霧の街、夕景慕情 《前編》





※作中に出て来る地名や施設、飲食店等は現実のそれらとは一切関係ございません。限りなく現実のものに似せて書いておりますが、誇張表現等もございますので、あくまで空想上の物語としてお楽しみ下さいませ。



五月上旬某日、私はスーツケースを相棒にとある空港に降り立っていた。単なる旅行者ではない。教員として勤めるキメツ学園が行う修学旅行の為に、一泊二日という短期スケジュールで訪問地の下見を行うのだ。目的地は北海道東部に位置する太平洋沿岸部の都市、釧路である。
 到着口が待ち合わせ場所だった。一緒に下見をするのは教頭と、道案内として手配したツアー会社の職員一名だ。女性側の同行者として何故新米教師である自分が選ばれたのかといえば、ただ単に受け持ちクラスも無く暇そうに見えたからなのかもしれない。

 (別に、そんなに暇ってわけじゃないんだけどな)

 人も疎らな到着ロビー。腕時計ばかり見ているのも飽きるので、私は何となく全体を見渡してみる。出入り口側の壁面は殆どがガラス張りになっており、外には動物を象ったモニュメントが設置されているようだ。こちら側からはその後ろ姿しか見えない。

「熊……ヒグマ? エゾシカに……タンチョウ?」
「すみません、遅れました」

 ブツブツと呟いていた所に、背後から声が降ってきた。反射的に振り向いた私は、ギョッと目を丸くする。なんとそこに立っていたのは、ここで出会う筈がない同僚の男性教師だったのだ。

「え……? 不死川先生!?」
「時間が押してますね。急ぎますか」
「えっえっ、ちょっと」

 たじろぐ私を差し置いて踵を返した不死川先生は、スタスタと歩き始める。私は追いかけながら慌てて声を張り上げた。

「あの! 教頭先生は!」
「不幸があったそうです。教頭から連絡は」
「来てな……あ、そういえば」

 そこで初めてスマホの電源が切ったままになっている事に気付いた。電源を入れると数件の着信履歴の他にメールを一通受信している。いずれも私が電源を切った時刻より二、三分後の事だ。
 私はおそるおそる視線を上げるが、驚くべき事に不死川先生の姿が無い。いつの間に移動したのかは定かではないが、彼は既にレンタカーの受付を始めているではないか。
 流石に早すぎる。受付はツアー会社の職員が行う予定だった筈だ。私は急いで彼の隣へと詰め寄った。

「しっ、不死川先生! あの」
「ご存知無いと思いますが、ツアー会社の同行も中止になったそうですよ」
「えっ」
「こちらは教頭の予約ミスですね。向こうを発つ前に今からでも予約出来ないか問い合わせてみましたが、人手が足りないようで」
「……!」

 淡々と言いながら手早く受付を済ませていく不死川先生を前に、私は硬直する。これはつまり、一泊二日という短いようで長い時間を彼とコミュニケーションを密にしながら二人きりで過ごさねばならないという事なのだろうか。

 (いや、無理だ)

 私より二年早くキメツ学園で教鞭を執る不死川先生とは、実はこれまでロクに会話をした事が無かった。毎朝顔を合わせ、最低限の挨拶はする。が、不死川先生は寡黙な上に、いつも忙しそうなのでそれ以上の会話へ至る事が無いのだ。真偽は定かではないが、生徒に対する悪評も相まって正直あまり関わり合いになりたくない部類の男性である。

「みょうじ先生?」

 早くもレンタカーのキーを手に入れたらしい不死川先生が、キーホルダーのリングを人差し指に差し込んで振り回しながら私を不思議そうに眺めている。ハッキリ言って不安しか感じない。だが、これも仕事の一環だ。私情には蓋をして、黙々と業務に励むしかないだろう。

「いえ、すみません。今行きます!」

 かくして、一泊二日に及ぶ不死川先生との下見旅行が始まった。



 不死川先生が選んだレンタカーは、よくあるハッチバック式の小型乗用車だった。不死川先生は運転席に腰を下ろしながら、ミラー位置の微妙な調整を行っている。

「走行中ナビの確認等をお願いしたいので、助手席に座って頂けませんか。周辺の地理は予習して来ましたが、一応念の為」

 さりげなく後部座席に座ろうとすると、そんな事を言われてしまう。ただでさえ二人きりで長時間狭所にいると思うと気が重いというのに、視界に入る位置に座らなければならないとは。

 (ダメだ。顔に出さないようにしなくては)

 私は努めてにこやかな表情を心掛けつつ、助手席に尻を据えた。横並びになるとやはり肩が強張ってしまう。本人は無意識なのだろうが、発される圧が常人のそれを超えている。
 どこか不機嫌そうな横顔。いきなり押し付けられた大して仲の良くない同僚との下見旅行なんて、負担以外の何物でもないのだろう。そう思うと、途端にこの場に居づらくなってしまう。笑顔がぎこちなくなってしまう。
 そんな私には目もくれず、不死川先生は機械的に言い放った。

「もう時間も時間ですし、まずは腹拵えでもしますか?」

 空港の駐車場を抜けた車は、車内の淀んだ空気とは裏腹に至極軽快に走り出していた。薄曇りの空の僅かな隙間から顔を覗かせる太陽の照らし出す一本道。視界は広く、見渡す限りの荒野である。ぽつぽつと見える木々の丈の低さは、辺り一帯が大昔から何度も津波に遭っているせいなのだろうか。景色に気を取られつつも、私は当たり障りない風を装って言葉を返した。

「そ、そうですね。どこへ行きます?」
「みょうじ先生は何が食べたいですか?」
「うーん……」

 慣れた様子でハンドルに手を掛ける不死川先生が、視線を前方に固定したままパネル中央の計器類を微調整する。食べたいものはと言われてあまり思い浮かぶものはないが、北海道と言われればすぐに思いつくメニューはあった。

「ラーメン……とかですか?」
「では、それで」
「あ……じゃあお店検索してみますね」

 肯定の返答を得た事にホッとしつつ、検索サイトのひょろ長い検索ボックスで『釧路 ラーメン』と入力する。瞬時に表示されるのは、数えきれない程のラーメン屋だ。ここは有名店を選ぶべきなのだろうか。

「あの……」

 話しかけようとして、瞬時に後悔する。いつもに増して険しい顔付きをしている不死川先生の横顔。初めて走る道なので、運転に集中しているのかもしれない。そうだとすれば、どこの店のラーメンを食べに行くかだなんてくだらない問いをしようとしていた自分が、浅慮に思えてならなかった。

「何ですか」

 視線を前方から逸さずに、不死川先生は静かに言う。思っていた事をそのまま尋ねるべきか戸惑っていると、彼は腹立たしそうに舌打ちをした。恐れるあまり、ビクッと震えてしまう身体。
 私が中々本題を言い出さないので、苛つかせてしまったのだろうか。激しく後悔するが、折しも後方から別の車がけたたましくアクセルをふかしながら私達の車を追い抜いていく。と同時に、不死川先生の眉間の皺はより一層深くなった。

「チッ! 危ねえな、くそったれがァ……! で、何ですか。みょうじ先生」
「あっ、あの……不死川先生は……行きたいお店とか……」
「任せます。みょうじ先生が気になる店で構いません」
「そ……そうですか」

 舌打ちはどうやら私に向けてのものではなかったようだ。それはそれでホッとするが、相変わらず雰囲気は微妙に重苦しく、居心地が悪い。ラーメンだなんて選択をしない方が良かったのだろうか。いや、どんなメニューを選んでも店探しはしなければならなかった。
 そう結論付け、進行方向上にある店を調べ始めようとした時だった。ふとサイドブレーキの辺りにこの地方を特集した旅行雑誌が挟んである事に気付いた。元々備え付けてあったものだろうか。

「あの、は……話しかけても大丈夫ですか」

 一応今度は先程の件を踏まえて、ワンクッション置いておく。とは言っても信号も対向車も見えない原野の一直線道路なので、返事はすぐに返ってきた。

「いいですよ」
「あ、ありがとうございます。あの、不死川先生の近くに挟まっている旅行雑誌を拝見してもいいですか?」
「!」

 不死川先生は何故か微かに目を見開いたように見えた。ええどうぞと口では言うものの、どこか様子がおかしい。
 とりあえず雑誌を手に取り、適当にページを開いてみる。雑誌は新しいがかなり使い込まれたような皺が付いており、付箋がびっしりと挟み込まれていた。程なくしてラーメン屋のページに行き着いたが、やはり折り癖がきっちり付いており、数軒の店が大きく丸で囲ってある。ページの中には、使い込まれた万年筆が挟まっていた。

「最近のレンタカーって、最新の旅行雑誌まで置いてあるんですね。便利……」
「……」
「この丸が付いているお店は、私達の前に乗った人が気になったお店なんですかね。それとも行った店に丸をしているのかな」
「……前者が正解です」

 その言葉に顔を上げ、驚きに目を瞬かせる。先程までは落ち着き払って運転していた筈の不死川先生が、どことなく頬を染め気まずそうに視線をさ迷わせているのだ。

「実は……それ、自分の私物です」
「えっ! そ、それは失礼しました!」
「いえ、いいんです。自由に見て下さい。向こうの空港で売っているのをたまたま見かけて、暇な移動中に何となく眺めていただけなので」

 いや、何となく眺めていただけにしては使い込みようが尋常じゃない。よくよく見てみるとラーメン屋のページの他にも様々な部分にチェックがしてあったり、書き込みがしてある。万年筆にも彼の名前が印字されていた。
 私は改めて、彼に気付かれないようにそっとその横顔を盗み見た。不機嫌そうな表情をしているかと思ったが、もしかしたらそれは彼の顔立ちが元々そう見えるだけであって、実はそんなに不機嫌でもないのだろうか。ひょっとしたら彼はこの旅行を負担とは思っておらず、むしろ楽しみにしていたのだろうか。
 薄く開けた窓から吹き込んでくる、新鮮な風。地面を覆う草木の緑はどれも健康的で、微かな日差しを照り返してキラキラと光って見える。
 遮るもののない空を、二羽のカモメがじゃれ合いながら飛んでいた。その光景を見ていると、先程感じた重苦しい後悔が消えている。不安で逃げ出したくてたまらなかった筈のこの旅が、少しはマシに思えてくる。

 (……はっ。いけない、ボーッとしてないで早くお店を探さなきゃ)

 結局、行き先は丸の付いている中から一番行きやすそうな店を選ぶ事にした。道はどこも渋滞とは無縁だったが、流石に市街地に入ると車の数が増えてくる。当たり前だが、どの車も釧路ナンバーばかりだ。
 昼の丁度良い時間帯という事もあり、席はその殆どが埋まっていた。たまたま空いたのは端のカウンター席だ。
 使い込まれ、座面の皮が破れた丸椅子が二脚。隣の男性客と接する側には、さりげなく不死川先生が腰掛ける。

「釧路は……醤油と塩がメジャーなんですかね」

 席の真ん中に置いてあった手書きのメニュー表を眺めながら、私はつい呟いてしまう。

「釧路は醤油のようです」

 そう返してきた不死川先生は、用意されていたお絞りでゴシゴシと顔を拭いているではないか。ギョッとしていると、私の視線に気付いた不死川先生は決まり悪そうに表情を歪めながら微妙に顔を背ける。あ、やってしまったと思ったが、その行為を言葉で謝罪することは叶わなかった。やるんじゃなかったという後悔の念が、心の底に沈澱していく。

「醤油でいいですか?」
「は、はい。醤油で……」
「すみません! 醤油二杯で、一杯は大盛りでお願いします」

 振り返った不死川先生の注文は早かった。だが驚くべき事に、注文の品が届くのもこれまた早かった。目の前で湯気を放つのは、ネギ、チャーシュー、メンマといった実にシンプルな醤油ラーメンである。実に美味しそうなのだが、麺が思っていた形状のものではない。北海道といえば、中太の縮れた卵麺かと思っていたのだが。
 
 (あ、そういえばさっき見た雑誌に書いてあったっけ)

 その昔、釧路のラーメンは漁師達に提供されていたそうだ。料理人達は寒い海から凍えて帰ってくる彼らの為に少しでも早く温かいラーメンを届けるべく茹で時間の短縮を目指した結果、このような細麺になったらしい。
 スープの味も見た目以上にあっさりとしていた。そのあっさり加減は、一般的なラーメンと蕎麦の中間に位置しているような印象だ。

「水、注ぎますね」

 視界に血管の浮き出た逞しい前腕が伸びてきたかと思うと、空になっていたグラスが水でなみなみと満たされていく。不死川先生の器は、いつの間にか空だ。

 (しまった、ついじっくりと味わいながら食べてしまった!)

 私は急いで麺を啜り始める。不死川先生はゆっくりでいいですと気遣ってくれるが、流石に待たせるのは申し訳ない。

 職場の人と二人きりでご飯を食べるのは、これが初めてだ。特段仲の良い同僚もいないので、仕事仲間と食事をする機会は年に二回の歓送迎会しかない。
 この飲み会、実は毎回苦痛でならない。周りのテンションについていけないからだ。元々口下手なせいもあり、毎回誰とも絡めずに終わる。黙々と大皿の残り料理を平らげるのもそれはそれで楽しいのだが、人の輪の中に入れないというのはそれだけでかなりのストレスであった。

 それから十分程してから、ようやく私はラーメンを完食する事になる。不死川先生との食事は無駄なお喋りが無いので気楽と言えば気楽であったが、その反面彼の食事スピードはかなりのハイペースである事がわかった。
 彼のペースに合わせるのならば、とても料理を味わっているような余裕は無さそうだ。これが明日の昼まで続くのかと思うと、私は内心うんざりするのだった。



 とはいえ旅行そのものは思った程苦ではなかった。見た事のない街並み、通った事のない道。遥か遠くで重なり合う山々にはまだ雪が残っているようで、地平線の彼方で蜃気楼のように浮かび上がって見える。
 車は一路、北側にある湿原を目指していた。国立公園でもあり、そのうちの一部がラムサール条約にも登録されているという湿原である。

「これ、街の北側はどこも未開発のままなんですね」

 展望台への道順を辿ろうとナビを動かすと、街の北側を覆う外環状道路以北はどこも草地のマークが続いている。実際に街の北側に近付いてくると、やはり丈の短い草の続く広大な荒野が見えてきた。

「運動公園にある施設にも展望台があるようですよ」
「公園……。なら、多少生徒達が集まっても迷惑になりにくいですかね」

 下見旅行の目的の一つとして、生徒達が集合しても大丈夫な場所の下調べがある。修学旅行は学年単位で集まる場面が多いので、一般客や周辺住民の邪魔にならない場所を探しておく事は必須なのである。
 運動公園に到着すると、広々とした造りの真新しい施設が私達を出迎えた。五月とはいえ、吹き抜ける風はまだまだ肌寒い。私は持ってきたカーディガンを羽織ろうとするのだが、不死川先生は逆に上着を脱ぎ始める。男の人だから、汗っかきなのだろうか。

 (……それにしても)

 私はチラリと彼を盗み見て、その私服姿をまじまじと眺めた。ワイルドな輩系の私服というイメージがあったが、実際の彼は意外にも清潔感溢れるシンプルなデザインの服を着ている。シルバーアクセサリーや登り龍の刺繍されたスカジャンのイメージは、見事に覆されたわけだ。

「……何か?」

 訝しげに眉を寄せる不死川先生に気付いた私は後悔した。まじまじと見つめるだなんて、不躾にも程がある。私は慌てて頭を下げると、彼に先んじて施設に足を踏み入れるのだった。



 施設の一階は広々としているせいか、割と閑散とした印象を受けた。アリーナが何面も用意されており、他にも室内テニス場やトレーニング場、ウォールクライミングが出来るような場所まであるようだ。
 最上階は、北側の湿原を一望出来る展望室である。そこまで広くはないもののガラス張りの壁面の向こうには果ての見えない湿原が広がり、遥か遠くにはかなり高そうな山が幾つも霞んで見えた。

「そこ、案内板がありますね」

 無人の展望室に、不死川先生の低い声が響き渡る。彼の指し示す案内板にはここから見える景色の写真に書き込みがしてあり、それぞれの山の名前が記してあった。

「ほら、あれが雌阿寒岳だそうですよ」

 不死川先生はそう言いながら外を指さすが、微妙に目の悪い私には山とそうでない部分との区別がつかない。案内板と彼の指を何度も見比べていると、不死川先生は山を指し示す指を私の眼前へと持ってきた。

「見えますか? 割と特徴的な形をしているんですが」
「うーん……何とな──」

 なんとなく彼の方を向こうとして、私はギョッとした。
 間近で聞こえてくる、張りのある低い声。清潔感のある香り。頭一つ分高い位置にある、その端正な顔。
 近い。彼との距離が、とんでもなく近いのだ。

「右隣にある山、比較的形の綺麗な山は見えますか? あれは雄阿寒岳と言うそうですよ」

 私が少し頭を傾ければ身体と身体が触れてしまいそうな距離まで、不死川先生は近寄ってきていた。彼のパーソナルスペースはバグってしまったのだろうか。傍目から見れば、私達はイチャつくカップルのように見える事だろう。

「どちらも火山ですけど、活発なのは雌阿寒岳の方みたいですね。確か何年か前に噴煙を上げていたとか……」

 真っ直ぐと外の景色を見据える、黒目の小さな鋭い目。長い睫毛。薄めの唇。顔面を横断する古傷は歪で痛々しそうだが、肌は滑らかでニキビ痕や吹き出物の類は一切見当たらない。彼が話す度に上下する、喉元から張り出した喉仏。うっすらと透けて見える血管は、脈打つ様が目視出来そうな程に太く逞しい。

「近くにある阿寒湖も有名ですよね。しばらく前に高級宿泊施設がオープンしたとかで──」

 近い。それにしても近過ぎる。息を深く吸い込めば彼が使用している洗剤の匂いまでわかってしまう程、私達は密接している。
 心臓は狂ったように音を立てていた。異性経験が無いわけではないのに。何故距離が近いというだけで、私はこんなにドキドキしてしているのだろう。

「……みょうじ先生?」
「ハッ」
「どうしました?」
「い……っ! いいえ! 何も!」

 不死川先生に名を呼ばれたのを切欠に、私の身体は呪縛が解けたかのように俊敏に動き出した。反復横跳びの要領で素早く側方へ移動すると、用を足しに行くと偽って階下の化粧室へと駆け込む。
 綺麗に磨かれた鏡に映るのは、顔じゅうに脂汗を浮かべ、半分ニヤけたような表情をした赤ら顔の地味女だ。先程までこんなツラを不死川先生に晒していたのだと思うと猛烈に羞恥心が高まり、私は逃げるように最奥の個室へ飛び込んで深呼吸を繰り返す。

 (落ち着け。落ち着くんだ自分)

 スマホで撮り溜めた近所の野良猫画像を見て精神を落ち着けつつ、私はようやくトイレを出た。一階のロビーに設置された木製のベンチで脚と腕を組んで私を待つ不死川先生の姿を見つけた時、初めて自分が十分以上もトイレにこもっていた事に気付く。
 これはマズい。不死川先生なら絶対からかってきたりはしないだろうが、大をしていたかもしれないと気取られる事が恥ずかしすぎてならない。生理現象とはいえ、だ。

「! みょうじ先生」

 ハッとして立ち上がる不死川先生。今更トイレへは引き返せない。かといって何事もなかったかのように合流するのも変だ。
 一歩踏み出せずにいると、不死川先生は大丈夫ですかと言いながら駆け寄ってきた。やはりお腹を下したかそれに類似するような症状を抱えていると見られているらしい。
 私は努めて当たり障りなく振る舞うが、声はみっともなく上擦り、顔面は火が吹き出そうなほど熱かった。

「だ、大丈夫です。行きましょう」
「もうチェックイン出来ると思うので、先にホテルに行きますか? 少し休んだ方が」
「い、いえ! 本当に大丈夫ですから!」

 言ってしまってから「しまった」と思った。焦るあまり、語気が異様に強くなってしまったのだ。
 不死川先生の気分を損ねなかっただろうか。私は不安に苛まれながら彼の顔を見上げるが、残念な事にその表情からは感情が読めない。

「あの、すみません。その」
「……では、少し早いですが次の目的地へ向かいますか」

 不死川先生は振り返る事なく、つかつかと先へ進んでいってしまう。彼が出入り口の自動ドアを通り過ぎたところで慌てて後を追うが、彼は決して私が追い付くのを待ってくれようとはしない。

 (……やってしまった)

 空を覆う薄墨色の雲の下、湿った風が肌を撫でる。どんどん遠くなっていく不死川先生の後ろ姿を追いかける足が、ピタリと止まる。募る後悔の念で、浮き足立っていた心が鉛のように重くなっていた。
 頭を振り、今度は駆け出した。不死川先生が車のキーを開けた所でようやく追い付いて、同じように車へ乗り込む。車はすぐさま動き出したが、車中には静けさが漂っていた。これまでも会話なんて殆ど無く沈黙の時間が多かったが、現在の沈黙に比べれば随分気楽だったと今更思い知る。
 人通りの少ない住宅街。カラフルなランドセルを背負った小学生達が、左右の歩道で楽しそうに遊びながら帰路を辿っている。やがて赤信号で車が止まると、不死川先生は自分でナビを操作して道順を確認していた。唯一の役目だったナビ操作をしないとなると、いよいよこの席に座っているのが心苦しくなってくる。

「雨ですね」

 ふと気付くと、フロントガラスには細かな水滴が纏わりついていた。ぽつりと呟く不死川先生の声色には、怒りの感情は無い。密かにホッとしつつも、気分は暗いままだ。そうですねと答えてはみたが、やはり会話は続かない。
 進路を南に向けていた車は、環状線との交差部分に差し掛かると大きく蛇行した道を進み始める。次第に助手席からはゆったりとした流れの川面が見えるようになり、カモメが盛んに空を飛び交うようになってきた。不死川先生は川沿いの有料駐車場で車を停める。
 次の目的地は、釧路の代表的な橋として有名な幣舞橋だ。釧路は世界三代夕日と称される程夕日の美しい街なので、修学旅行日程の中には夕日鑑賞も含まれているのである。
 今日は生憎の曇天であり、また日没まで時間がある為夕日はちっとも見えやしない。雨は落ち着いたものの、暗い色をした海霧が徐々に濃くなってきていた。

「生徒達が橋を占拠すると、通行人の邪魔になりそうですね」

 歩道を行き交う人々。欄干に腕をもたせかけながら不死川先生が呟く。その視線の先には河口、そして群青色をした海が広がっていた。岸壁には複数の漁船が整然と並んでおり、波打ち際を歩く観光客の姿も目立つ。
 湿気を孕んだ海風は、かなり肌寒い。私は身を縮こませながら事務的に返答する。

「す……少なくともこの場所での鑑賞は中止すべきでしょうか」
「でしょうね。きって他にも良い場所が……っと」
「あっ」

 歩き出すタイミングが合わず、互いの身体がぶつかってしまう。肩に掛けていたバッグが地に落ちたので拾おうとすると、「あ」と声が重なり互いに動きが止まった。
 ふと顔を上げると、重なる視線。バッグへと伸びた互いの手。

「す……、すみません」
「いえ。こちらこそ」

 不死川先生が先にバッグを拾い、手渡してくる。受け取って肩に掛けるのだが、何となく私の口からは言葉が出てこない。
 互いの足元を見つめ合う私達の横をすり抜けていく観光客。喧騒。車の排気ガス。

「あの」

 駐車場へ戻ろうと一歩踏み出したと同時に不死川先生の声が聞こえた。一瞬、脳裏に過ぎる不安。平静を装って振り向くが、目を合わせるのは怖かった。

「な、何か?」
「……いえ」

 つい会話を避けてしまう。不死川先生は一定の距離をおいて私の後に続き、乗り込んだ車中にはまたも気まずい空気が流れる。

 次の行き先は、埠頭近くの炉端焼きの店だ。海産物の直売所に併設された食堂なのだが、ここのスタイルは一風変わっている。直売所で自分の食べたい魚介類を購入すると、店員が各テーブルを回って直接網焼きを世話してくれるのだ。その道の玄人である店員はその食材が最も美味しくなる焼き加減を知っているので、客はただ目の前の網で食材が焼ける様を眺めていればいいというわけである。
 食堂はなかなか混雑していた。各テーブルの煙は個々に排出される仕組みにはなっていたが、店内はうっすらと煙が立ち込め芳しい香りが辺りに充満している。

「お姉さん達、旅行の人かい?」

 達磨入道を思わせる風貌をした筋肉質の店員が、手慣れた様子でホッケの開きをひっくり返しながら話しかけてくる。食堂の中央には熱いお茶の入ったポットが置いてあり、セルフサービス制だ。不死川先生はお茶のお代わりにいっているので、テーブルには私しかいない。

「ええ、そうです。修学旅行の下見で」
「へえ。内地の人かな? 学校の先生かい」

 貝殻のまま網に載せられた帆立が、バターと共に激しく泡を立てている。香りは勿論、その音を聞いただけでも口内に涎が溢れてくるようだ。

「帆立、あと三十秒くらいしたら食べな。醤油をチラッと垂らしても美味しいよ」
「は、はい! ありがとうございます!」
「んで、あのガタイの良いお兄さんは彼氏?」

 ニヤニヤと耳打ちされる言葉に、割ろうとしていた割り箸が歪に割れてしまう。食い気一色だった脳内が真っ白になり、私は動揺を露わに聞き返した。

「え!? ち、違います違います、単なる同僚です!!」
「え〜? でも良い雰囲気だったしょ〜」
「いやいやいや」

 不死川先生とは、ずっと会話が無かった。この店員、ただ黙して食材の焼ける様を見ていた私達のどこを見て良い雰囲気を感じ取ったと言うのだろう。

「お姉さん達さ、さっき店舗の方で食材選んでたべ? おじさんの所からはさ、その様子が見えたのさ」

 店員が入念にホッケをひっくり返しながら、店舗の方を指さす。室内灯が付いているガラス窓の店舗。裸電球で少し薄暗いこちらからは、確かに中の様子がよく見える。

「床が濡れてるってんで、店舗の中は滑りやすいんだよな。お姉さんは結果的に滑らなかったけど、彼氏さんは常にあんたの後ろに付いて、あんたが滑らないように気を配っていたように見えたよ」
「え……」
「手が届きにくそうな食材もさ、彼氏さんがさりげなく取ってあげてたしょ? 単なる同僚にしては、あんたを見る目が優しすぎるんでないかい〜?」

 したり顔で覗き込んでくる店員の追及に、私は動揺を隠せない。

 (……し、知らない)

 確かに、店舗で食材を選ぶ際は何かと一緒に行動していた気はする。会話は必要最低限のみで、後は視線も合わなかった。
 だがひょっとして、視線を逸らしていたのは私だけだったのだろうか。不死川先生はもしかして、この店員が言うように私を気にかけていてくれたのだろうか。

「嘘……」

 私は焦る。私は、ずっと不死川先生は怒っていると思っていたのだ。ぞんざいな態度を取る私との行動を、疎ましく思っているのだと思っていた。自分から非礼を詫びればいいのに、それが出来なくてずっと彼を避けるような態度を取り続けていた。
 けれど、もしそうでなかったのだとしたら。彼には私がどのように映っていたのだろうか。それを思うと、自分が恥ずかしくて情けなくていてもたってもいられない。

「もう焼けたんですね」

 背後から届く声に、ビクッと揺れる肩。戻ってきた不死川先生を笑顔で出迎え、バターの香ばしい匂いを放ちながら泡を立てる帆立を彼の皿に移す店員。

「醤油をチロっと掛けても美味しいよ、お兄さん」
「頂きます。……美味ェ!」

 そっと顔を起こしてみると、ハフハフと息を吐きながら頬を膨らませ、口元を緩ませている不死川先生と目が合う。すぐにでも謝らなければ。そんな考えが頭をよぎるのだが、同じタイミングで店員が喋り出してしまった。

「お兄さん、そういや夕日が見えるスポット探してるんだって?」
「ええ。幣舞橋以外にありますか?」
「あるある〜、あるよ。高台にある住宅街の公園なんだけどね、これが中々の穴場なんだよ。まず国道を東に向かって進んで行くだろ? 次は五叉路を……」
「あ、待って下さい。今メモを……」

 そう言いながら懐を探った不死川先生がハッと息を飲み、視線を泳がせる。何度も何度もポケットを確認し、それからひどく落ち込んだような声でボソリと呟いた。

「……無ェ」



「では、明日は六時半にこのロビー集合という事で」
「はい。お……お疲れ様でした」
「お疲れ様です」

 とっぷりと日の暮れた宵の口。爛々と明かりが灯るホテルのロビーで私達は軽く頭を下げ合って別れる。
 甲高い音を響かせながら地階に戻ってきたエレベーターに吸い込まれていく、ボストンバッグを担ぎ上げた不死川先生の姿。その気配がようやく遠ざかると、私は顔を上げて脱力するのだった。

「……終わった」

 とはいえ、まだまだ下見をせねばならない所は沢山ある。まずは部屋の確認だ。今回は一人用の個室ではあるが、洗面所ゾーンは全部屋統一されていると聞いたので自分の部屋の使用感を確かめれば十分だろう。次に、各階に設置されたトイレ。大浴場なんていうのもちゃんと使用感を確かめておかねばならない。
 とはいえ、隣に彼がいないだけで大分リラックス出来るようにはなった。部屋に到着した私は何をするよりもまず、靴を適当に脱ぎ捨ててキチンと整えられたベッドへダイブする。

「ベッド……柔らかさ、跳ね返り共にオーケー……」

 全身から染み出した疲労感が、真新しいリネンに吸い込まれていくようだ。このまま全てを忘れて眠ってしまいたい。
 そんな事を思いながら意識を闇に放り去ろうとするのだが、上手くはいかなかった。頭の中には、やはり不死川先生の存在が引っかかっている。

──失くした!? って……あの万年筆ですか?

 記憶は、炉端焼きからホテルへと移動する車内へと立ち返る。薄ぼんやりと闇の帳が下り始めた釧路の街中を走るレンタカーの中で、私は不死川先生にそう問いかけた。ハンドルを握る不死川先生は、いつものポーカーフェイスのまま頷いた。

──そんな……どこで落としたんでしょう。最後に使ったのは確か……。
──展望台ですね。あそこの記帳台には備え付けのボールペンがありましたが、俺は自分の万年筆を使いました。ハッキリと覚えています。
──なら、今から引き返せばきっと……!
──いえ、結構です。

 信号が黄色になるのを見越して、ゆったりと減速していく車。インストルメントパネルの光と街灯の光に挟まれた不死川先生の表情は、少し読み取りにくかった。

──どこで落としたかも定かではありませんし、何より時間のロスになります。そろそろ定時も過ぎますし。
──定時だなんて、そんな事関係ないですよ! 大切な物だったんじゃないですか?
──いいんです。

 ゆっくりと、車が前進を開始した。助手席に座ってみて初めて知ったが、不死川先生は運転が常に丁寧だ。乱暴な運転をする車がいても、生まれて初めて走るような道でも、決して心を乱す事が無い。かといって運転のみに全神経を注いでいるわけではなく、こうして普通に会話をする事も出来るのでただただ凄いなと感心する。安心出来る走行だ。
 だが私はどこかうら寂しい気持ちでいっぱいだった。不死川先生ときたら、「筆記用具なんて所詮消耗品ですから」だなんて平然とした顔で言うのだ。

 (不死川先生……絶対嘘だ)

 雑誌に挟まっていた万年筆。手に取ると、かなり使い込まれたような跡があった。『S.Shinazugawa』と筆記体の刻印もされてあったし、あれはおそらく就職記念か何かで購入した物でないのかと推察する。それを肌身離さず今日の今日まで、大切に使ってきたのではなかろうか。
 私はベッドから身体を起こし、窓の外、ネオンの灯りに沈む中心街へと視線を移す。ホテルのすぐ傍には、先程訪れた幣舞橋の石立像が薄暗闇の中でも律律と佇んでいるのが見えた。
 時計を確認し、大浴場の利用時間と現在時刻を照らし合わせ、行動可能な時間を算出する。大浴場の利用は二十一時までなので、遅くともホテルには二十時半に戻れば良い筈だ。一時間半もあれば、あの駐車場から橋までをくまなく捜索する事は可能だろう。

 (不死川先生には迷惑かけっぱなしだし……これぐらい)

 結局、あれから不死川先生に非礼を詫びる事は出来なかった。不死川先生が当たり障りなく接してくれたので、謝らなければと思いつつもその優しさに甘える自分が勝ってしまった結果だった。
 このままなかった事にしてはいけないと強く思う。不死川先生の落とし物を探す事は今回の件には何ら関わりないが、私は少しでも自分に出来そうな事をしたかった。



「ふーっ! 意外と寒い!」

 夜とはいえ、繁華街なので外は意外に明るく感じられた。だが一度細い道へ進路を向ければ暖色の街灯が辺りを照らすのみで、目が慣れても陰になっている部分は中々判別が付かなかった。
 私はまず、不死川先生が車を停めた駐車場へと向かった。有料駐車場なので入るのが少し躊躇われたのだが、悪戯等ではなくれっきとした目的があるので、もし誰かに見咎められても訳を話せば罪には問われないだろう。
 車が停まっていた区画には、幸いな事に車が停まっていなかった。私は屈みながら目を皿のようにして、記憶の片隅にある朧げな形を思い浮かべながらその姿を探す。
 半端な長さの煙草の吸い殻。コンビニサンドイッチのひしゃげた外袋。薄汚れて潰れたペットボトル。

「……無い」

 駐車場には早々に見切りをつけて、今度はかつて通った道を辿って川沿いに幣舞橋の方へと進路を取る。歩道に目を光らせつつ、車道の脇にも頻繁に視線を向ける事も忘れない。
 そうして幣舞橋へ辿り着いた時には、既にホテルを出てから三十分程が経過していた。海霧、それとも極めて細かな雨粒なのか。辺りはガスが立ち込めており、街灯の光も朧げだ。気温は夕方よりもかなり低下していた。カーディガンを羽織っただけでは寒さが防げない。

 (けど、寒いなんて言っている場合じゃない。探せばきっとあるんだから、頑張らなくちゃ)

 そう、私はなんとなくこの橋に彼の万年筆があるような気がしていた。というのも心当たりがあったからだ。
 不死川先生と身体がぶつかって、自分のバッグが落ちた時の事だった。あの時は二人とも落ちたバッグに気を取られていたが、私にはもう一つ何か小さな物が落ちたような音が聞こえていたのだ。一瞬「あれ?」と思いはしたものの、すぐに違和感を放棄してしまった事が悔やまれる。
 もしあの時、ちゃんと辺りを探していれば。こんな事にはならなかったかもしれない。

「……あ!」

 予想通りと言うべきか、それとも奇跡的にと言うべきなのか。不死川先生の万年筆は見つかった。車道のすぐ脇、集水枡の上の落ち葉溜まりに紛れていたのだ。多少汚れてはいたが、パッと見る限りでは特に破損等は無さそうなのでホッとした。

「はぁ、良かった……」
「お姉さん、どうしたの。こんな所で這いつくばって」

 自分を包み込む長く伸びた影。反射的に振り向けば、複数の見知らぬ男性達が自分を見下ろしている事に気付く。背筋を伝う、一筋の嫌な汗。

「具合悪くなっちゃった?」
「観光客の人? どこから来たの」
「齢いくつ? 今ヒマ?」

 矢継ぎ早な質問と共に、男性らは私をさりげなく取り囲む。咄嗟に辺りを見渡すが、悪天候の為か通行人の姿は疎らだ。大声を出せば誰かしらは気付いてくれそうだが、ただ複数の見知らぬ男性から声をかけられているだけというそこまで危機的状況でもないので、判断に迷う。

「釧路、意外と寒いっしょ。風邪引いたら困るから、どこか暖かい所入ろうよ」
「つぶ焼で有名な店が近くにあるんだけどさ、……ヒッ!!」

 ただただ男性らの勢いに翻弄されていると、ふと一人の男性が真っ青になって口を噤んだ。そしてその異変は次々と別の男性に伝染し、遂に彼らは無言のまま後退りを始めてしまう。
 視線を逸らさず、窮地に陥ったような表情のまま後退していく様はまるで、山中でヒグマに出会った登山者を思わせた。一体何が、と私は何気なく振り向いて、卒倒しそうになった。

「うわあっ! なっ、なんで不死川先生がここに……!」
「……チッ」

 私の背後から凄まじい威圧感を放つのは、この上なく機嫌の悪そうに表情を歪めた不死川先生だ。
 ヒクヒクと痙攣している目元。太い腕を組み、周囲を忌々しそうに睨め付けながら仁王立ちするその様はまさしく、地獄の番人である。
 一定の距離をおいた男性らが蜘蛛の子を散らすように逃げていくと、不死川先生はやっと私へ視線を移した。そのありとあらゆる物を射殺してしまうような目付きで見据えられれば、私はたちまち何も言えなくなってしまう。
 ふと思う。見知らぬ男性らに囲まれた時よりも、現在の方が確実にヤバい状況だ。身の危険を感じる。

 (ど、どうしよう。ていうか不死川先生、なんでこんなに怒ってるの!?)

 薄霧の立ち込める、ぼんやりとした光に包まれた夜の釧路の街。橋のたもとで見つめあったまま微動だにしない私達の脇を、ヘッドライトを付けた車がビュンビュンと追い抜いていく。
 停滞したままの状況を動かした切欠は、私の盛大なくしゃみだった。車が通り過ぎる度に起きる風により、身体が冷えきってしまったのだ。

「……戻りましょう」

 声が発される瞬間、どんな言葉をかけられるのか不安で反射的に身体を縮こませたのだが、不死川先生の声は予想に反してひどく落ち着いていた。顔を上げると顔面にバサッと何かが落ちて来たので、私は溺れた人のようにもがく。

「え……!?」

 落ちてきた物が何であるか気付くと、思わずそう声を漏らしていた。自分の物ではない、男性的な匂い。間違いない、これは不死川先生の上着だ。

「ホテルまでそう距離はありませんが、羽織っていて下さい」

 数歩進んで立ち止まる不死川先生が、肩越しに私へ視線を送っている。先生と彼の上着とを何度も見比べてから、私は慌てて上着を羽織った。

「す、すみません! あの」

 呼び掛けに答えず、私に背を向けて歩き出す不死川先生。立ち止まってもらえなかった事に一抹の寂しさを感じつつも、呼び止めたところで私は何を話しかけようとしていたのだろうかと自問する。
 急ぎ足で追いかけ、一定の距離を空けたままその後ろを歩く帰り道。ネオンの目映い光と、ガチャガチャとした喧騒を背負うその広い背中。
 不死川先生はどこで私の姿を見つけたのだろう。女一人で夜道を歩いて危険な目に遭いやがってと呆れられているのだろうか。自分にはブカブカすぎる上着の前を閉めて息を吸い込むと、車内でたまに感じた彼の匂いを強く感じて、胸が疼いたような気持ちになる。
 ぶっきらぼうな優しさ。ほんの少しだけ彼の温もりの残っている上着。こうしているとまるで、背後から腕を回した不死川先生に抱きしめられているような心地だ。

 (な、何を考えているんだ私は)

 とにかく、迷惑をかけてしまった事を謝らねば。そして改めてお礼を言わなければ。出来れば万年筆を見つけた事も知らせたいのだが、果たして今の自分はそこらへんを上手く言えるのだろうか。

 (そもそも不死川先生は探さなくていいって言ってたのに……。余計な事をしちゃったのかも)

 悶々としているうちに、視界の中には元のホテルの姿が見えてきた。沈黙のエレベーターを経た後、私達は同じ方向に向かって歩き始める。部屋が隣同士なのだ。
 絨毯張りの、暖かな空気漂うホテルの明るい廊下。長いようで短い廊下の一番奥まで踏破すると、不死川先生は立ち止まってこちらへ身体を向ける。

「では、また明日」
「あ……」
「お疲れ様でした」

 手は懐中の万年筆に触れていた。あとはこれを謝罪の言葉と共に彼の眼前へ差し出せばいいだけであるというのに、私はどうしても尻込みしてしまう。
 不死川先生の無機質で、感情に乏しい表情。私の苦手な、いつもの不死川先生だ。話しかけたら何と返されるのか想像がつかない。わからない。たったそれだけの事に臆病になってしまって、私の意欲は視線と共に消沈していく。
 不死川先生の姿が、開いたドアの向こうへと消えていく。また中途半端に迷惑をかけたまま、気まずい空気で別れてしまって本当に良いのだろうか。良いわけがない。少し、たった一握りの勇気でいいのだ。
 声よ出ろ。彼の名前を呼んで、謝罪と感謝を伝えねば。
 そう心の中で念じた、丁度その時だった。

「わっ」
「!?」

 突然揺れ始める地面。その場で体勢を崩した私は、壁に手を触れながらしゃがみ込む。揺れは強くはないが妙に長く、且つ船上を思わせるような揺れ方をしていた。やっとその動きが治まった頃、私はようやく気付く。

「大丈夫でしたか」

 部屋に戻りかけていた筈の不死川先生が、私を庇うように背後から身体に触れている。その手の温もりが、彼の上着を通してじんわりと背中に伝わってくる。

「あ、あの」
「釧路は地震が多いそうですからね。おそらく大丈夫かとは思いますが、念の為テレビで情報を──」

 立ち上がろうとした不死川先生が、動きかけてハッと息を飲む。私が彼の裾をギュッと握りしめていたからだ。
 私は手を離さなかった。心を覆う淡い感情が、初めて私の背中を押した。

「し……不死川先生、万年筆。ありました。あったんです」
「……え?」
「幣舞橋のたもとに落ちていたんです。これ……」

 彼に万年筆を差し出す手が震えているのがわかった。やっと勇気は出せたものの、その目を見て話すまでの度胸は無い。手のひらの中から万年筆の重みが消えると、私はその手を胸の前で抱き締めた。

「ごめんなさい。鞄を落としたあの時、私が先生にぶつかってしまったから」
「……」
「変な人達からも助けて頂いて、上着まで貸して頂いて。ご迷惑をかけっぱなしで、私、私は……」

 続く言葉が見つからない。不死川先生は、果たしてどんな顔をして私の話を聞いているのだろう。絨毯のペルシャ模様を眺めながらそんな事を思っていると、ふと背中に再度温もりを感じた。恐る恐る顔を上げて、ハッとする。

「……立てますか」

 その声に、今まで感じていたような無機質さは無かった。差し伸べられた手に手を重ねると、中途半端に開いていた不死川先生の部屋へと誘われる。

「どうやら津波の心配は無いようですね」

 不死川先生の部屋に入った途端、香ばしい匂いが辺りに立ち込めている事に気付いた。ぼんやりとした間接照明、備え付けの電話や給湯ポットが並べられたデスクの上には、白いレジ袋が置いてある。
 地震情報を報せる音声が室内に響き渡る中、不死川先生は暫くテレビ画面に見入っていた。部屋が暖かいせいなのか、私はどこかボンヤリとしながら不死川先生の横顔を眺めている。

「ありがとうございました」

 ふと気付くと、不死川先生が微妙に私の方へ顔を向けている。気付くのに暫くかかってしまったのは、冷えた体が部屋の空気で暖まり、頭がボーッとしてしまったせいだろうか。

「えっ? あ、いえ」
「……実を言うと、それ。割と大切にしていたので」

 不死川先生がずっと握りしめていたらしい万年筆をデスクの上に置く音が響き渡る。暖色系の光を浴びたその横顔は、どことなく優しげだ。

「母親からの就職祝いだったんです」
「!? そ、それはすごく大切なやつじゃないですか!」
「あの時は消耗品だなんて言いましたが、探し出して下さって本当に助かりました。その礼と言っては……アレかもしれせんが。ザンギ、ってご存知ですか」

 まっすぐ画面を見つめていた筈の不死川先生の目がチラッとこちらを向き、すぐに逸らされる。

「えっ」
「そこに買ってあるんですが、召し上がりませんか」

 不死川先生はレジ袋をわし掴み、私の眼前にずいっと突き出してくる。より濃い匂いが鼻先に広がり食欲がそそられるが、私はたじろいだ。

「え……? え、でもそれはご自身で食べる為に買ってきたものでは」
「万年筆のお礼です」
「そっ、そんな! お礼なんて結構です!」
「暗くて寒い中探して頂きましたし」
「不死川先生! 私、そういうつもりでは」

 この押し問答は暫く続いた。どちらも一切退こうとしなかったのだ。
 ハッキリ言って私は、疲れていた。初めて訪れる地で、関わった事のなかった異性との二人行動。身体的にも精神的にも疲弊しきっており、あまり物事を深く考えずに発言していた。とにかく早くこの問答から逃れて、寝たかった。

「なら、こうしましょう! 一緒に食べましょう、二人で」
「……!」
「お相伴に預かるという形なら、私も頂きます。どうですか?」

 何しろ不死川先生は頭が固かった。この提案で、彼は初めて私の意見に応じる姿勢を見せたのだ。良かったと思って袋に手をかけようとするのだが、ふと不死川先生が私を呼び止めた。

「みょうじ先生、今からですか?」
「え? ええ。そのつもりですけど」
「……大浴場の時間は二十一時までですよね」
「えっ」

 反射的に壁時計を見て、ギョッとする。あれ程気にかけていた筈の大浴場の開放時間は、残り二十分だ。遅くとも三十分前には入りに行こうと思っていたというのに。

「わっ! どうしよう、急がなきゃ!」
「行ってきて下さい。風呂が終わったらお手数ですがまたここに来て頂けますか」
「えっ!? あっ、わかりました!」

 気もそぞろに返事をし、急いで部屋に戻って廊下を早足で移動する。ようやく落ち着いて思考し始めたのは、大浴場の広い浴槽に一人ポツンと身を沈めた頃だ。

「えーっと、この後に不死川先生の部屋へ行けばいいのか……って、んん?」

 一瞬、ギクリとした。約束を交わしたはいいが、これから自分が身を投じようとしている状況の危うさに気付いたのである。
 夜九時以降という、夜更け。恋人でもない異性の部屋で、彼と二人きりで過ごす。これは果たして、ただの同僚がして良い行動なのだろうか?

「待って……顔。服もどうしよう」

 通常であれば、入浴後なので浴衣とスッピンで過ごすつもりだった。まさかそのような失礼な格好で彼の元へお邪魔するわけにはいくまい。かと言って昼間のように化粧も服装も決め込んで行くのは、何だか気張りすぎているような気がする。
 私は飴色の湯がタプタプと波打つ浴槽の中央で頭を抱えた。悶々としたままとりあえず浴衣に着替えて浴場を出ると、図らずもその答えが出る事となる。

「あ」
「!!」

 不死川先生と私が、隣り合った男湯と女湯の暖簾を潜るのはほぼ同時だった。顔を合わせた瞬間、私は一瞬その姿に目を奪われてしまう。

「どうも。偶然ですね」

 サイズの大きな浴衣を緩く身に纏い、首から下げたバスタオルで顔面の汗を拭う不死川先生。いつも露出している筋肉の盛り上がった胸元はその頬同様うっすらと火照り、隣にいるだけでほのかな石鹸の匂いが香ってくる。風呂上がりのせいか、表情は昼間より柔らかだ。
 不死川先生はまだ雫の滴っている髪を豪快に掻き上げながら、前方を指差した。

「部屋、戻りますよね」
「へっ!? あ、はっ、はい」
「じゃあ行きますか」

 なんとなく、このまま一緒に行動する流れになってしまう。エレベーターホールには自販機が設置されていた。「ビール呑めます?」と訊かれ、反射的に頷く。「しまった、お金」と思い至った時にはもうガコンという音が響いていた。今更小銭を出そうが、彼はおそらく受け取らないだろう。

「釧路はザンギ発祥の地らしいですが、どうやらタレをつけて食べるのが主流のようで」
「タレ……」
「店で試食した時は結構塩辛かったので、何かしら飲み物はあった方が良さそうです」

 ポーン、と少し外れたような音を鳴らしながらエレベーターの扉が開く。不死川先生の歩みは心なしか早いので小走り気味で後を追うが、ふと彼は廊下の途中で立ち止まってしまった。
 それに合わせて器用に立ち止まるという芸当が出来る筈もなく、私はその弾力のある背中へ顔面ごと激突してしまう。

「すみません。みょうじ先生、大丈夫ですか」
「は、はあ。どうしました?」
「いや……。無理矢理連れてきてしまってすみません。他に色々ご予定がお有りでしたよね」

 鼻の辺りを摩っていた私は、ハッとして顔を上げる。前に周りながら彼の顔を覗き込むと、目が合った不死川先生はどこか気まずそうに視線を逸らしてしまう。

「明日も結構歩く予定ですし、食べるならなるべく時間が遅くならない方がいいかと思ったのですが。今思うと少々強引過ぎました。ロビーで土産物を見たり、部屋に戻って色々する事があったのではないですか?」
「……」
「どうしますか。少し時間を置いてから再集合しますか。それとも半分に分けて、各自別々に食べた方が……」
「いえ、大丈夫ですよ」

 そう告げた私の口元には、自然と笑みが浮かんでいたのだろう。不死川先生は少し面食らったように瞬きをしながら、珍しくじっと私を見下ろしている。

「お気遣いありがとうございます。でも、このまま一緒に頂きませんか? 折角のご馳走ですし、一人で食べるのは寂しいじゃないですか」
「……ご馳走って程でもありませんが」
「ご馳走ですよ。不死川先生が買ってきて下さったんですもん」

 今日一日一緒に居て、私は今まで知る機会のなかった彼の人となりを知った。決して悪い人ではないという事はわかっていた。それでもいまいちとっつきにくく思っていたのは、その見た目や雰囲気で彼の人柄を誤解していたせいだ。
 不死川先生はその冷静且つ厳つい見た目からは想像し難いが、極めて常識的な人だ。考えるよりも先に身体が動いてしまうタイプの、決して器用と言えるような人ではない。けれど真摯な優しさを心に秘めた、穏やかな人だ。
 私は今に至るまでずっと、彼に対して変な緊張感を抱いていた。けれどその珍しく慌てる様を見て、無駄な緊張感が完全に消え去った。彼とこのまま距離を置いてしまうのは、勿体ないとさえ思ったのだ。



「今日一日、楽しかったですねえ」

 私の間延びした声が、暖色系の照明で照らし出された不死川先生の部屋に響く。窓際に設けられた、飲食用スペースのこじんまりとした座敷。
 私と直角の位置で胡座をかき、缶ビールに口を付ける不死川先生の背後には、闇に沈んだ岸壁の光景が広がっていた。色とりどりの街灯の光を反射した水面が、穏やかな波にユラユラと揺れているようだ。行儀良く岸壁に沿って並べられている漁船はまるでミニチュア模型のようで、見ていてなかなか面白い。

「美味しい物も多いですし、景色も綺麗ですし。なんというか、空気の質が違うというか」
「気に入りました?」
「ええ! それはもう!」

 大きく頷いて、残り数個となったザンギを頬張るとふと横合いから視線を感じた。

「不死川先生?」

 首を傾げてそう問うと、不死川先生が緩く笑みを溢す。呑み始めてからずっと、不死川先生の表情は柔らかい。積極的に喋りはしないが、温もりのこもった視線で常に私を眺めている。
 少々照れ臭いが、彼も私に心を開いてくれているような気がして、嬉しかった。だが私はあえてその感情を表に出さずに振る舞う。

「何です? 何かあります?」
「いや……随分美味そうに食ってるなと思って」
「だって、美味しいですもん。それにしてもザンギ、唐揚げとの違いは何なんですかね」
「さあ。強いて言えば、ここの唐揚げは下味が塩ベースって所でしょうかね」

 そう言いながら一口でザンギを頬張る不死川先生を、私はじーっと見つめる。電子レンジで温めたザンギのおいしさはそりゃあ揚げたてには劣るのだろうが、それでも美味しい事には変わりなかった。カリッと揚がった衣に、脂を纏ったモモ肉の塩み、柔らかさ。
 モグモグと噛みしめながら微かに頷くのは、不死川先生の癖なのだろうか。頬を膨らませながら味や食感を楽しむ彼の様子を眺めていると、私も自然と幸せな気持ちで満たされた。
 すると、視線に気付いた不死川先生がうっすらと顔を赤くしながら気色ばんだ。

「……何ですか」
「不死川先生だって、十分美味しそうに食べてますよ」
「あまり見ないでくれませんか」
「え〜? どうしてですか」
「……みょうじ先生、ひょっとして酔ってます?」

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