明日一緒に帰れるの?そうメールしたのは今から14時間前のことで4限も終わりに近づいたというのに彼氏からの返信は来ない。


「ボーっとしてるみたいだけど大丈夫?」
「あ、ごめんね」
「気にしなくていいよ」


微笑んで私にプリントを渡した後、前に向き直った幸村くんの背中をみつめてみる。優しい幸村くん。常勝と呼ばれるとんでもなく強い立海テニス部を率いる幸村くんは更にとんでもなく強い。強い幸村くん。幸村くんを知らない人がいたら逆に知らずに今までどうやって立海で生活してきたのか教えてほしいくらい。幸村精市という人はそれほど有名な人なのだ。でも幸村くんについて知っているのはそういう表面上のことだけだった。私は彼の後ろ姿しか知らない。しわひとつないブレザーを纏う幸村くんは今、どんな表情をしているのだろうか?


「名字さん」
「…ん…うーん?」


優しく私を呼ぶ声に目を開けると綿飴みたいにふんわりした柔らかな笑みを貼り付けた幸村くんが立っていた。目をごしごしこするとぼやけた焦点が合わさる。


「あれ、私…?」
「ずっと寝てたんじゃないかな?部活も終わってもうすぐ完全下校時刻だよ」


窓に広がる外の景色はもうすっかり暗くて、私はずいぶん長いこと寝てしまったようだ。いつも遅くまでやっていると噂の野球部までもが練習後のグラウンド整備をしているところだったので慌ててがちゃがちゃとノートや筆箱を鞄に突っ込んだ。鞄の中で光る携帯をチェックすると「授業サボるから一緒に帰れない」というメールが彼氏から来ていて私は呆れてしまった。どうせ女と遊んでいるのだと私は知っている。私が知っているのを彼氏は知らないけど。


「ねえ名字さんは1人で帰るの?」
「え、うんそうだよ」
「良かったら一緒に帰らない?オレも1人なんだ」


脳裏に彼氏の顔がちらついた。罪悪感とかは生まれなくてむしろ、お腹の底からぐつぐつとイライラが上ってきた。向こうがその気なら私だってクラスの男子と帰るくらい別にいいと思う。ブレザーみたいな色した空の中で駅への帰り道を並んで歩く。私が笑いかければ幸村くんはちゃんと笑顔を返してくれるから嬉しい。幸村くんは本当に優しい。


「幸村くんは優しいね」
「ほんとうに?」
「うんすっごく優しいよ」
「そりゃ君には努めて優しくしてるからね」
「え…そうなの?」
「うん。どういう意味だと思う?」


どういう意味もなにも単純に幸村くんが良い人で分け隔てなく誰にでも優しい人だから。そう告げると彼は、ふふと短く笑って足を止める。私もズルズルと引きずっていたローファーをぴたりと止めた。


「ねえ、オレ君にしか優しくしてないんだ」
「そんなこと…ないよ。だって幸村くんはみんなに優しいし…」
「本当にただの良心で優しいと思ってたんだ」


私の前に回り込んでトーンを下げる。優しい声が暗い空気を伴って幸村くんの声じゃないみたい。ごくり、と唾を飲み込む音が鼓膜に響く。吐き捨てられたばかりのガムを踏んづけたように足が動かない。一歩、一歩私に近づく。


「悲しいな、オレがあんなにわかりやすくアピールしてたのも気づかなかったんだ」
「そんなだって幸村くん」
「ねえ、オレたちつき合おうか」
「でも私…彼氏が」
「うん、知ってるよ。だから別れればいい」


幸村くんは薄く笑いながら、ゆっくり私に顔を近づける。ローファーにはまだガムがついてるように動けない。ありったけの力を込めてドンと突きとばすことは簡単なはずなのに出来ない。


「キスするかと思った?」
「な、なんてこと言うの幸村くん」
「照れた顔も可愛いね、でも続きは名字さんがオレのこと好きって言ってくれる時までしない」
「そんな時は来ない…よ」
「いや、そんなに遠くないよ」


あと数ミリの所で動きを止めた幸村くんは確信めいた口調で言う。バクバクと私の心臓が左胸で主張している。体が熱に包まれたようにアツイ。幸村くんは鋭い目をすると耳元で低くこう囁いた。


「だってもう遅いだろう?」



誘惑/100503
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