07


 先を歩く崎島の背中に、渚は腕の中の殺せんせーを抱く。本来ならこのまま踵を返しても問題ないところを、彼の言葉によって潜入は続行、崎島の仕事に同行することになった。
 興味がないと言うと嘘になる。イリーナのように決して派手ではないが、巧みな手腕には目を奪われる。争いが起きている水面下で動く様子は正しく暗殺そのもの。何重にも掛かった鍵を豊富な経験と知識で開けていく様には言葉も出なかった。

「此処で少し待ってろ」

 一つの部屋の前で立ち止まった崎島は、取り出したキーで中へ入る。どうやら初めは客として此処へ乗り込んできたらしい。しかし滞在時間はそれほど必要なかったのか、軽く着替えて五分もしないうちに戻ってきた彼の手には、薄いノートパソコンが持たれていた。

「先生、それは?」
「パソコン」
「見たら分かるっつーの……」
「携帯じゃできることが限られんだよ」

 再び歩き出した彼の背中を全員が追う。先に殺せんせーが言った通り、監視カメラがハッキングされているからか、こんなに普通に歩いていても誰一人として彼等を襲う人間はやってこなかった。
 もしかすると先程の数分でまた何か細工をしてきたのかもしれない。崎島の実力は殺せんせーだけでなく、烏間も、そして国も認めている。そのことは渚にだって伝わってきていた。でなければ防衛大臣から直々に依頼など、早々降りてこないだろうから。
 つい十分前まではまだ三階に居たはずだが、既に足は九階を踏みしめていた。目標階までの距離は残り僅か、敵は目と鼻の先まで来ていた。そしてその頃になれば烏間の体も解毒剤が全身に回ったのか、磯貝の介助なしでも十分立って動ける段階まで回復していた。
 
「すごい……本当に何もなく此処まで来れちゃった……」
「私たち、普通に歩いてきただけだよね……?」
「うん、普通に歩いてきた……」

 途中何かあるのではないかとさすがにビクビクしたが、全く何のトラップもなかった。時々立ち止まり、何回か崎島がパソコンを開いて操作しているだけで、本当の本当にたったそれだけだ。
 否実際はそれだけと表現するにはお粗末過ぎるのかもしれない。自分たちが知り得ない複雑な糸は確かにあって、今もこの先に繋がっている。その作り出された細かな糸を、彼のあの指が解いていっている。いや、あの指と脳が確実な一本の糸を新たに作り出している。
 ぐちゃぐちゃになった糸を解くのではなく、新たな道となる糸を付け足す。そしてその上を自分達は歩いている。思わず恍惚とした息が溢れてしまいそうだ。
 ドラマや映画で見た血生臭い潜入とは全く違う。とても美しくて、呼吸すら忘れてしまう。

「、どうした」
「一歩手前に弊害だ」
「弊害?」

 身を隠している壁から烏間が向こう側を少し覗く。確認してすぐにその言葉の意味を理解した彼は、眉間に皺を寄せて側に立つ崎島に目を向けた。

「流石にあれはお前のハッキングを使っても退かすのは難しいぞ」
「人間の脳みそにAIが組み込まれてりゃ話は別だがな」
「そんな話は聞いたことない」
「当たり前だ、立証されてねぇんだから」

 まぁそうなってくれりゃ、こっちとしては楽なんだけどなと小声で呟く崎島は、壁を背凭れに腰を落とし膝の上でパソコンを開く。画面に映るのは素人では全く理解できない、ほぼ暗号と言って相応しい英数字記号の羅列だ。
 烏間も機器にはまだ強い方だが、専門的なこういうことになると覗いたところで意味が分からない。慣れた手つきで崎島の指は動くが、本当に何度見ても軽やかだ。この脳にどれだけの情報量が詰まっているのか、俄かに末恐ろしさを感じる。
 バタンと閉ざされたそれを差し出される烏間は、ほぼ無意識に受け取ってしまったが、すぐにその顔を上げる。パソコンなど何処にでも売っているが、これは崎島の仕事道具とも言えるものだ。彼にとっての重要機密だって保存されているだろう。
 無論、それを覗かれるようなヘマを彼がするとは思えないが、価値にして云十億もしそうな質量をこうも軽々と手渡されると、正直手に汗が滲む。

「?そんな重いか?」
「体積の話じゃない、価値の問題だ」
「価値?……あぁ、別に見られて困るもんは入ってねぇよ」

 それに大体のものにはロックを掛けてるとの言葉に、烏間は肩で息を吐く。鍵をかけるかけないの問題ではないことくらい、分かっているだろうに。立ち上がった崎島の姿を目で追うも、何も言われずただ澄ました顔を向けられる。
 信用、されていると取っていいのかどうか。一度パソコンに目を落とした烏間は、再び崎島に視線を戻す。だがその彼はというと、今から平然と通路へ出ようとしていて、思わず烏間は彼の腕を掴んで自分の方へと引っ張った。

「ぅおっ、」
「変装もせずに出るつもりかっ?」
「はぁ?そのまま出て何の問題がある」
「だとしても、此処はスイートだ。普通じゃ……、……まさかお前、」

 どうやらそのまさかだったらしい。大凡ビジネスパートナーに見せる表情ではない人の悪い笑みを見せた崎島に、烏間は一瞬クラっとした。
 いや、一人の人間が一室以上の部屋を取ってはならない規則はない。相応の金を払えばホテル側も了承する。そう、つまりそういうことだ。表向き客として先程の部屋を取ったが、最終此処まで来ることを最初から見通してスイートルームの一室までもを、彼は先に借りていたわけだ。
 一体あと何手先まで読んでいるんだ。出かかった言葉を烏間は既で飲み込む。聞いたら最後、自分の予想の遥か上の上を超えた回答が返ってきそうな気がした。
 悶々と考える烏間と、その彼を見て不思議そうに小首を傾げる崎島と。彼らの姿を後ろから見ていた(否、観察していた)その他の面々は、何やら神妙な面持ちをその顔に浮かべていた。

「……あれって普通の距離だっけ」
「ちょっと近いかな……」
「どっちかっていうと、あの二人どっちもパーソナルスペース広い方だと思うんだけどな」
「でもどっちとも仕事上じゃ信用してるのは当たりだよね」
「うん、それは多分、当たってると思う」

 見事な観察力である。渚の腕に居る殺せんせーは彼らの育った目に心の中で大きく拍手をした。
 閑話休題それはそれとして
 烏間の肩に手を置き壁の向こうへと歩いていく彼の背中を、バレない範囲でそれぞれが目を凝らして見る。イリーナの時もそうだが、手慣れた人間というのは歩き姿にすら余裕を感じさせる。これが人を欺きながら生きてきた裏社会の人間の姿なんだろう。
 少し、勿体無いと感じたのはきっと渚だけではない。崎島の技術もイリーナの手腕も、環境が変われば世界を動かす力になる。経験とは他をどれだけ削ぎ落としても、最後まで人の中に残るものだ。
 最上階へと続く扉の前に立つ男と接触した崎島は、予想通り呼び止められている。だがそれも想定内だったんだろう。スマートに胸ポケットからキーを取り出した彼は、差し出す男の手のひらにそれを乗せる。
 予約の人間とキーの情報が一致したのか、男は崎島の手にキーを返した。片手を上げて部屋が並ぶ方へと彼が足先を向けて、約5秒といったところだろうか。
 男が偶々崎島に背中を向け、携帯を取り出したその瞬間、背後からの黒い手袋がその携帯を軽やかに抜き取っていった。

「っ、な、ぅぐっ!」

 あの細腕のどこにそんな力があるというのか。俄かに信じがたいが、目に映る光景の全てが正しい。崎島より数倍ガタイの良い男の口を、たった腕一本とその手のひらで抑え込んでいる。苦しそうにもがくのは警備に扮したあの殺し屋の方だ。
 対する崎島は涼しげな顔をして奪った携帯を操作している。そして徐にその携帯を耳に当てると、同じ人間の声帯を持っているのは思えないほど正確で、疑いようもない声色をその唇から奏でさせた。

「七階北側ロビーにて子どもと大人の姿を発見。至急応援を頼む」
「ッ!ウゥッ!ぐっ、!」
《了解、こっちも向かう》

 実際に見たのはこれで二度目だが、度肝を抜かされるとは本当に言葉通りだ。電話の相手もすっかり本人だと思い込んでいるのだろう、連絡を終えた崎島の様子からそれは窺える。
 だが此処からどうあの男を黙らせるのか。三階ロビーでの動きから体術の心得も十分備わっているとはいえ、やはり体格差を考えると崎島の方が不利だ。
 出て行くべきか、それとも此処で待つべきか。烏間は足の横にある手のひらをぐっ、と握り締める。

 そのとき、コツンと何かが落ちる音が響いた。携帯だ。見ると男のそれを崎島が床に落としたらしい。わざと、ではないだろう。そんな風には見えない。
 一体何を。それぞれが目を凝らして見ていると、何ということだろう。慈悲もなく思いっきり、彼はそれを靴の底で踏み潰した。覗き見をしていた面々は思わず唖然である。
 やはり崎島という男は足癖が最高に悪いらしい。あれではもう二度と使えまい。

「うううっ!うぅ……っ、うぅ……?」
「自分で吸い込んでくれて助かったよ。お陰で手間が省ける」
「うっ……ぅぐ……」
「そのまま朝までぐっすり眠るんだな」

 あれはもうトラウマだろう。盗み見て思う言葉ではないが、された側の男が今は少し不憫だ。力無く床に落ちた男の体を足で(やはり足癖が悪い。これはもう決定的だ)仰向けにし、勝手知ったる様子で崎島はその服の中に手を突っ込み始めた。
 目当ての物を見つけたのか、取り出したのは一枚のカード。どうやらあれがあの扉を開けるキーのようだ。
 振り返って上げられる片手に、出てきて良い合図だと捉えた烏間は、生徒達に声を掛けて壁から姿を現す。その足で崎島の方へと向かうが、途中つい足元で転がる寝息を立てる大男に目が行った。

「起きねぇよ」
「随所随所にお前の足癖の悪さが垣間見えるな……」
「は、態々何で手を使ってする必要がある。足の方が近いだろうが」
「そういう問題か……?」
「そういう考え方だ」

 カードキーを手にリーダーに通した崎島は開かれる扉の中を潜る。全員が中に入り、目の前に階段が差し掛かった時、烏間の前を歩く崎島の足が止まった。どうした、と声を掛ける前に手で制される。
 随分神経を張り巡らせた顔付きだ。瞳が辺りを見渡すように動くと、耳を澄ますかのように彼はその両眼を閉ざした。凡そ十秒が経った頃だろうか。「上か、」と呟いた彼は、止めた足を再度動かし始める。

「崎島先生、どうされました」
「侵入に警戒されているらしい。室内に人の気配がねぇ。恐らく屋上だ」

 先程目を閉ざしたのは周囲の音を確認するためだったようだ。視力もそうだが、聴覚、嗅覚、味覚、人が感覚として備える全ての機能が、彼の場合は突出している。
 細かな通路すら把握しているらしい崎島の足は、迷うことなく屋上へ続く階段へと向けられる。そして約十段程しかない階段を登り切り、屋上へ続く扉の前まで来た時、彼は後ろを振り返って生徒たちを見下ろした。
 崎島という男は表情で心情を悟らせない。同様にブルーグレイの澄み切ったその瞳も、彼の心を一切映し出さない。だが今だけは、その瞳が語る彼の心情を烏間は手に拾った気がした。
 否、読み取らされたのかもしれない。その真意を知る術はないが、もしもそれが今の彼の気持ちを示すのなら、一大人として理解はできる。
 殺しが何であるのか、仕事とは何なのか、責任とは何か。烏間も崎島も、そして殺せんせーも、大人であるが故に知り過ぎている社会の渦だ。

「崎島先生、心配には及びません」
「……」
「貴方は貴方の、やるべきことを。大丈夫です。此処には体調も万全に戻った烏間先生が居ます」

 貴方が思う形にはなりません。
 何を以って、どんな根拠を示して言っている言葉なのか。証拠も何もない。先を読んで動くことは殺し屋の極意だが、身一つならまだしも個性豊かな子どもが十四人も居て、そのうちの一人は恨みを持たれている。
 気に食わなかったんだろう。大の大人が子どもに言い負かされたことが。ただでさえプライドが高く、力で相手をねじ伏せるような人間だ。非力な子どもに、何もかもを奪われたことが屈辱でならなかった。
 仕事を請け負う中で崎島には自分の中で決めたルールがある。それは受けた依頼に関係のない人物には被害を出さないことだ。今回の一件、必ずしもこの生徒等が関与していないと断言はできない。寧ろ彼等の存在が、この一件を引き起こしたと言っても良い。全くの無関係ではない。
 だが、彼等はまだ子どもだ。本当の社会すら知らない。裏どころか表すらも。それはどんな小細工をしても覆せない事実だ。

「崎島」

 烏間の呼びかけに崎島の視線がそちらを向く。此処から先はもう潜入じゃない。文字通り、依頼を受けた崎島は鷹岡を捕らえる。彼のやり方で、この一件の全てを終わらせるのだ。
 此処まで来て、彼の足枷になるわけにはいかない。立場は違えど、今崎島が思うことは烏間が感じていることときっと同じだ。生徒達に対してこれ以上の被害はゼロで、本件に幕を下ろす。たとえその手段が正義でなくてもだ。
 烏間の眼差しに何を感じたのか。崎島の心情を深く察せられるほど聡い人間は、残念ながら此処にはまだ居ない。だがその次に発せられた言葉が、何よりの答えを表しているかのようだった。
 烏間の手に崎島が持っていたパソコンが押し付けられる。反射的に目線がそちらへ落ちたとき、それは告げられた。

「こっちのことはアンタに任せたぞ」

 ──烏間。
 それを言ったが早いか、扉を開けた方が早かったか。非常口と書かれた文字が見えるまで、烏間は数秒の間、瞬きを忘れた。扉が閉まる小さな音が階段内に響く。それが彼の鼓膜を緩く揺らしてようやく、喉の奥に冷たい酸素を感じた。
 此処が暗がりで、且つ自分の前に誰もいなくて良かったと、今心底思っている。決してドライアイではなかったはずだ。閉ざした瞳が僅かに軋む。それがどれだけの秒数、自分が瞬きを忘れていたのかを教えてきた。
 たかだか、名前だろ。しかも名字だ。烏間は浅く息を吐く。嫌でも分かる心拍の乱れには、最早名前の付けようがなかった。





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