「なんでこれ紫にならへんのやろ」 「ちゃんと試薬入れたん?」 「あ、忘れとった」 ほんまドジやなあ、と笑いながら白石は包帯に巻かれた手首を器用に回して試験管を振る。彼の持つ試験管の中で溶液が楕円を描いてパッと色を変えた。教科書に載っていた写真と同じように鮮やかな紫色をしている。成功やな、と白石がカランとスタンドに試験管を置いたところでチャイムが鳴り響いて終業を告げた。バタバタと上履きの音を響かせながら帰っていく生徒の背中を「レポートは次の授業までやからな〜」とのんびりした先生の声が追いかけた。 「先生ああ言っとったけど次の授業って明日やん」 「気にしたらアカンて」 6時間目の化学の授業から帰って来たら担任が出張でショートホームルームもなくて、すぐに掃除の時間だった。ジャンケンで勝ち取った箒で床を掃きながら黒板消しをクリーナーにかけ始めた白石に話しかける。 「やけど私化学苦手やんか、補習かかっとるしなあ」 「せや、オレん家で一緒にやるっちゅーのはどや?」 「え?」 決してクリーナーの機械音がうるさくて聞こえなかった訳じゃない。ただ白石の言葉が私の予想の範囲外であって面食らってしまったのだ。青い黒板消しを滑らせる彼の髪の毛がさらさらと揺れているのを眺めながら私はしばらく考えこんでしまう。廊下を誰かが走り抜けて行くのが耳に届く。想定外の返答をした白石はクリーナーの電源をカチリと切って大真面目な顔で振り返った。 「どないする?家のがゆっくり教えられる思ったんやけど」 「ほんまにええの?」 「かまへんよ」 ◆ 「お茶でええか?」 「あの、お構いなく」 「なら青汁にするで」 「青汁か…お、忍足くんなら喜びそうやな」 「はは冗談や、ちょっと待っとき」 バタンとドアを閉めて白石が階段を下りて行った。残された私は用意してくれた座布団の上で足を折りたたんで正座する。手は重ねて膝に乗っけた。男の子の部屋に入るのは小学生の時以来で実際初めてみたいなものだし、しかも相手はあの聖書と崇められる白石なのだから私の中の好奇心がじっとしている訳がない。とはいっても歩き回って見るのは非常識だからやらないけどそれでも目だけはぐるぐるとフクロウの様に動いてしまう。壁にかかる茶色の額縁に収められたテニス部の賞状は数えきれないほどだった。隣の棚の中で銅メダルが蛍光灯の光を浴びて反射する。中学3年の全国大会でベスト4だったと聞いたことがある。「めっちゃエクスタシーな試合やった」ときらきら瞳を輝かせながら言う白石はなんだか本当に聖書なんじゃないかと私はその時思った。 「お待たせーはかどっとるか?」 「め、めっちゃはかどっとるで!」 「おう一行書けたやん」 「そやねん一行書けたんや!」 「偉い偉い、ほな一緒にやるか」 ◆ 「出来た!」 「オレも終わったで」 「ほんまありがとう」 「気にせんでええよ」 「それにしても白石って物知りやね」 「ただ好きで本とか読んでるだけやで」 白石は本棚に歩み寄ると毒草、薬、化学などと仰々しいタイトルが書かれた本の背表紙をつうっとなぞった。一番右まで到達したところで動きを止めて、その一冊をスッと引き出すとそのままベッドに腰掛けパラパラと捲りながら本に視線を落とした。私は出来上がったばかりのレポートを机の上で揃えて立ち上がって白石の側に行く。 「おもしろいん?」 「めっちゃおもろいで」 「どういうとこが好きなん?」 「例えば薬ってすぐ効くけどその反対に量間違うたりすれば中毒なったり、副作用出たりするやん」 「私も風邪薬で眠たなるわ」 「そや、原子の結合の仕方一つで毒にも薬にもなったりするんやで。そういうのめっちゃおもろいねん」 「なんや偉い難しい話やな」 「つまり普段はええ顔しとっても本心はわからへんっちゅーことや」 言ったことが良くわからなくてえ?と顔を上げる間もなくぐいっと腕を掴まれてベッドに倒れ込む。グリーンのベッドカバーが乾いた音を立てて横向に倒れ込んだ私を中心に沈む。体を起こして座り直し恐る恐る白石の方を振り返った私は息を飲んだ。右横に座り、ほんの少し不機嫌そうに眉間に皺を寄せて目を細める男は私の知っている白石ではない。 「なあ、自分は男子が家来んか言うたら誰の家でも行くんか?」 「そんなわけあらへんよ」 「ならなんでなん?オレかて男やで。なんかあったらどないするつもりやったんや」 「何言うてるん白石はええ人やんか」 「ちゃうよ」 「ええ人やでそれこそ薬みたいや」 「薬か…なら言うたやろ、薬と思っとった物も毒になり得るんや」 包帯に巻かれた毒手と謳われるその左手が伸びて来て私を優しく荒く強く包み込む。バサリと本が白石の膝からフローリングに滑り落ちる。抱きしめながら好きや好きやと繰り返す白石の腕の中で毒に染められ始めていたのはとうの昔だったということに私はまだ気付かない。 薬or毒/100617 2ヶ月連続アルバム発売おめでとう! イメージソング…「毒の華」 |