願わくば奇跡のさなかで





死に際に、思ったことがある。

――どれくらいの確率だろうか。
時を超えて、生まれ変わって、また君と巡り会える。そんな奇跡が果たして起こり得るのだろうか。
もしも奇跡が起きて、君と再び出会えたのなら。その時はゆるやかな日常の中で、君とたわいもない話を交わしながらただ笑い合う。そんな毎日を過ごすことができれば、それだけで良い。

人が啜り泣くような声に、はっと顔を上げる。ついぼんやりしてしまったと慌てて辺りを見渡せば、そこは見慣れた生家の一室だった。
開かれた襖の間からは、父と、千寿郎と共に幾度となく鍛錬を重ねた庭が見える。空は青く、ほとんど雲が流れていないような晴天だった。
庭先から吹き込んでくる静かな風に乗せられて、幼い頃から嗅ぎ慣れた畳の匂いが鼻をかすめる。その景色に、匂いに、ここが間違いなく自身の生まれた家であることを認識する。
しかし、同時に疑問を抱いた。自分は何故この家にいるのだろう。休暇を貰って里帰りしていたのだったか、それとも任務の帰りに立ち寄ったのだったか。
畳に座する自身の衣服に目をやると、鬼殺隊の隊服を身に纏っていることに気が付く。ところが手元に視線を落としても、そこに日輪刀は見当たらなかった。炎柱の証を羽織り、隊服を着込んでいながら、肌身離さず持ち歩いているはずの刀が無いのは何故か。
記憶の一部がすっぽりと抜け落ちてしまっているかのような違和感を覚え、宙を見つめて考える。切り離されたその一部をどうにか手繰り寄せようと、俺は静かに瞼を閉じた。

すると、すん、と鼻をすする音が耳に届いた。

「杏寿郎様……、っ、杏寿郎様」

続けざまに名を呼ばれ、声の主のほうへと振り返ると、そこには愛しい妻の姿があった。
しかし、普段はころりころりと楽しげに変化を見せてくれるその表情が、今日に限っては陰りを帯びていて、ひどく憔悴しているようにすら見える。さらに、遠目から見てもわかるほどに、涙で頬を濡らしていた。
思わぬ妻の様子に、俺は目を見開く。
――どうして泣いているんだ。
“杏寿郎様”と俺の名を口にする度に段々と嗚咽が入り混じってゆく彼女の声を聞いて、胸が捻り潰されるようだった。
なまえ、とその名を呼び掛けようと口を開いても、何故か言葉を発せられないことに気が付く。自身の喉元に手を添えて、試しにすう、と息を吸い込んでみたが、何かがいつもと違う気がする。

「置いていかないで、くださいませ……」

その言葉に、ずきりと心が痛む。
どういうことだ。
ゆっくりと立ち上がり、なまえのもとへ歩み寄る。しかし、手を伸ばせばすぐに触れられるほどの距離まで近付いても、なまえの目がこちらに向けられることはなかった。
彼女は正面だけを見据え、両の目からぼろぼろと大粒の涙を溢れさせている。頬を伝い、拭われることなく滴り落ちる水滴によって、なまえの着物の膝元はみるみるうちに濃色に染まっていく。
何一つ疑問が氷解されぬまま、なまえが見据えた先を追うように、俺も同じ方向へと視線を移す。そうしてようやく俺の目に映ったものは、なまえのすぐ側でゆったりと立ち昇る香煙と、精巧な彫刻が施された、重厚感を感じさせる大きな仏壇だった。

また、誰かが弔われたのだろうか。
――違う。
そうだ俺は、上弦の鬼と……。

雪崩れるように線路から脱線した列車と、夜明けを告げる陽光。そして、折れて地に落ちた己の日輪刀。
次々と脳裏に浮かぶその光景は、まだ記憶に新しい。

仏壇の前の経机に目を落とすと、仏具の傍らに白布が敷かれ、炎を模した日輪刀の鍔が置かれている。刃が取り払われたそれは血と土埃で汚れていたはずなのに、綺麗に拭き取られている。
その場景を目の当たりにして、やっとのことで俺の記憶は繋がった。

そうだ。上弦の参、猗窩座との戦闘の末に、俺は死んだのだ。

「会いたい、……、……うぅっ……」

ああ、なまえ、泣かないでくれ。
喉を捻り上げたところで、相変わらず声が出ることはない。ならばせめてその体に触れたいと、涙に濡れた頬に向けて手を伸ばしても、その手はするりとなまえの体をすり抜けて空を切るだけだった。
悲しむ君に、何もしてやることができない。その体を抱き締めて、温もりを感じることもできない。もう、視線を交わして笑い合うことすら叶わない。
すぐそこに、君がいるのに。

しゃくり上げるなまえのすぐ隣で、俺は目線の高さを合わせるように腰を下ろした。
高さを揃えたところで、今この状況で互いに目を向ける先は一方通行であることなどわかり切っている。それでも俺は彼女が見つめ返してくれることに期待して、その横顔から視線を逸らせずにいた。

「うっ、……うぅ、っ……」

魅入ったようになまえの姿を見つめていると、彼女は徐に傍らから何かを取り出し、経机の上に置いた。
真っ白な皿の上に2つ並んで置かれたそれを目にして、俺は目を見開く。さつまいもと炊き込んだ米で作られた握り飯だった。
さつまいもが好物である俺の為に、そして持ち運びがしやすいからと、任務に赴く際になまえがよく作って持たせてくれた。

供物か、と俺はすぐさま理解した。理解はしたものの、ふわりと香る出汁の匂いに、無意識のうちに滲み出てくる唾液を止めることができない。手を伸ばしてみたところで、先程と同じように指先から対象をすり抜けてしまい、掴み取ることは叶わなかった。
俺は、なまえが作ってくれるこの握り飯がとても好きだった。
優しい出汁の香りと、存在感のあるさつまいもの食感、そして塩気の中にほんのりと感じる甘み。忘れられない味だ。
こんなに憔悴していては、体を起き上がらせることすら辛いだろうに。そんな最中でも、なまえは俺を思いながらこれを握ってくれたのだろうか。その姿を想像するだけで、愛しい思いが込み上げてくる。

「なまえ、ありがとう」

すんすんと小さく鼻を啜りながら仏壇に向かって手を合わせるなまえに、もう届くことのないお礼の言葉を投げかけ、同時に詫びいる。
一人にしてしまってすまないと、そう思った。この気持ちを抱いたまま、また君に会えたら良いのにとも思った。死して尚、神に縋りつくような真似をするつもりはないが、願わくは来世もまた君と共に人として生を受け、巡り会いたい。
絵空事のような思いを胸に浮かべたまま、俺は静かに目を閉じる。さわさわと庭の木々を揺らす風に乗せられて、少し寂しげな秋の匂いが鼻腔に届いた。

◇ ◇ ◇


カーテンの隙間から朝日が差し込み、瞼を貫くような眩しさに思わず眉を寄せる。
薄っすらと目を開けて現在の時刻を確認すると、まだ時計のアラームが鳴るより少し前の時刻だった。
目覚めたばかりの重い体を起こし、ベッドから脚を下ろして淵に腰掛ける。ふと壁にかかったカレンダーに目をやれば、『令和』の年号が印字されていた。その文字を見つめて、ぽつりと呟く。

「……また、昔の夢を見ていたようだ」

あの夢を見るのは、もう何度目のことだろう。
夢の中の出来事だとはいえ、泣き腫らしたなまえの顔を傍観するしかない状況というのはつらいものがある。
しかし、夢を見る度に曖昧だった過去の記憶は確信へと変わり、比例するように今この時代を生きられることへの喜びは深まってゆく。

少し開いた寝室の扉の隙間から、朝餉の香りが漂ってくる。ベッドから腰を上げ、良い香りに誘われるようにリビングへ続く扉を開けると、キッチンのカウンター越しに彼女と目が合った。

「おはよう、杏寿郎さん。今日は早起きね」
「おはよう! そうなんだ、アラームより先に目が覚めてしまった。久々の出張だからか、少し気が張っているのかもしれない」
「あら、そうなの? じゃあせっかく早く起きたんだし、朝ご飯先に食べちゃう?」
「ああ、いただこう!」

その言葉を合図に彼女は炊飯器から白米をよそって、焼き魚やら味噌汁やらと共にカウンターの上に並べてくれる。
俺はそれらを手に取って、ダイニングテーブルまで運んでゆく。

「むう! 今日の味噌汁の具はさつまいもか!」
「ええ。あなたが好きだから」

おかわりあるからね、と続けて、彼女は微笑んだ。温もりを与えてくれるようなその微笑みは、紛うことなきなまえの表情そのものだった。

社会人となって数年。前世の記憶なんかとはまるで無縁なまま生きてきた俺が、唐突に“彼女の存在”に気付くことができたきっかけは、とても些細なものである。それは、行きつけの弁当屋の季節限定メニュー『さつまいもご飯のおにぎり』だった。
秋晴れの清々しい日に、さんさんと輝く太陽の下で頬張ったおにぎりのその味に、俺は落雷のような衝撃を受けた。実家の食卓に出てきたことなんてないはずなのに、その味も、匂いも、食感すらも俺は知っていたからだ。
仕事の休憩時間であることも忘れて弁当屋に駆け戻った俺は、受付に立つ店主に何度も頭を下げ、これを作った人に会わせてほしいと懇願した。当然のことながら、脈絡もなくそのようなことを願い出る俺を怪しく思った店主は「従業員にもプライバシーがあるから」と首を横に振り、断固拒否の姿勢を見せた。
しかしあまりにもしつこく頭を下げる俺に困り果てたのか、店主は眉を下げながら店の奥に入ってゆくと、まだ歳の若そうな女性を引き連れて戻って来てくれた。
困惑に顔を顰める彼女を一目見たその瞬間、俺は、忘れていたものを全て取り戻すことができたのだ。

姿形も、声も、何もかもがあの時代と変わりない彼女の名を呼んだ時、彼女はとても驚いた表情をしていた。ところが不思議と嫌がったり気味悪がったりするような素振りは一切なく、割とすんなり俺のことを受け入れてくれたのを覚えている。
後に本人から聞いた話によると、「顔と声がタイプだったし、どこかで会ったことがあるのかと思った」らしい。
紆余曲折の末、彼女の――なまえの心を再び射止めることができた俺は、今度こそ彼女を幸せにすると誓い、勢いのまま婚姻を結ぶまでに至ったのである。

「またおにぎりいっぱい作ったから、新幹線で食べてね」

食後の片付けを済ませ、仕事着であるスーツに着替えてリビングへ戻る。なまえに声を掛けられてキッチンカウンターに目を移すと、丁度そこにラップで包まれたおにぎりがぽん、ぽん、と並べられているところだった。
通販で頻繁に購入する博多の辛子明太子や、北海道産昆布ときくらげの佃煮などは、我が家のおにぎりの具材として定番になりつつあるが、今日は青菜とじゃこの混ぜご飯や、鮭と金ごまの混ぜご飯で作った色とりどりのおにぎりまで用意されている。
煮卵を丸々米で包んでいる様子には驚いたが、「味染みてるよ」と楽しそうな笑顔を向けられてしまえば、俺は煮卵入りのそのおにぎりを早く食べてみたくてしょうがなくなった。

「さつまいもご飯のおにぎりもあるの」

じゃん!と差し伸べられた手のひらには、きらきらと輝く黄金色が散りばめられたようなおにぎりが乗っかっている。
大きさも形も、さつまいもの切り方も、匂いも、味も、昔作ってくれたそれと何一つ変わらないおにぎり。前世の俺の記憶を、現代の記憶と繋いでくれたもの。
今のなまえに、前世の記憶はない。共に過ごすようになって数年経つが、思い出すような素振りも見られない。それでも彼女が作るこのおにぎりだけは何も変わっておらず、俺と彼女を再び巡り会わせてくれた。

刀を持つ機会などほとんどない時代で、命を懸けた争いもなく、なまえと二人で穏やかな日々を過ごすことができる。俺はもうそれだけで充分だと思っている。前世の記憶を取り戻し、時を越えた再会に涙するような映画めかしな展開なんてなくたって良い。
時代を越えて、2度も君と結ばれることができた。それはまさしく奇跡だ。俺にとっての奇跡の先で、何も知らない君が幸せでいてくれるのなら、俺はそれ以上のことを望んだりはしない。

「うまそうだな!」
「杏寿郎さんはいつも喜んで食べてくれるから、私も作り甲斐があるよ」
「嬉しいに決まっているだろう! しかし、出張の度にこんなに沢山作ってもらうのは申し訳ないとも思っている。手間がかかるのではないか?」
「いいの、いろんなおにぎり作るのって楽しいし」

さつまいものおにぎりをラップで包みながら、なまえは続ける。

「それにおにぎりってね、すごく一般的な食べ物だけど、実は厄除けの効果があるんだって」
「? 厄除け?」
「ふふ、そう」
「それは初耳だな! どのような由来なのだろうか」
「うーんとね……“鬼を斬る”って書いて、“おにぎり”。それが語源で、鬼や悪いものを払ってくれる力があるって、そんな説があるみたい」
「!!」

“鬼を斬る”。
その言葉によって反射的に思い起こされたものは、『悪鬼滅殺』と彫り込まれた刀と、燃え盛る炎の色。前世の記憶が曖昧だった頃から、ずっと脳裏に焼き付いて離れることのなかった光景。
なまえの口から『鬼殺』を連想させる言葉が出てくるなんて思ってもみなかった俺は、返す言葉が浮かばなかった。相槌でも打てば良かったものの、下手な返しをすることによってなまえに違和感を与えてしまうことを避けたかった俺は、咄嗟に視線を床へと落としてしまう。
しかし、その懸念はいとも簡単に払拭された。目を逸らしてしまったことを自覚し、慌てて視線を上げた俺に向けられていたなまえの表情が、朗らかな笑顔だったからだ。

「だから杏寿郎さんが出張の時は、たっくさんおにぎりを作りたいの。お米には神様が宿るとも言うし、手軽に食べられるし……とっても頼りになる旅のお供だと思わない?」

大正の時代に見聞きしたそれと全く同じ声色で、同じ笑顔で、手を伸ばせばすぐに触れ合える距離で、俺のことを見上げるなまえ。
その姿がたまらなく愛おしくなり、半ば強引にその体を抱き寄せる。しっかりとそこにある温もりを噛み締めるように腕に力を込めると、なまえは少し苦しそうに身を捩らせた。

「き、杏寿郎さん、どうしたの急に」
「もう、悪い鬼はいない。安心してくれ」
「? もう? って……?」
「いや、何でもない。……そろそろ出発するとしよう」

名残惜しさを残したまま、抱き締めたなまえの体をそっと開放してやる。間を置かずに彼女の両肩に手を添えて、前髪の隙間から覗く額に口付けた。
照れくさそうにはにかむなまえのことをもう一度だけ抱き締めて、すぐに体を離す。俺はそのまま振り返り、自室の入口に用意していたキャリーケースに手をかけると、玄関へと歩を進める。

パタパタと俺の後を追って、玄関まで見送りに来てくれるなまえ。
玄関に用意されていたお気に入りの靴を履き、彼女が立つ方向へ向き直る。土産は何がいい?と訊ねると、なまえはふるふると首を横に振った。

「しばらく寂しくなっちゃうし……お土産はいいから、帰って来たらデートに連れて行ってほしいな〜」
「勿論だ! もう君を悲しませたりはしない!」
「ふふ、今日の杏寿郎さんはよくわからないことばかり言うのね」
「ああ、申し訳ない。では行ってくる!」
「気を付けていってらっしゃい」

「いってらっしゃい」と微笑むなまえの頭を撫でて、俺は玄関の扉を押し開いた。
外に出ると、少し冷えた空気に身体を包み込まれる。穏やかな風に頬を撫でられ空を見上げると、雲一つない青空からは、ほのかに秋の匂いが降ってきているようだった。
俺を見送るなまえの視線を背中に感じながら、一歩を踏み出す。

「無事に帰って来てね。杏寿郎様」

扉が閉まる直前になまえが何か言ったような気がして、玄関を振り返る。
しかし追いかけてくる気配は感じられなかったので、気のせいか?と俺は再び正面へと向き直った。
まだ家を出たばかりだというのに、既に帰る日が待ち遠しくなっている自分が何だか可笑しくて、ひとり笑みをこぼしてしまう。心の中は、まるで今日の空のように晴れ渡っていた。

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