身体を揺さぶられて、意識が覚醒した。緩やかに目を開けるとそこは穏やかな風が吹いていた。暗い障気の空の向こうにぼんやりと月が見えるから、既に夜になっていることくらいは分かる。ここは、タタル渓谷だ。

「……タタル渓谷ぅ!?」
「ちょっ、…ああもう、びっくりした。やっと目を覚ましたね」

驚いて飛び上がると、すぐ近くからさらに驚いた声が聞こえてくる。「ん?」と首を傾げて隣を見てみると、どこかほっとした様子のリンが見えた。なんだ、リンも一緒だったか。

「あ、ああ…悪い。心配した?」
「するに決まってるでしょ」

少しばかり意地悪のつもりで聞いてみたんだけど、思ったよりあっさり返されて逆にこっちが照れる。リンがこんなに素直だと明日は雪が降るかもしれない。

「自分で聞いておいて照れないでよ。…ところで、なんでまたこんなところに飛ばされたの?ローレライの仕業?」

自分も恥ずかしくなったのか、そっぽを向いて捲し立てられる言葉に苦笑した。まぁそう言いたくなる気持ちも分かる。分かるが八つ当たりはしないで欲しい。完全にお前のせいだ。

「あー…、っと、ローレライじゃなくてだな…おい、どっかにいるんだろ」

立ち上がって声をかける。この状況にも慣れてきたのか、以前のようにあまり気分は悪くはない。そりゃ多少は身体が重かったりするけれど動けないというほどでもないのが幸いだ。誰もいない空間に向かって突然話しかける俺をリンが不審な目で見つめてくる。いや、どちらかというとあれは可哀想な者を見る目だ。マジでやめて欲しい。

足元に咲くセレニアの花が風に舞って散った。目の前を遮るようにセレニアの花弁が舞った。「うわ、」と隣から声が上がるのを聞いて、ちょっとだけ笑う。

「あはは!可愛い可愛い!」
「いつもそうしてれば可愛いのに」
「イオンよイオン!久しぶり!」
「……うー…わー…」

目の前に、小さな羽を背負った妖精が三人。キャッキャとはしゃぐその様はまさしく女子で、その姿に俺は思わず顔を顰める。最悪だ、まさかこれがだなんて思いたくない。思いたくないが現実はいつだって残酷だ。

「…なにこれ」
「第三音素の意識集合体、シルフ」
「………嫌だよ僕これと契約するの!!なんで僕なわけ!?」

呆れたように淡々と返す俺に向かって、深く息を吸い込むと怒鳴るようにしてリンが声を張り上げる。いや、リンの言いたいことも分かる。そもそもなんでシルフが三姉妹なんだ、とか、一人にしろよ、とか、言いたいことは沢山あるわけなんだが。聞くだけ無駄な気がする。

「素直じゃないわね、導師イオン。昔から助けてあげてるっていうのに〜」
「そうよそうよ!あなたがこんなちっちゃかった時なんかね、教会から逃げ出そうとして四階の窓から飛び出して!」
「あたしたちがいなかったらぺしゃんこだったんだからね!」

三姉妹のシルフが口早に告げる言葉に「何のことだ」と首を傾げてリンを見る。…いや、なんか顔色が悪い。引き攣った顔のままシルフたちと距離を取るように一歩、また一歩と後ろへと下がる。

「……は、ははは…ちょっと待て、なんでその話を…」
「それだけじゃないわよ!アンサツシャに演説中に狙われたときだって、ねぇ?」
「そうそう。術使って街中破壊して、落ちてきそうだった瓦礫を風で避けてあげたのに!」
「近くにあの男がいたものねーっ、本当昔からあっちこっちと目が離せなくてこの子はもう…」
「うわあああああ待ってなんでそんな昔の話知ってるんだ!!やめろフレイの前で!!」
「…いや慌てなくても今も昔もやってることは変わってねぇよ…」

俺と出会う前から破天荒だったらしい、この導師。この導師イオンからどうやったらあのイオンが生まれるのか、謎である。まぁ被験者とレプリカが性格までも似るとは俺も思ってないんだけど。つーか街中破壊するなよ。

まだ続くシルフたちの告げ口のような言葉の嵐に、ついにリンはその場に膝をついた。すっかりうなだれてしまっている。なんだってシルフたちはこんなにリンに詳しいんだ。

「…いや、お前らがリンを契約者に選んだのは分かった。なんだってそんな昔のことを知ってるんだ?」
「あたしたち、普段はずっとダアト周辺にいるのよ」
「ここもいいところなんだけどね、ケセドニア近いでしょ?あの辺ってノームの領域だからなんかね〜」
「あんなモグラみたいなやつ、可愛くないんだもの」

おしゃべり好きなのか、なかなか本題まで辿り着けない。だから女子たちってのは厄介なんだよ。普段ならこの辺りで威圧を飛ばすリンは既に疲れ切っていて頼りにならない。

「ダアトにいると、どうしても導師ってのが気になるのよね〜」
「前のエベノスはただのおっさんだったから悪戯ばっかりしてやったけどね」
「今の導師可愛いんだもの!そりゃちょっと助けたくなるわよ!」

うん、ようするに本来はタタル渓谷にいたいところだけど、ノームがいるらしいケセドニア周辺が近くて嫌なので、渋々ダアトを根城としているらしい。そしてダアトにいるとどうしても導師ってのが気になって…、導師イオンはシルフたちの好みだったのか、可愛いから手助けをしていた、と。

分かってようで全然分からない。分からないが、シルフが導師イオンをよく知っているというのは分かった。

「…あー、うん、なんか、なんかわかったけど。とりあえず早いとこリンと契約してくんね…?」
「忘れてた!そうよ、契約契約!」
「ほら、イオン、立って立って!」
「あたしたちと契約しましょ!」

俺の言葉に我に返ったシルフたちがくるくるとリンの周囲を飛び回る。飛びながらも次々と投げかけられる言葉に、そろそろリンの堪忍袋の緒が切れそうだ。

「あああああ!!もううるさいよあんたたち!!分かったよ、契約すればいいんでしょ契約!!」
「すげぇ嫌そうだなお前…」

今までの感じとは違うこの第三音素の意識集合体の態度にどうも戸惑う。最初に出会った音素の意識集合体がこいつらじゃなくてよかった、と心底思う。この調子じゃ疲れる。リンの叫びのような言葉を聞いて、シルフたちは嬉しそうにきゃっきゃとまたはしゃぎながら笑った。これが無邪気で可愛いと思うには…うん…ちょっと無理だ。

「やった!わーい、むっさいおっさんなんか絶対やだもんね!」
「そうねそうね!それにあたしたち三姉妹だし、イオンの兄弟もちゃーんと加護してあげるから安心して!」
「あの子たちみんな可愛いわよね〜。あたしフローリアンがいい!」
「えっ、シンクが一番かわいいわよ!」
「馬鹿ね、みんな可愛いに決まってるでしょ!」
「……うるっさい…」

普通は契約者を加護して力を与えるもんじゃないんだろうか。こいつら、本当に導師イオンのこと好きなんだなぁと漠然と思う。漠然と思うのは、あれだ。他人事だからだ。俺が別に直接契約するわけじゃねぇからな。

ゆらりと立ち上がったリンが持っていた短剣をシルフたちに向けて振り回す。あ、やばいあれはブチギレた。シルフは「きゃーっ、何するのーっ」とちょっと楽しそうな声を上げながら俺の後ろへと回って逃げた。おい、あんまり近くに来るなさすがに体調悪くなる。

「うるさいよ!!さっさとしろ!!大体僕のことはイオンじゃなくてリンって呼べ!」
「きゃー、リンが怒ったわ!」
「怒った顔もかわいいーっ」
「…それ言ったらもっと怒ると思うが」

俺の小さな呟きは残念ながらシルフたちには届かなかったようだ。今度こそ完全に目が座っているリンは小さくため息を零すと、今度は譜術の詠唱を始めた。おいこらこいつ俺のことまで殺す気か。

「頼むから早くしてくれ…」


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