青い絵の具を使った筆を洗った後のバケツの中の水みたいに、きれいな青空だった。息を潜めて、気配を殺して、虫取り網を握りしめる手に力が入る。一歩一歩と抜き足、差し足、忍び足で近づいて一気に網を木に押し付ける。捕まえた。ジジーと抵抗するセミをそっと掴んで透明なカゴに移す。セミは最初暴れていたけど、そのうち大人しくなった。 「廉造!柔兄おる?」 「まだ帰って来ぃひんよ、ってお…お前それ」 「さっき捕まえたセミやで」 「ちょお、見せんでええから!」 廉造は男の子のくせに、虫が苦手だ。私も別にわざわざ廉造に意地悪しに来たわけじゃない。私はこのセミを廉造のお兄ちゃんの柔兄に見せに来たのだ。なのに柔兄いないなんてとっても寂しい。 「柔兄いつ帰ってくるん?」 「知らん、ちゅーか早よそれどっかやってや…」 「嫌や、柔兄に見せに来たんやもん」 「なんやお前ら、俺の話しとるん?」 「柔兄!」 にやりと笑った柔兄に私は顔を輝かせて飛びつく。中学生で大きい柔兄は私のためにしゃがみ込んで、頭をよしよしと撫でてくれる。 「柔兄、私セミ捕まえてん!」 「なんや、偉い大きいの捕まえよったな」 「せや!これ柔兄にあげよ思て」 「そら、嬉しいなあ、おおきに。せやけど」 「なん?」 「セミはな、土の中に長いことおらなあかんのに、大人になって地上で生きられるんはたった二週間だけやねん」 「ほんま?」 「せやで、だから気持ちは嬉しいけどこれは離してやろや」 柔兄に手を引かれて、太陽の沈みかけたオレンジの道を歩いた。木にそっと掴まらせてあげるとセミは音を響かせてあっという間に飛び去っていく。柔兄をふと見上げると、悲しむようでもなくただ静かに「これが儚いてことなんやなあ」って呟いたのを私は今でも忘れられない。 春になってランドセルが届いた。真っ赤なやつ。来月から、私も廉造も小学生になる。背負って鏡の前でモデルみたいにクルリと回る。お母さんが「大きゅうなったねえ」って嬉しそうに笑った。 「柔兄に見せてくる!」 玄関を飛び出して、走る。私の大好きな柔兄にランドセル姿を見せたかった。褒めてもらいたかった。家に着くと、柔兄は車に大きい荷物を積んでいるところだった。私の足がぴたりと止まる。どこかへ出かけるのだろうか? 「柔兄…?どっか行くん?」 「おん、東京に荷物置いてくるんや」 「東京?すぐ帰って来るんやろ?」 「夏休みとかにしか帰って来れへんよ、祓魔師なるために向こうの高校に通うことにしたさかい」 「そんな…」 「ランドセルよぉ似合っとるな。向こう行く前に見れて良かったわ」 柔兄のおっきな手が私の頭をポンポンと撫でた。なのに私はちっとも嬉しくなくて、ただ悲しい気持ちと怒りの気持ちしかなかった。柔兄の手を弱々しく振り切って、私は全力疾走する。息が切れる。夏にセミを離した木の前にたどり着いて座り込んだ。セミはもういない。「これが儚いてことなんやなあ」という柔兄の言葉が私の頭の中でメリーゴーランドのようにぐるぐる回っていた。 ・ ・ ・ ミンミン鳴くセミの声で目が覚めた。眠い目をこすりながら体を起こすと制服を着たままだったことに気づいた。学校から帰って来てそのまま眠ってしまったようだ。トントンと足が廊下を移動する音がして顔を向けると柔兄がいた。 「柔兄…なんでおるん?」 「お前のお父に用事や」 「ふーん」 「興味無さそうやな」 「だってどうせ大人の話やろ」 「ひねくれとるな」 「べっつに」 「なあ、今外出れるか?」 柔兄が来い来いと手招きするので私は渋々立ち上がる。結局私は柔兄に弱いのだ。外にでると、九年前、あの日と同じように空がオレンジに染まっていた。後ろから追いかけるように私と柔兄の二人分の影を作る。長い長い柔兄の影。隣を見ると柔兄はとっても背が高かったけれど私だってもう子供じゃない。ずいぶん背が伸びたの気づいてるかな? 「この木覚えとる?」 「九年前セミ離したよね」 「そや、そん時俺、」 「儚い言うたよね」 「おん、俺あの日東京行くこと決めたんやで」 「え?」 反射的に目を向けた。あの日と変わらない、おっきな手が私の頭を優しく撫でた。柔兄はズルい。どんどん先に行ってしまうのに、芯の部分は全然変わりやしない。それが愛しくて、でもやっぱり寂しい。柔兄は柔兄で私よりずっと大人だ。 「守りたいもんぎょうさんあるんや」 「柔兄私決めたで」 「おん?」 「祓魔師なるんや」 「さよか…」 その存在は大きくて、肩を並べることが叶う日は遠いかもしれない。けれど、せめて、追いかけさせて下さい。いつか私が大人になる日まで見守っていて欲しいなあ。そう思って柔兄を見上げると優しく微笑んだ。私はあったかい気持ちになる。振り返れば二人の影が揺れていた、十五の夏。 のびた影があなたに追いつけばいい 110819/音価さまへ提出 |