそろ」
「え、ええ。こちらこそ……なんか」
「いえ」
互いに俯いたまま、また沈黙が流れていく。だが、これ以上このままでいるわけにもいくまい。名残惜しく思いながらも手を離そうとすると、ふと前髪を撫で上げられた。
顔を上げた瞬間、額に触れる柔らかな感覚。チュッと音を立てながら唇を離した不死川先生は、目をパチクリさせている私に柔らかく微笑みかける。
「では、また明日」
「は、はい……っ! おやすみなさい」
「おやすみなさい」
古めかしい音を立てて閉まる扉。ペタペタと足音が遠ざかり、隣の部屋の扉が閉まる音が壁越しに聞こえてくる。その瞬間、私は顔を覆いながら声をひそめて叫んでいた。
「う、うそ……! キスしちゃった、どうしよう……っ!」
いてもたってもいられなくなり、駆け出しながら身体を捻ってベッドへダイブする。柔らかな大きい枕を力いっぱい抱きしめて、ひたすらベッド上をゴロゴロと転がった。
微かに酔いが残っていたとはいえ、思考は既に平常時のレベルまで戻っていた。恥ずかしさの極み。後悔している訳ではないが、明日も彼と顔を合わせなければいけないと思うと逃げ出したくて堪らない。頭が爆発してしまいそうだ。
(これは、付き合っている事になるのだろうか)
告白も済ませていないのにキスを済ませたのは、果たして正しい順序なのだろうか。いかんせん経験値が足りなさすぎる。わからない。頭を抱えて考えるが、上手く頭が回らない。
結局色々と考えや不安が尽きなくて、その日は明け方近くなるまで寝付けなかった。ふと気が付いた時には枕元に置いてあったスマホがけたたましく鳴っており、カーテンの隙間から外の光が漏れ差している。
「……?」
頭がひどく重かった。寝ぼけ頭でスマホを眺めると、画面にはゴシック体の『不死川先生』という文字が表示されている。何となく通話ボタンをタップして、端末を耳に押し当てた。
『起きました?』
「……はい」
『おはようございます。そろそろ朝食をと思ったのですが』
電話越しに聞こえてくる不死川先生の声は、冷静そのものだ。反射的に壁時計を眺め、ぼんやりと口を開ける。
七時二十五分。朝食。七時二十五分。
「……えっ!? あっ」
『……』
「やだっ! す、すみません! 待ち合わせ、六時半でしたよね!? ごめんなさい!」
『……いえ』
フッと笑っているような声が聞こえた。端末を耳に当てたままベッドから跳ね起き、スリッパも履かずにスーツケースの蓋に手を掛ける。が、片手では中々開かない。そんなワタワタ感が向こうには伝わっていたのだろう。不死川先生は『ゆっくりでいいですよ』と言いながら、くつくつ笑っている。
結局身支度を整え終えたのは、それから三十分以上経った頃だった。そのままチェックアウトするので、私達は連れ立って朝靄漂う釧路の街へと一歩踏み出す。
「明け方よりは大分晴れてきましたが、このガス、地元では『じり』と言うそうですよ」
「そ……そうですか」
目的の海鮮市場近くの駐車場で止まる車。雨は降っていなかった筈だが、アスファルトはどこも色が変わっていて、水溜りすら出来ている。
「足元、気を付けて」
ふと気付くと、先に車を降りた不死川先生が助手席側まで回り込んでいた。扉に軽く手を添えながら、私に向けて手を差し伸べている。逆光で顔は見えないが、恥ずかしくて堪らない。
脳裏をよぎるのは、勿論昨晩の出来事だ。
「す、すみません」
「いいえ」
立ち上がる瞬間、重なる手のひら。このまま手を繋いで歩くのだろうかとソワソワしたが、意外にも不死川先生は自ら手を離し、私に背を向けて歩き出していく。
早朝からの不安は意外な形で解消された。昨日あんな淫らな事が起こったので、今日はどんな形で関わるのかと想像するととても不安だったのだ。
だが不死川先生ときたら何事もなかったかのように振る舞うので、ホッとした。若干寂しく思わない事もないが、とりあえず昨日通りの関係に戻れた事に安心した。
◇
早朝という時間帯ではあったが、市場の中は人で賑わっていた。あらゆる海産物を陳列した商店が軒を連ね、通りがかる客に売り子が威勢良く声をかけている。
「お姉さん、今朝獲れたばっかりのトキシラズ、食べていかないかい!?」
ホッケやカレイといった干物も沢山売られていたが、何処の店にも並んでいるのが鮭だった。一般的に思い浮かぶ鮭といえば秋に産卵の為日本の河川に遡上する鮭だが、今獲れる鮭は春から初夏にかけてロシアの河川に遡上する、海を回遊中のものらしい。産卵前であるので、秋鮭に比べ三〜四倍の脂肪を蓄えているのが特徴なのだそうだ。
そういえば、昨日の夕食に炉端焼きで食べた中にトキシラズのハラスがあったかもしれない。あの時口にした脂ののった味を思い出し、急に食欲が湧いてくる。
「すみません、後で購入したいのですが」
銀色に光る鱗に覆われた立派な魚体を眺めていると、背後に佇んでいたらしい不死川先生が不意に身を乗り出してくる。ついドギマギしてしまうのだが、幸いにも店員と不死川先生はそんな私の様子を気にせずにやり取りを始めた。
「あっ、お兄さん本当? ありがとね! 千円負けとくわ!」
「いいんですか?」
「なんもなんも! どこかに送るのかい? クール便になるからね」
「先に朝食を済ませてきてもいいですか。勝手丼は……」
「ああ、なら向こうの方だわ!」
店員に誘導されながら進んでいくと、ちょっとした飲食スペースで海鮮丼を食べている観光客の姿が目に付いた。近くの店舗では使い捨ての醤油皿に切り身や刺身が数切れ載っている物が無数に陳列されている。
「隣のお店でご飯を買ってきな。後は自分の好きなネタを選んで載せて食べたらいいさ」
刺身はどれも煌びやかだ。捌かれて間もないのだろう。朝なので念の為一番少量の白飯を購入したのだが、そのすぐ後に不死川先生は大盛りの白飯を選んだので、密かに目を見張った。
「美味そうですね」
「そ、そうですね」
勿論ネタは選べば選ぶほど料金が嵩む。だが折角の旅行なのだからと、この際食べてみたいものを全て食べる事にした。
種類は普段回転寿司等で見かけるものが殆どだ。私がサーモンやマグロ等特定のネタに偏っている一方で、不死川先生はあらゆる種類のネタを満遍なく白飯に載せている。好き嫌いは無いタイプなのだろう。
「食後に辺りを軽く散策してもいいですか」
「え、ええ」
「迷ったんですが、土産はここで選ぼうかと思いまして」
席に着いてご飯を頬張りながらポツポツと交わされる言葉。生物のにおい。飛び交う人の声で騒がしい中、涼しい顔で雲丹を口の中へ放り込む不死川先生は、手元の丼に視線を落としている。微かに膨らんだ頬が、あどけなくて可愛らしい。
「さっきのトキシラズもお土産ですか?」
「ええ。悲鳴嶼先生に送ろうと思って」
「悲鳴嶼先生?」
何だか意外だ。やり取りが無いわけではないが、二人が特に親しいというイメージはなかったのである。
そんな私の考えは顔に出ていたらしい。不死川先生は私をチラッと見ると、食べていたものを飲み下した後に付け加えた。
「ああ、ちょっと借りがありまして」
「借り……?」
「まあ追い追い話します」
話の先が気になったが、私は自分の食事に集中する事にした。彼の丼が残り僅かである事に気付いたからだ。会話に気を取られて箸の動きが鈍ってしまうのは私の悪い癖だ。今日も回らなければならない所は沢山あるので、あまり待たせないようにしなければ。
「みょうじ先生」
だが、そんな私の思惑はお見通しだったようだ。急いで食べようと丼を持ち上げた瞬間、彼と目が合った。
「急がなくていいですよ」
「……!」
「俺の事は気にせず、みょうじ先生はご自分のスピードで食べて下さい」
そう言いながら、不死川先生はすぐに目を伏せてしまう。私も自分の丼に視線を落とすが、胸がざわついてしまって食事に集中する事が出来ない。
(笑った……?)
ほんの一瞬だが、彼が笑っているように見えたのだ。微かに細めた目は優しげで、声すらも柔らかく聞こえた。気付かれないようにそっと視線を上げてその表情を確認してみるが、手元のパンフレットを眺める彼の横顔はもういつもの沈着冷静さを取り戻している。
見間違いだったのだろうか。しかし自分が彼を意識しているのは確かだ。ジッと見つめられているわけではないのに胸が騒ぎ、自然と頬が赤らんでしまう。パンフレットへ向けられている筈の彼の意識が、どうも自分へ向けられている気がするのだ。
◇
食事を終えると、車は一路東を目指した。ナビ上の所要時間は一時間半と表示されているが、不死川先生は制限速度をきっちり守って運転するので度々赤信号に引っかかって停車している。だが初日とは異なり地元の車にビュンビュン抜かされようが全く動じないので、隣に座っていてかなり安心感があった。
僅かな窓の隙間から吹き込んでくる風に靡く髪を押さえながら、私は視界に広がる空を見上げる。昨日とは打って変わって、清々しい晴天だ。たまに浮かんでいる、真っ白な綿を千切ったような雲。新緑は陽光に照り映えて眩しいぐらいだ。
道路は主に海岸に沿って延びていたが、時折内陸部へ入り込む事もあった。平野と呼ぶには狭すぎる野が広がっていたが、牛や馬などの家畜の姿が散見されるようになる。彼らがのんびりと草を食む光景はまさに牧歌的とも言える平穏さで、私は暫し言葉もなくその光景に見入るのだった。
「みょうじ先生、楽しそうですね」
その言葉にハッとして振り向く。ハンドルを握る不死川先生は、眩しげに目を細めながら道路の先を眺めていた。てっきり運転に集中しているとばかり思っていたが、密かに様子を観察されていたのだろうか。
(景色にはしゃぐなんて、子どもっぽいと思われるかな)
何と答えようか迷ったが、はぐらかす気にはならなかった。私は頷き、小さな声でボソボソと答える。
「……楽しいです。天気が良いってだけでワクワクしますし、それに」
不死川先生がいるから、このような何気ない一瞬一瞬が色鮮やかに映るのだ。ただの旅行ではここまで胸は弾まない。
(これは……恋なのかな)
昨日あのような事をされて、一人で舞い上がっているのかもしれない。そう思うと少し胸が締め付けられるような気がしたが、それでもこの旅が一分一秒でもいいのでもっと長く続いて欲しいと願う気持ちは消えない。
不死川先生側の窓からは、木々の緑の隙間から海が見える。多少白波立っているものの、遠目から見た限りでは海は穏やかだ。空の青よりも、海の青の方が濃い。普段目にする機会のない光景なので、物珍しくてついついそちら側を眺めてしまう。
ふと、不死川先生が横目でこちらを見ている事に気が付いた。
「奇遇ですね」
「え?」
「俺もです」
吹き込んでくる新鮮な風が、互いの髪を撫でていく。均一に唸るエンジンの音に紛れて聞こえてきた、張りのある低い声。
俺もです。端的なその返答は声だけ聞けば素っ気なく聞こえてしまうかもしれない。けれどその横顔は、確かに笑っているように見えた。口の端を上げて、眩しそうに目を細めながら。
(……笑ってる)
心が躍る。淡い色をした温かな感情が胸いっぱいに広がり、とてつもない喜びで目に映る全てのものが輝いて見える。
「あ、キタキツネ」
と、不死川先生が目を瞬かせながら前方を指差した。その視線の先に顔を向けると、快調に走っていた車は徐々に減速し始める。
「あそこの木立の根元です。見えますか?」
「木立……うーん」
「二頭いますね。小さい方は子ギツネでしょうか」
「あっ」
運転席側へ身を乗り出すと、ようやくその姿が見えた。道沿いに生えていた白色の樹皮に覆われた白樺の根元でピンと姿勢を正し、親ギツネと思われる一匹がじっと私達の車を見つめている。
対向車もいなければ、後続車の姿も見えなかった。キツネとの距離が最も近くなる位置で不死川先生は車を止め、私達は暫くキツネの親子の姿を眺めた。
こちらを警戒している親ギツネに対し、子ギツネは私達に興味津々だったようだ。丈の短い草をかき分けて一直線に向かってきたかと思えば、ちょこまかとにおいを嗅ぎ回っている。
「可愛い……」
多分この様子なら、扉を開けても逃げる事はないだろう。しかしキツネを野良犬や野良猫のような感覚で扱うのは大変危険だ。野生動物、特にキツネは絶対に素手で触れてはならない。
車中から息を詰めてその様子を眺めるのだが、キツネは思いのほか早く向こうへ駆けて行ってしまう。好奇心旺盛なので、すぐに他へ興味が移るのだろう。子ギツネはやがて親ギツネの元へ戻り、二頭は寄り添い合うようにして自然の奥深くへと姿を消していく。
「居なくなりましたね」
その声が妙に近くで聞こえたなと思っていると、私は自分が運転席の方へかなり身を乗り出していた事に気付く。私がもう少し身体を傾ければ、その胸元に顔を埋められてしまいそうな距離だ。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ」
慌てて身を離すが、妙な雰囲気はなかなか元に戻ってくれない。空高い位置から聞こえてくる名も知らぬ海鳥の声、穏やかな日差し、緑風にざわめく耳に優しい草木の音。
高鳴る動悸はなかなか治まらない。自分の席へ戻ったからといって、依然として手を伸ばせば触れられてしまう距離であるのには変わりないし、視界には常に彼の身体の一部が入っている。
事もあろうに、頭は勝手に昨晩の熱烈な口付けを思い出していた。だが意外にも、何も起きる事なく車は再発進する。
「……あと三十分程で着くと思います」
ようやく走行を始めた私達の車を、久しぶりにその姿を見た後続車が軽々と追い抜いていった。そっと盗み見た不死川先生の横顔はもう笑ってはおらず、何事もなかったかのように鋭く前方を見据えている。
「霧多布湿原の岬を散策して昼食が終われば、後は空港へ向かいます」
「あ……」
「寄りたい所があれば早めに仰って下さい」
浮き立っていた気持ちが、潮が引いていくように消沈していく。そうだ、この特別な瞬間は決して永遠には続かない。この旅は、間もなく終わりを迎えるのである。
◇
車は程なくして市街地に入った。陸の方に深く入り込んだ湾とそれに伴って出来た湖との間に架けられた橋を越えると、道は大きくせり出した奇岩の立ち並ぶ集落へと入る。集落を抜ければ辺りは林道のような風景へと変わり、途端に空が雲で覆われ始めた。雲というより霧かもしれない。それほど雲と霧とが一体化している。
岬付近の駐車場へ辿り着いて外へ出ると、表示されている温度はよりもかなり寒く感じた。持ってきたカーディガンを羽織っても、肌寒さは紛れない。
「実際の旅行では、最終日辺りに一時間程度この付近の散策が計画されているようですね」
散策道路の入り口に立て掛けられた看板を眺めていると、不死川先生が自身の羽織っていた上着を私の肩に掛けてくる。ほんのりと彼の温もりの残った上着ですぐに肌寒さは解消されたが、当の本人は露出の多い半袖一枚なので流石に申し訳なくなってしまう。
「あの、これ……でも不死川先生が」
「大丈夫です。みょうじ先生が着ていて下さい」
暑がりなので、と不死川先生は言うが、本当に良いのだろうか。筋骨隆々とした胸元や腕は、よく見ると鳥肌が立っているように見える。
「あの……やっぱり」
「あっ!! やっぱりさねセンじゃん!!」
と、その時だった。今し方到着したばかりのワゴン車から出てきた団体客が、こちらを指差しながら嬉しそうに駆けてくる。男女混合の観光客らしい。一番最初に声を上げた女の子が不死川先生の腕に飛び付くと、彼の周りはあっという間に若者で埋め尽くされる。
会話から察するに、どうやら彼らは不死川先生の元教え子のようだ。彼と私は似たような年頃だが、齢は彼の方が上で尚且つ勤続年数も彼の方が多い。私が赴任する前に在学していた子達なのだろうか。大学生同士の親睦旅行、そんな所かと思われる。
「ていうかこんな所で会うなんて偶然〜。旅行?」
「ただの下見だよ。修学旅行のなァ」
「へ〜……えっ、もしかして」
あの人、彼女? 不死川先生の腕に絡み付いていた女の子は、ニヤニヤとこちらに視線を送りながら声を顰める。不死川先生は間髪入れずに半笑いで返した。
ハッ、んなわけねえだろ。ただの同僚だよ、と。
「あの、私先に歩いてますね! 積もる話もあるでしょうし、ここからは別行動にしましょう!」
私は極力明るめにそう言い切ると、逃げるように走り出した。不死川先生がどんな反応をしていたのかはわからない。だがすぐに彼らの気配は遠ざかり、私は観光客が行き来する林道の途中で立ち止まり、息を整える。
ただの同僚。実に正しい答えだ。現に昨日炉端焼きの店員に関係を訊かれた時、私もそのように答えた。間違っていない。いる筈がない。
なのに、どうしてこんなに心を打ち砕かれたような気分になるのだろう。不死川先生が何と答えれば私は満足だったのか。雰囲気にあてられてキスをしただけの関係に、特別な名前なんて付くわけがない。
(……何やってるんだろう。とにかく落ち着かなきゃ)
無駄に気が急いている。息を胸いっぱいに吸い込むと、ヒンヤリと湿った空気で少しは頭のモヤが晴れたような気がした。
人が踏み固めて出来たような道を明るい方へ辿っていけば途端に視界が開け、丈の短い草や白い花に覆われた丘陵が見えてくる。丘の起伏に沿って延びる道の両脇は苔むした木枠で囲まれ、その先には柵に囲われたコンクリート造りの高台があるようだ。
ふと、不死川先生の上着をそのまま羽織ってきてしまった事に気付く。ハッと息を飲んで踵を返すが、唇を噛み、再び高台の方へと歩き出した。もう、後の祭りだろう。
「意外と距離あったね」
「ホントホント! 息が切れちゃった」
すれ違う若い観光客の会話が耳に入ってくる。彼女らの言う通り、散策路は踏破するのに意外と時間がかかった。先程見た所からは、丘陵の微妙な高低差が把握出来なかったのだ。当然既に息は上がっており、背中の中心は少し汗ばんでいる。
だが、視界に広がる広大な景色を眺めていると不思議と疲れを忘れた。時折晴れる霧の向こうに見える澄んだ青空。群生する水芭蕉の草原の向こうには、野生と思しき馬の群れを発見する。耳をすませば微かに波の音が聞こえ、少し歩くと緑に覆われた崖や岩場があり、白波だった海も見えてきた。
日本の最果て。普段は滅多に目にする事のない光景に、頭の中ではそんな言葉が過ぎる。
(不死川先生、気を悪くしたかな)
立ち止まり、絶えず吹き抜ける風に身を任せながら目を瞑る。目蓋の裏には車中で見た、不死川先生の穏やかな横顔が蘇った。強い孤独感を感じるのは、自分の振る舞いを後悔しているからだろう。もうすぐこの夢のような時間が終わってしまうのに、自らそれを放棄するような真似をしてしまった。あの子達の視線に晒されるのが辛くても、耐えれば良かった。この雄大な景色を、彼と一緒に眺めたかった。
(……っ、こんなの。一人で見たって)
「みょうじ先生!」
その時だった。後方から響いてきた声に振り返り、目にした光景に想いが込み上げる。口元を覆って立ち尽くす私の手前で足を止めた不死川先生は、肩で息をしながら随分と切羽詰まった表情を浮かべていた。
「すみません、遅れました」
「い、いいんですか? あの子達」
「自分がすべきなのは、お喋りではなく下見ですから。行きましょう」
「あっ」
強引に握られた手のひらは、随分冷たかった。不死川先生はそのまま歩きだそうとするのだが、私は反射的に腕を引き、手を離してしまう。
「!」
振り返った不死川先生の顔を見て、やってしまったと思った。ドクドクと心臓が狂ったように鼓動を響かせ、全身に冷や汗が浮かぶ。
手を振り解いてしまったのは、どこかであの生徒達が見ていたらという危惧に負けたからだ。触れられて、手を引かれて嬉しかった筈なのに。一度引っ込めてしまったものは、もう元には戻せない。
「……すみません」
その消沈したような声を聞いて、グラリと頭が揺れるような心地がした。彼が折角向けてくれていた好意が離れていくのを感じる。
「い……いえ、こちらこそ」
「……」
「あの、これ」
彼が貸してくれた上着を脱ぎ、手渡す。いくら暑がりと言っても、汗をかいたままこんな寒い所にいたら風邪を引くと思ったから。けれどそんな真意は言葉として決して出てきてくれず、拒絶として受け取られているのであろう雰囲気がありありと伝わってくる。
「ありがとうございました」
「……いえ」
なんとかこの雰囲気を払拭したくて明るい声を出そうとも、不死川先生の表情が変わる事は無かった。上着を受け渡す手と手は一瞬触れ合うものの、不死川先生は何事もなかったかのように上着を羽織り、早足で歩き始める。
決して拭い去れない後悔で、気分がひどく沈んだ。先程まで握られていた手を胸の前で抱え込み必死に彼の後を追うが、かなり早足で歩く不死川先生の背中には決して追いつかない。
結局、その後は一言も交わさずに散策を終えた。帰りの車中でも会話は起こらず、霧が晴れて目映い景色に包まれようとも私達はお通夜のような沈黙のまま、ひたすら時の流れに身を委ねた。
風向きが変わったのは、昼食の蕎麦を啜っている時だった。食事途中に掛かってきた電話を取った不死川先生が、眉を寄せながら呟いたのだ。
「え? 今日の便は全て欠航なんですか?」
思わず顔を上げた私を見た不死川先生は、スマホを耳に当てたまま席を立ち、玄関の方へと姿を消す。再び戻ってきた時には眉間に皺を寄せ、食べかけだった蕎麦には一切手を付けずに腕を組んで黙りこくってしまう。
「どうしました……? 航空会社からですか?」
「……そうです。着陸予定の空港がかなりの悪天候だそうで、今日のフライトは全便欠航だそうで」
「……!」
「とりあえず、これ全部食ったら学校に相談してみます」
まさに、寝耳に水だった。明日からは平日だ。二人とも授業がある。いや、その前に帰る筈だったものが帰れないとなると、泊まるホテル等も新たに探さねばならないだろう。
念の為現金は多めに持ってきたが、果たして部屋に空きはあるのだろうか。レンタカーも延長して借りねばならないだろう。そんな事を考えている間に、一足先に食事を済ませた不死川先生が学校との通話を終えて席へと戻ってくる。
「とりあえず、明日は公休扱いになるそうです。もし明日も飛行機が飛ばなければ、その次の日も同様と」
「そ……そうですか」
「陸路での移動も考えましたが、たとえ釧路から新千歳へ移動したとしても着陸する空港は変わりませんし、JRを使っても新幹線に乗れる場所まで辿り着くには時間がかかりすぎます。ですので下手に移動するよりは、飛行機が飛べるようになるまで釧路に留まった方が良いのでは、と教頭は」
「……」
「みょうじ先生、着替えは余分に持ってきていますか?」
最低限の着替えならば、一応は持参してきている。そう告げると、不死川先生の強張っていた表情が微妙に柔らかくなったような気がした。
「クレジットカード等はお持ちですか。もし足りなければ」
「だ、大丈夫です。念の為現金は多めに持ってきたので」
「何かあれば仰って下さい。今夜分の旅費は、残念ながら自己負担のようですが」
「そうですか。まあ……仕方ないですよね」
「……あの」
食べている蕎麦は美味しい筈なのに、味がよくわからない。予想だにしない事態に混乱しているからだろうか。そんな状態で咀嚼を繰り返していると、不死川先生が視線を逸らしながら声をかけてくる。
「な、何ですか?」
「教頭からは、一応飛行機が飛ぶまでは自由に過ごして良いと言われたのですが」
「そうですか……」
「……行ってみたい所があるんですが、良かったら付いてきて頂けませんか」
彼にしては珍しく、定まらない視線。願ってもない申し出に、私はすぐに首を縦に振るのだった。
◇
一旦釧路市内に戻った車は、再び厚岸方面へと進路を取る。南中時刻を過ぎても空は依然として晴れ渡っており、一度見た覚えのある景色を私は言葉もなく眺めている。
相変わらず車中は沈黙状態だったが、不思議と先程までの重苦しい雰囲気は解消されていた。ハンドルを握る不死川先生の表情は柔らかくはないが、先程のような壁を感じる事もなかった。
一時間程をかけて辿り着いたのは、近隣町村の市街地にあるこじんまりとした牛乳屋だった。ファンシーな外観の一軒家の軒下には、アイスクリームの立体看板が設置されている。
店先のテラスにはアンティーク調の丸テーブルと椅子が置いてあった。ここで座って待つように言われたのでおとなしくその通りにしていると、程なくして両手に真っ白なソフトクリームを携えた不死川先生が戻ってきた。
「どうぞ。俺の我儘で付いてきて頂いたので、金は入りません」
鞄を開けて財布を取り出そうとすると、先手を打ってそう言われてしまう。我儘だなんて、そんな事は全く思っていないのに。
「あの……」
「何かの口コミサイトで見かけてから、ずっと気になっていたんです。ただ一人で来るには気まずかったので」
確かに、不死川先生が一人でこのテラス席に座ってソフトクリームを頬張っている姿を想像すると頷ける気がした。奢られてしまった事には未だに気後れしていたが、融けるから早く、と食べるのを促されるので私は融けかけた表面を舐めながらその甘味を頬張った。
(はぁ……! お、美味しい……!!)
釧路に来て食事をして美味しいと感じない事はなかったが、中でもこのソフトクリームの美味しさは随一だった。圧倒的生クリーム感。何とも言えないコクがあり、そこまで甘ったるいわけではないクリームはまだ口内の味が無くならないうちから次を頬張りたくなる中毒性がある。一口ごとに感動する美味しさだった。
我を忘れてしまう程にその冷ややかな甘さに浸り切っていると、ふと視線を感じる。振り向くと当然のように不死川先生と目が合い、羞恥心から赤面してしまう。
「すみません。あんまり美味そうに食べていたので」
「は……恥ずかしいのであまり見ないで下さい」
「飲み会の時も、いつもそんな風に召し上がっていますよね」
「え?」
既にコーン部分の中程までを食べ終えていた不死川先生は、コーンの先を口内に放り込み終えると指に付いていたらしいクリームを一舐めする。その赤い舌先がチラッと見えた瞬間、私は思わずドキッとしてしまった。
「小せェ口で一生懸命食ってるなと思って。呑みながらたまに眺めています」
「……そ、そうなんですか。でも会話にも加わらないで食べてばっかりで。社会人としては駄目ですよね」
「そうですかねェ」
俺は、好きです。みょうじ先生が美味そうに飯を食う姿を見るのが。不死川先生がゴミを捨てに立ち上がりながら、ボソッと呟いた言葉を聞いた私は、心臓が止まりそうになった。顔を上げた時にはもう彼の姿はテラスから随分離れたゴミ箱へと向かっており、戻ってきた時には私ももうソフトクリームを食べ終えていた。その件が話題に登る事はなく、不死川先生はやはり何事もなかったかのように次の行き先について話を進める。
(好きです、だって)
釧路市内へ帰る車中の私は、上の空で景色を眺めていた。本当だったら今頃は、空を見上げるのではなく上空から街並みを見下ろしている筈だった。不死川先生ともギクシャクしたまま空港で別れて、明日からは学校で顔を合わせても以前と変わらず挨拶だけ交わすといったような毎日が続くと思っていた。
それが私はまだ不死川先生の運転する車の助手席に座っている。しかも『修学旅行の下見』という業務ではなく、完全なるプライベートの時間だ。仕事ではないのだから別行動という選択肢もあった筈なのに。不死川先生は私を誘い、ソフトクリームをご馳走してくれた。
まるで、恋人達がするデートのように。
「着きました」
会話も無く走っていた車は古い住宅街へ入ったかと思えば、坂の登り降りを繰り返してとある公園へと辿り着いていた。遊具等は一切設置されておらず、石碑と灯台を模した展望台のような建物しか建っていない。住宅街の中にある公園という事もあり、随分と静かだ。うっすらと縦横に棚引く雲は夕色に染まり、微かに潮の匂いを含んだ風が気持ち良く肌を撫でていく。
「ここ、街が一望出来るんですね」
「昨日炉端焼きの店員に聞いた場所です。まさか来られるとは思っていなかったので、来られて良かったです」
並んで歩き、海沿いの街並みが一望出来る位置で立ち止まる。ペンキの剥げかけた手摺りに凭れかかった不死川先生は、眩しそうに目を細めて口の端を上げた。
夕映えの空。潮風に揺蕩う、極めて色素の薄い長い前髪。細めた目もその頬も夕日に照らし出されて色付いている。
「あの……二日間、どうもありがとうございました」
おずおずと声を出すとその鋭い瞳がこちらを向き、私は慌てて景色へと視線を移す。雲に隠れていた日はいつの間にか顔を出し、遥々と広がる海を赤々と染め上げていた。ふとスマホを出して写真を撮ろうかと思ったが、端末を掲げかけて鞄へと戻す。
多分、この美しさは今この瞬間だけのものだ。写真として残しても、今のような感動は味わえないと思う。
「不死川先生のお陰で、とても有意義な旅行となりました。と言っても、旅の主役は何ヶ月か後の生徒達ですけど」
「……そうですね」
「楽しかったです。とても」
謝るべき事も、感謝すべき事も沢山ある筈なのに。胸がいっぱいで、言葉にならない。そこら辺の絵画よりも美しく雄大な景色の前で感傷的になっているせいだろうか。この旅が終わってしまうのが、惜しくてならない。
海鳥が鳴き声を交わしながら、夕日に向かって飛んでいく。じゃれ合うように近付いては離れ、近付いては離れを繰り返しながら影となり、景色と一体化していく。
「……朝行った市場で」
風で不死川先生の前髪が舞い、その目元を覆い隠す。私は髪の毛を耳に掛けながら、彼の言葉にじっと耳を傾けた。
「追い追い説明すると言ったこと、覚えてますか」
「ええと……悲鳴嶼先生のお話でしたっけ」
「……当初は教頭先生の代役が悲鳴嶼先生だったと言ったら、驚きますか?」
「えっ」
「直前で変えてもらったんです。実は」
「そ、それはどうして」
その時脳裏をよぎったのは、旅の最初で見かけた旅行雑誌だった。びっしり貼られた付箋やボールペンの書き込み具合
を思い出し、一人合点する。
そうだ、この人は元々釧路観光を凄く楽しみにしていたのだ。だから土壇場で交代を願い出たのかもしれない。
だがその時、手摺に載せていた肘が不死川先生のそれとぶつかった。いや、ぶつかったのではない。不死川先生が、私との距離を詰めたのだ。うっすらと照れを含んだ真摯な眼差しが、肩と肩の触れ合う距離で私へと向けられる。
「わかりませんか」
「……え」
「みょうじ先生と……少しでもお近付きになりたかったんです。不純な動機なので……引かれるかもしれませんが」
「そ、それは」
「……好きです。俺は、ずっとあなたの事が好きでした」
薄々勘付いてはいた。というか口付けられた際の私への触れ方や、時折感じる視線の温かさからその想いに気付いてはいた。途中様々な出来事があり紆余曲折を経たものの、言葉にして伝えられると改めて込み上げてくるものがあった。
不死川先生の手は、既に私の手の甲の上に重ねられている。日は早くも地平線に沈みかけていて、燃えるような色に染まった空が私達を赤く照らし出していた。
「これから……予定はありますか」
「……」
「良かったらどこかで呑みませんか。もっとみょうじ先生の事を知りたいですし……許されるのなら、朝まで隣にいたいです」
そっと見上げる横顔は、目元が前髪に隠れてしまって見えない。しかしキュッと引き結ばれた唇も、形の良い耳も頬も全て赤く染まっている。深呼吸を一つして、私は手を裏返した。彼の大きな手と手のひらを合わせて指を絡めると、不死川先生が微かにこちらへ顔を向ける。
熱情を秘めた眼差し。昨晩口付けを交わした時同様、私への想いが透けて見えるような想いのこもった眼差しだった。
「……いいんですか?」
ゆっくりと頷くと、顔を傾けた不死川先生が目を伏せる。二人の影が重なる前に、私はその肩口に腕を回しながらその耳元で思いの丈を打ち明けるのだった。