01

 世界に響く衝撃は、此処日本でも同様だった。東京都新宿区に聳え立つ防衛省。その情報本部本部長室には、二人の男性の姿があった。今しがた招集をかけられた彼等は、手に付けていた仕事もそこそこに腰を上げ、こうしてこの部屋へとやって来た。
 二人の前には情報本部の部長を務める者が椅子に腰を下ろしているのが見える。浮かべられる表情は実に険しく、纏う空気も重苦しいものだ。だがそれも、今朝方上から通達のあった内容のせいだろうと二人は踏んでいる。
 まさかと思う出来事が世界を揺らした。曰く前代未聞であると、国家は大きな動揺を見せている。それもそのはずだ。異形と思われる生体生物が、来年の三月には地球自体を滅ぼしかねないと言うのだから。


「……呼び出したのは他でもない。例のことについてだ」
「存じ上げています」
「つい先日、月が爆発し消滅した。しかも七割もだ。もはや我々人類は満月を拝むことは出来なくなった。その実行犯が、次はこの地球を破壊すると言う」


 タイムリットは最早一年を切ろうとしている。残りの時間を用いて、国を防衛する防衛省としては地球の破滅をどうにか食い止めたいところだ。しかし残念なことに、本部長曰く国の最新鋭戦闘機でも、その異形人は殺せなかったと言う。剰え合衆国が誇るペンタゴンでさえも、指先で遊ばれたのだそうだ。


「さらには要求の一つとして、ある学校の教師をしても良いと戯言を放った」
「ある学校ですか?」
「そう。椚ヶ丘中学。東京でも有数の進学校として有名だ。しかしその学校にはあるクラスがある。通称をエンドのE組と言うらしい。彼等は本校舎から離れた隔離校舎で勉強をしている。そのクラスをあの異形は受け持つと言うのだ。……我々としては気は進まないが、国がある提案をした」


 ──「その生徒達に奴を暗殺させよう」
 実に無謀としか言いようのない発言だ。相手はまだ十を四つ、五つと超えたところの子ども。成人をした大人ではない。否、例え相手が大人であろうと一般人を巻き込むこと自体が道理ではない。国で起きたことは国で処理をする。それこそ国家に属する職員が総出になってでも行う。それが正しい道筋だ。
 それでも上の意見は変わらないのだそうだ。首謀者自身が椚ヶ丘中学、エンドのE組の担任をすると言うのなら、空間として一番近しい存在に見張りを頼み、殺してもらう。これが最も合理的だと。
 話を聞く一人、烏間は隣に立つもう一人の職員、柴崎に目を向ける。するとお互いに感じているものは同じなのだろう。幾ら何でも無謀が過ぎる。そういう顔をしていた。


「お言葉ですが本部長、それは合理的というより非現実的では……」
「無論、百も承知だ。だからこういう条件を出した。奴には生徒に一切の危害を加えさせない」


 理由は二つ。一つ目は教師として毎日教室に来るのなら監視が出来ること。二つ目は凡そ30人強の人間が至近距離から殺すチャンスを得れること。死角からや意表を突く手筈を取っても敵わないのなら、いっそ真っ向から迎え撃つ戦法だ。
 それでもやはり不安要素は隠しきれない。相手は子ども。国もそれについては十二分に理解している。況してや遊びではなく本気の殺しとくれば、線引きすらも自分たちで判断は出来ないだろう。上層部だって一般市民に怪我人を出すという不祥事を歴史に刻みたくはない。
 果たしてどうすることが最善か。頭を突き合わせて考えた結果、こんな案を彼等は思い付いた。暗殺者として今後育っていくだろう子どもたちを管理し、監視し、且つサポートする人財を立てればいい。
 そこで白羽の矢が立てられたのが、今まさにこうして話を聞かされている烏間、柴崎の両名だった。


「総合的判断と過去教官として人を教育する立場に立っていた君達なら、その人財に最適だと踏んだ。主に現場監督、並びに外部からの暗殺者の管理・監視、そしてサポートをしてもらいたい」


 これは頼みではなく、指示でもある。続けられるその言葉の意味は、既にこのことは決定事項であることを表していた。だったらこちら側が首を横に振れるほどの余地はない。
 決定事項ということは、上層部同士で意見をすり合わせた結果決まったことだ。今更此処で何かを言ったところで、時間がない、次に案を出して実行するには遅過ぎると返されるだけだろう。
 つまりこれは受けざるを得ない仕事と言える。彼等は視界に互いの姿を映り込ませると、軽く肩で息を吐く。これ以上ごねても現状の変化は見込めなさそうだ。


「分かりました。我々がその任務を引き受けます」
「頼んだ。ではこれより烏間惟臣、柴崎志貴両名は部名を臨時特務部として任務遂行に動いてもらう。下に三名の部下を付ける。彼等には現場監督である君達のサポートを行うことになる」


 顔合わせは近日中に済ませるように。そう命じられた日から一週間が経った今日。無事に部下三名とも顔を合わせた二人は今、椚ヶ丘中学の隔離校舎前に立っていた。
 木造のそれは年季の漂う佇まいで、本校舎の造りとは雲泥の差がある。学校という小さな社会でさえ、こうした区別と称された差別的行為が行われているというのは、嘆かわしい話だ。
 今時であればこんな事態が発覚すればすぐにニュース沙汰、教育委員会が動くところだろう。だがそれがされないのが、偏に金の力である。此処椚ヶ丘中学の理事長は浅野學峯、この学校を進学校へと導いた敏腕経営者だ。
 中高一貫の名門進学校ということもあって、学費も高額だ。それなりの貯蓄や財産は底が見えないくらいには存在しているのだろう。


「世の中は金ってよく出来てるねぇ……」
「あぁ、全くだ。普通なら取り出されていても可笑しくはない」


 その金にものを言わされている国も国だが、金銭事態が魔性であることは昔からだ。詰まる所、此処の経営者に心変わりでも起きない限りは、この差別的行為に終わりはないだろう。とはいえ、それも来年までこの地球が存命していればの話ではあるが。
 それにしてもと、校舎内へ向かう柴崎は歩きながら思う。暗殺と言えばその名の通り、密かに狙って相手を殺すことだ。このくらいの年代なら素手で丁度、ナイフや拳銃など所持している方が可笑しい。特に日本なら尚のことだ。それでもこれから会う彼等は否が応でもナイフや拳銃の扱い方を覚えることになる。
 もちろん本物ではない。だから直接的に人間を相手に血を流させるようなものでもない。だがそうと分かっていても、これが国の答えなのかと思うと溜息が零れ落ちた。


「出てるぞ」
「まぁ……そりゃ出るでしょ」


 溜息くらい。柴崎の言葉に前を歩いていた烏間は僅かな苦笑を見せる。気持ちは分からなくもない。子どもに頼らなければならないほど落ちぶれた国に不甲斐ない気持ちはある。しかしそれ以上に彼の中には抵抗があるんだろう。青い身空な頃合いに、殺しをさせることへ。
 かといって上から命じられたら、柴崎だってそれを覆うほどの代案は持ち出せていない。国やペンタゴンでも殺せない相手の息の根を止める方法なんて、一晩寝たところで考えも付かない。自衛隊が総出になって駆逐をしても、きっと敵わないだろう。
 手詰まりな現状に溜息は漏れる。結論、非現実的だと言ったこの行いが、実は最も現実的な行為なのかもしれない。
 


「初めまして。私が月を爆った犯人です。来年には地球も爆る予定です。君達の担任になったのでどうぞよろしく」


 手段としては百歩譲って現実的だと受け止めたが、図体を見ると非現実的だとしか思えない。第一印象まさしく、蛸だ。色味は全く異なるが、手足の本数や胴体の形から全てがあれと酷似する。
 我が物顔で教員室に座り、我が物顔で雑誌を読んでいる姿にはしばしば無言になった。しかしこれと初めて会う彼等椚ヶ丘中学3年E組の生徒達も、先程の烏間、柴崎と同様の反応を見せている。まさか見た目からして決して人ではないこの生物が自分たちの担任として赴任するとは露ほども思わなかったのだろう。当然の反応である。


「防衛省の烏間という者だ。隣に居るのは柴崎。今回の任務の現場責任者として君らに関わらせてもらう。まずここからの話は国家機密だと理解頂きたい。単刀直入に言う。この怪物を君達に殺して欲しい!!」


 担任の次は殺しの相手。話の飛躍について行けていないのだろう。目を白黒させている様子がよく見える。無理もない。普通ならこんな話、持ち掛けられることもないのだ。
 況してや殺して欲しいなんて、道徳観念がなくても悪いことだと理解できる。だがそれを国は望んでいる。この生物が死に、地球がこの先も在り続けることが、日本だけでなく世界中が希望としていることだ。
 

「……え、なんすか?そいつ攻めて来た宇宙人かなんかすか?」
「失礼な!生まれも育ちも地球ですよ!!」
「詳しいことを話せなくてごめんね。でもこれが言ったことは全部事実。来年には地球をも破壊すると言ったことは報告として上がっているんだ」
「このこと知っているのは各国首脳だけ。世界がパニックになる前に……秘密裏にこいつを殺す努力をしている。つまり、暗殺だ」


 今烏間が懐から取り出したナイフは普通の物とは材質が異なる。これは特別加工をされたもので、国が作り出した特注品だ。それを生物に向けて振りかざすのだが、人の早さなど止まったように見えるのだろう。簡単に躱され、往なされてしまう。
 人智を超えたその動きに、生徒達は目で終えないままに呆然とする。柴崎も早いとは聞いていたが、実際に間近で見ると事実を実感したのだろう。同時に計画の無謀さに、やはり少々悩ましげな色を垣間見せた。
 

「まぁ……見ての通り速くてね。加えて満月を三日月に変えるほどのパワーを持つ。最高速度はマッハ20。つまりこれが本気で逃げれば、破滅の時まで人類は誰一人手も足も出せない」
「ま、それでは面白くないのでね。私から国に提案したのです。殺されるのはゴメンですが、椚ヶ丘中学校3年E組の担任ならやってもいいと」


 なんで!?という思いが聞こえなくても伝わってくる。だがそれに答えてやれる回答を、烏間も柴崎も持ち合わせてはいない。何故これが此処の担任をしたがるのか、何故それを要望として提示してきたのか。人ならざる者の考えは、人間には到底理解ができない。
 単に娯楽目的であるなら、特定の学校を選ぶ必要性は感じられない。残り一年を自由に過ごすだけなら、もっと他に手段はある。なんなら一年間というリミットを、わざわざ此処に立てる必要もないのだ。


「こいつの狙いはわからん。だが政府はやむなく承諾した。君達生徒に絶対に危害を加えないことが条件だ」
「理由は二つ。教師として毎日教室に来るのなら監視ができる。何より、このクラス全員約30人の人間が至近距離からこれを殺すチャンスを得られる」
「が、これでは君達も色々と納得できない部分も多々あるだろう。そこでだ。成功報酬は百億円!」


 百億、生きていてもそう簡単に目にすることのできる金額ではない。一部富裕層であれば可能かもしれないが、普通に生きていればまずあり得ない。この百億が何処から出てくるのか、無論日本だけで掻き集めるわけじゃない。
 地球の未来は全世界の未来に繋がる。とどのつまり世界の期待が表した額とも言えよう。百億という額がそれを足らしめている。同時にこれは遊びではないこと、本当の未来が直結していることを、ありありと示していた。


「同等の対価となると、当然の額だ。暗殺の成功は冗談抜きで地球を救うことに繋がるからね」
「それに幸いなことこれは君達を舐めきっている。見ろ、緑のしましまになった時は舐めている顔だ」
「「「「(どんな皮膚だよ!!)」」」」
「当然でしょう。国に殺れない私を君達が殺れる訳がない」


 最新鋭の戦闘機に襲われた時も、逆に空中でワックスをかけてやりましたよと笑うそれを視界の端に、柴崎は隣に立っていた園川からアタッシュケースを貰い受ける。重みのあるそれは、これから先の一年間彼等生徒が日頃から所持することになるものだ。
 ナイフに拳銃。人に害を与えない代物とはいえ、この重みは偏に命の尊さを意味する。たとえそれが、来年の地球の未来を揺るがす存在の命だとしてもだ。生きとし生けるものは全てに平等に存在する。その意味することが、命の重みというものだ。


「無理難題は承知の上で、その隙をあわよくば君達に突いて欲しいと思ってる。君達には無害でこれには効く弾とナイフを国から支給する」
「君達の家族や友人には絶対に秘密だ。とにかく時間がない。地球が消えれば逃げる場所など何処にもない!」
「そういうことです。さぁ皆さん、残された1年を有意義に過ごしましょう!」






 案の定、というよりは予想通りだった。古びた木で出来た廊下を歩く二人は、先程まで居た教室内で見た生徒達を思い出す。未曾有の出来事に国家機密とまで言わしめる話を聞かされて、戸惑いと動揺の色が濃く滲んでいた。
 あの様子だと、学校側からの説明は何一つ降りていなかったのだろう。話自体は臨時特務部が結成されて少ししてからされていたが、顔色を見れば察せられる。
 同意は、当然だが得られてはいないのだと思う。もちろんしたい、したくないで議論できる時間がないことは分かっている。時間が定められている以上、残る期間を無駄には出来ない。だが彼等の同意なき決定が正しかったのか、今更な考えが脳裏を過る。
 だがどれほど考えたところで、国が出した決定は揺らがない。彼等は許可なくこの一年間を殺しという時間のために使わされる。秘密を抱いて、それこそ家族にも打ち明けられない大きなことを、世界が安寧に包まれてもなお心に仕舞い続けることになるだろう。


「戸惑っていたな」
「仕方ないよ。あの子達はまだ子どもだ」


 烏間や柴崎からすれば十以上も下になる。無垢な表情は見るからに子どもらしい。それでも隔離校舎で勉学を積むことになったということは、それなりに彼等の心の中にも葛藤や悩みがあるのだろう。聞けば本校舎では問題児だと判断された者が、あの校舎へと移動させられるのだと言う。
 何を基準に問題児と判断されるのかまでは分からないが、成績か素行か、それとも教員、理事長判断か。何にしても、こうした空間を意図的に作ることは、本来なら見過ごされるべき状況ではない。けれど反面、こうした空間が存在していたからこそ、今回の任務を此処で実行出来たのではとも感じる。
 良いか悪いか、結果的に国としてはこの空間を利用できる環境だと考えているのかもしれない。
 

「本来なら巻き込むべきじゃないんだけどね、」


 中学三年、ちょうど受験がメインとされる学年だ。進学校ともなれば、それなりに勉学にも力を入れ、名高い高校を目指す生徒が多いだろう。何より学生時代というのはその時を過ぎれば二度とは訪れない貴重な時間だ。テストだなんだと今思えば苦い顔をしてしまう出来事もあったが、振り返れば良い思い出にもなる。
 烏間も柴崎も過去学生時代と呼ばれるときを過ごした。しかしあの時のような時間は、大人になると少なくなる。仕事が一日の大半を占めて、あの頃のように友人同士で集まることもなかなか出来なくなった。
 だから今のうちに出来ることを、遠慮せずに目一杯楽しんで手を伸ばして欲しいと思うのだ。引いてはそれが本人らの人生の一欠片ともなる。


「やはり引っかかるか」
「今となれば思うだけならタダでしょ」
「お前の気持ちもよく分かる。抵抗を感じていることもな。だからこそ彼等のこの一年間を貰う以上、俺達は責任を持って向き合わなくてはならない」


 それが現場責任者に求められる責務だ。烏間の言葉を聞く柴崎は、その通りだと浅く首を縦にする。地球の未来は彼等にかかっている。だが同時に、彼等の未来はこの空間にかかっている。
 上から生徒達の管理、監視、サポートを任されている以上、二人がすることは子どもたちの伸び代を如何に無駄にさせないかだ。引いてはそれは地球の未来にも繋がっていく。とどのつまり、背負うものが多いのだ、この仕事は。
 

「ちゃんと、守ってあげないとね」
「あぁ」


 きっとこれから、彼等の前には多くの至難が待ち受ける。悩み、考え、時には立ち止まることもあるだろう。その中には年相応のものも含まれているかもしれない。しかしそれにもちゃんと、向き合っていきたいと思う。それが彼等3年E組に対する敬意の一つであると、二人は考える。
 これからが正念場だ。烏間と柴崎は互いに顔を見合わせると、双方が喝を入れるように軽く拳を当てあった。



 例の話が生徒達に通達されてから、早数日が経過した。現場責任者の立場である以上、現場の状態を逐次把握しておくことも仕事の一つだ。それもあり、あれから定期的に何度か二人は此処を訪れに来ていた。
 今日此処へ来たのは柴崎で、彼は車から降りると聳える校舎に目を向けた。すると教室があると思われる方から、何やらガヤガヤと話し声が聞こえてくる。時間的にも今は学校で言う放課後に当たるので、今頃は自由に過ごしている頃合いなのかもしれない。
 数少ない気の抜く時間に訪問するのは申し訳ないが、授業中に顔を出すわけにもいかない。多少の割り切りを付けて校舎内へ足を踏み入れた柴崎は、話し声の聞こえる教室の扉を数回ノックした。


「あ!柴崎さん!」
「こんにちは」
「こんにちは〜!」


 顔を覗かせて中に入ると、数名の机の上には先日支給したナイフや拳銃の姿が見える。いつかは慣れるのだろうこの光景も、未だに少しの違和感を抱かせる。不自然なくらいに浮き彫りになるそれは、些か無邪気な彼等には歪に見えたのだ。
 瞬きとともに思考を離した柴崎は、教室内に足を踏み入れさせる。教員室内にも顔を出したが、此処同様あの姿は見当たらない。どうやら席を外しているようだ。


「どう?あれを殺す糸口は掴めそう?」
「いやぁ無理ですよ、柴崎さん」
「早すぎるってあいつ」
「今日の放課後の予定知ってる?ニューヨークまでスポーツ観戦だぜ。マッハ20で飛んで行く奴なんて殺せねっすよ」


 自由というか、気ままというか。恐らく事情を知る者の中では最も今を楽しんで生きている生物だと柴崎は思う。特段行動に制限をかけているわけではないのだが、こうも国を超えての移動となると、現実味が湧かない。
 それもこれもマッハ20という規格外の速さ故なのだが、改めて思うとマッハ20というのは現実的にあり得るものなんだろうか。否、実際問題あり得ているので無いとは言い切れないのだが、それだけの速度で走られると衝撃波がとんでもないので、防衛省サイドとしてはあまり多用はしないでいただきたいところだ。


「確かに、君達の言う通りだ。実際他国が総力を挙げても敵わない相手だからね。軍事力だけじゃどうにもならない。けど君達だけはチャンスがある」
「チャンス?」
「此処数日見ていれば分かるけど、あれはどうしてか君達の教師だけは欠かさない。それでも放っておけば来年三月には、必ず地球は破壊される。あの削り取られた月が良い例だ」


 本来なら地球の自転と太陽の光の当たり具合によって、月はその姿形を変えていく。月の満ち欠け、又は皆既月食や部分月食が例えにしやすいところだ。実質月は太陽よりも直径が大きい。そのため太陽全体が月に隠れると、暗い影を作り出す。それが皆既日食だ。逆に一部分が月に覆われて隠れている現象を、部分月食という。
 だが今空に浮かぶあの月は、周期による満ち欠けでも、皆既、部分月食とも異なる。実際に月の三分の一が削られたことによって起きた形だ。地球が月よりも大きい惑星であるとはいえ、あれを見れば被害の大きさが如何程かは多少なりとも想像は付く。
 加えて爆発地点が日本であれば、この国の歴史はその日を境に途絶えることになる。再び繁栄の望むには、途方も無い道のりだ。



「生かしておくには危険であることは、各国首脳が結論付けた答えでもある。この教室があれを殺せる現在唯一の場所なんだ」
「唯一の場所……」
「急にこんな話をされても、現実味もなければ戸惑うことの方が多いと思う。他にしたいことや、しなくちゃいけないこともあったはずだろうから」


 遠い昔を思い出す。あの頃の日本は平和だった。世界も、耳に入る分には落ち着いていたと思う。変わらず月の満ち欠けがあって、それが普通だった。けれど今は変わってしまった。
 月の三分の一は消滅。戻る兆しは見えない。ニュースに取り沙汰されたものの、その真相を深くは述べられてはいない。
 もう二度と満月を拝むことは出来ないかもしれない。散らばった月の破片が地球の何処かへ落ちるかもしれない。この先、当面の一年間には不安ばかりが世界を揺るがす。
 そんな中で、彼等にはその時間を割いてまで国の要望に半ば無理矢理答えてもらうことになる。自由な時間を、自分たちが彼等から奪うのだ。


「だからこそ俺と烏間は全力でサポートする。この国を守るために、君達には力を貸して欲しい」
「柴崎さん……。分かりました、俺ら頑張ります!!」
「みんなでやれば出来ないこともないかもしれないしね!」
「もしもの時は助けて下さいね、柴崎さん!」


 子どもの笑顔とは、時々大人になって忘れてしまった何かを思い出させる力がある。例えば自由、奔放、無邪気、素直、純粋。決して失くしてしまったわけではないそれらを、いつしか大人になれば蓋をしてしまう。
 きっとこのくらいの子どもたちなら、七夕の日には短冊に願いを書くのだろう。自分たちなら諦めてしまうようなことも、叶うわけもないと初めから意識に入れないことも、彼等くらいの頃は全てを真っ向から受け止めて願いを連ねる。
 本当は不安なこともあるはずだ。受験を控えるこの時期に、これ以上の問題も欲しくはなかったと思う。それでも彼等はこうして笑ってくれる。笑って、出来る限りのことをやろうとしてくれている。
 上はあんなに臆病なのに、自分たちは無謀だと感じているのに、前を向くこの子達の方が何倍も強い。


「もちろん」


 だからこそ守ってあげなきゃいけないと思う。きっとこれから彼等は多くの期待を背負うことになる。同時に一つの失敗が、非難の声にも変わることもあるだろう。心を傷つけられることや、悔しいと感じる時もきっとある。それを避けては通れないだろうが、そのときには何があっても彼等の味方でいたいと思う。
 頑張っていることを、頑張ろうとしていることを、ちゃんと認めて褒めてあげられる存在に、なりたいと思うのだ。この思いは恐らく烏間も同じだろう。普通の中学三年生よりも大きな未来を背負う彼等を、全力でサポートしたいと、彼なら思っているはずだ。

 この子達となら、そう思える希望の光が見えてくる。例え周りが無謀だと言っても、信じてやれる強さを持とうと、改めて教えられた気がした。
 これは烏間にもちゃんと伝えないと。今頃当てがわれた臨時特務部の部屋で仕事をしているだろう姿を思い出して、柴崎は小さな笑みを口元に浮かべる。堅物な彼だが、心根は優しい。聞けばそうかと空気を和らげることだろう。
 じゃあまた様子を見に来るよと部屋を後にしようとする柴崎、扉の取っ手に手を掛ける。けれど、あぁそうだと思い出したように足を止めると、彼は振り返って生徒達の方を向いた。


「困ったことや不都合なことがあればいつでも言ってね。小さなことでも全然構わないから」


 それじゃあまたね、と軽く笑いかけてから教室を後にする柴崎は、木造の扉を閉めて廊下を歩いていく。足音が僅かに聞こえてくる中、教室内では何処か浮き足立つような、将又冷めやらん感情を持て余したような様子で近くに座る者と顔を見合わせ話していた。


「やばい〜〜!!」
「んもうすごい優しいよね!」
「大人って感じする〜っ」
「あんな人が居るなら私将来防衛省で勤めたい〜〜」
「動機不純すぎ!」
「暗殺頑張ったら褒めてくれるかも〜!」
「絶対褒めてくれるよ!」


 ね!頑張ろう!と色めき立ち黄色い声を上げる女子生徒たちと、大人になったらあんな風になれるのかなと未来への期待を微かに胸に抱く男子生徒たちと。
 明らかに自分と接している時とは違う様子に、窓の外から見ていた殺せんせーはキー!とハンカチを噛んで悔しげな表情を見せていた。やはりこれくらいの年頃は、丁度十以上離れた大人に憧れや魅力を感じたりするものなのだろう。
 それでも楽しげに笑って話す様子は微笑ましいのか、次第に殺せんせーの頬は緩み行く。それからくるりと自身の後方へ顔を向けた彼は、口癖である「にゅや」という言葉を呟いた。


 足音もしないのに気づいてしまうのは癖なんだろうと、振り返った柴崎は思う。職業柄か、将又びょうなのか。それでも長らく国を防衛する立場を経験して来ても、彼のような存在を柴崎は未だ嘗て二つも見たことはなかった。


「ニューヨークに野球を見に行ったって聞いてたんだけどね」
「大変良い試合でしたよ。私久々に興奮しました」
「そう」


 見れば見るほど、人から逸脱した存在だと思う。けれど人よりも欲望に素直で、行動的だ。それが人ならざる人智を超えた身体能力を持つからなのかは不明だが、しがらみや体裁をものともしない言動は、彼の心の大きさをある意味表しているようにも思えた。
 面と向かって話すのはこれが初めてだ。最初に顔を合わせたのは此処へ来た数日前。それ以来柴崎はこの生物を見掛けても、こうして顔を向き合わせて話したことは一度もなかった。


「耳が良いんですね」
「耳というより、空気に敏感なだけだよ」
「それはそれは……さぞ気苦労も多いでしょう」
「そう思うなら、今回の話をなかったことにしてくれる?」
「ヌルフフフフ、それはちょっと聞けません」


 すみません、柴崎さん。黄色の触手を遊ばせて話す彼は、欠けた月と同じ三日月を口に浮かばせる。初めて呼ばれた名前を耳にしながら息を吐く柴崎は、そろそろ茜色に染まり出した空を見上げた。東の空には月が見える。夕方とはいえまだ明るいからか、輪郭はほんのりと白を帯びていた。
 最後に満月を見たのは体感でひと月ほど前。もうあれを見ることは叶わないのかと思うと、些か月にも郷愁の念を抱く。意識して見上げる回数は少なかったが、ふとした時に見つけた月が綺麗な円を描いていたとき、少しだけ足を止めた日のことを思い出す。


「お仕事は忙しいですか?」
「お陰様で。火の車だよ」
「ヌルフフフ、そうですかそうですか。火の車ですか」


 それはもうお尻が焼けちゃいますねぇと笑う彼の姿を、月から目を離した柴崎はその視界に映し出す。
 生物や国に歴史があるように、人にも歴史が存在する。太古にまで遡り、現代までを経て、国の繁栄は人が導き作り出してきた。唐突に蕾を付け、花を咲かせることはない。
 過去の人間が礎を築いてきたから今があり、人口は此処まで増加した。不便が便利に変わり、紙は電子へ、土の地面はアスファルトへと姿を変えた。その結果今過ごす生活が存在している。今では連絡を取り合うだけでよかった携帯電話すら、手放すこともできなくなった。不便も便利も、人が作り出す現象だ。何かが生まれるということも、同時に誰かが手を加えたことを表す。


「人並みの知識はあるんだっけ」
「ええ、それなりに博識だと踏んでいますよ」
「じゃあアルフレッド・ノーベルは知ってる?」
「はい。ダイナマイトを発明した人ですね」
「戦車や飛行機を発明した人は?」
「そうですねぇ、イタリアの芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチあたりでしょうか」


 どれも有名どころの発明家だ。他にも電池を発明したイタリアの物理学者、アレキサンドロ・ボルタも耳にする名だ。日本なら血清を病気の予防や治療に使う「血清療法」を考案した、細菌学者の北里柴三郎。他にも世界初、自動販売機を発明した豊田佐吉あたりが有名だろう。
 どれも歴史書に残るくらいには過去功績を残した偉人たちばかり。彼等がその当時研究を重ねてきたからこそ、今に繋がるものは多い。多くの時間と労力の末、発見したのだろうことは容易に想像ができる。
 こうやって自分たちの今は、過去の人々の行いによって形作られている。これは歴史書に残された事実だ。


「それがどうかしましたか?」
 

 だからこそ柴崎は思う。目に見える形で、且つ固有として存在しているものが、人の手ではない何かによって創造されることはほとんどないと。
 大抵のものに人の手は加わる。そうやって世界は歴史を築き上げてきた。


「ただの興味本位」


 烏間も柴崎も、細かいところまでは何も教えてもらっていない。ただ目の前にいるこの生物が、来年三月には地球を破壊する。その間教師として椚ヶ丘中学校3年E組の担任を行うこと。人とは明らかに違う身体能力を有していて、ペンタゴンでも殺せなかった相手だということ。
 知っていることより、知らないことの方が多い。これについての爆破の理由も、それに至った理由も。きっと暇潰しなどではないように思う。もっと他の、今の自分たちでは分からない何かが、彼にはあるように思えた。
 結局は全てこれから知っていけということなんだろう。上はそうは言わなかったが、とどのつまりそういうことだろうと察する。あれこれと話されなかったのが何よりの根拠だ。
 ポケットに手を入れた柴崎は、車のキーを手に握る。取り出したそれのボタンを押してロックを解除した彼は、再びそれをズボンの中へと仕舞い込んだ。何でもない動作だが、話はこれで終わりだという一種の合図のように殺せんせーには見えた。同時にただの興味本位だと話したそれが、単なる駄弁だとも思いにくかった。本質に近い部分、そこを掠められているような気がしたのだ。


「柴崎さん、貴方は、」


 何を知っているんですか?問われるそれに、柴崎はポケットの中にあるキーから手を離す。四月とはいえまだ肌寒い。桜に紛れて吹く風が、ほんの少しだけまだ冷たかった。殺せんせーの黒の制服の裾が揺れる。


「何にも」


 知っていたら何かが変わっていただろうか。否考えたところでそれに答えは出ない。知っていても、結果的に爆発を行うならそれは阻止しなければならない。これは国が決めたことで、指示された大きな一つでもある。余程でない限り、阻止に首を横には振れない。


「お前が思う以上に、俺は何も知らない。もちろん烏間もね」


 全てはただの考えに過ぎない。まだまだ確証のない話だ。本当かどうかも分からないし、単なる妄想なのかもしれない。ただ固有物を人の手なしに作り上げられるものは存在するのだろうかと思っただけで、それ以上もそれ以下もない。
 深い意味もなければ、不用意に探ろうとも思わない。国は隠蔽がお得意だし、恥ずかしい話虚偽も嘘も蔓延しているようなところだ。だから調べようたって、そう簡単に答えは得られないことも分かっている。
 地面を押し上げ遠くなっていく車の後ろ姿を、殺せんせーは小さくなるまでその瞳に映し出す。まさかかと思った。しかし彼は知らないと言った。何も、自分が思う以上に知らないと。それに固唾を飲んだわけじゃない。ただ少し、良い意味でほっとした。


「良い方が現場責任者に就いてくれましたねぇ」


 あれくらいの観察力と警戒心かある方が、安心してこの空間に居られる。同時に生徒達も任せることもできる。もう一人の烏間という男性も、彼と同様に冴えていた。賞金が掛かる以上、他の手が伸びてこないことはない。当然、金目欲しさに飛び込んでくる者はいるはずだ。
 もしもそのとき自分がこの場にいなかったら。きっと彼等が生徒達を守ってくれるだろう。そう殺せんせーには感じられた。仕事熱心で真面目な人の目は、どの時代でも変わることなく真っ直ぐなのだ。
 触手を遊ばせ殺せんせーは笑う。そのときに「あ!居るじゃん!」「先生見つけたー!」と飛んでくる生徒たちの声を聞くと、彼の口からは愉快そうな笑い声が聞こえてくるのだった。



 防衛省臨時特務部。名前の通り臨時なので、当てがわれた部屋は小さなものだ。人数分のパソコンと、一台の印刷機。部長と呼べる人は居ないので、此処では烏間と柴崎が実質部を指揮する立場に当たる。
 椚ヶ丘中学から帰ってきた柴崎は、省内に入ると真っ直ぐ部屋を目指す。首に掛けているIDカードを機械に触れさせ入室すれば、ずっと仕事をしていたのだろう烏間が音に気付いて顔を上げたのが見えた。


「帰ったか」
「ただいま」


 彼の前にあるデスクの椅子に腰を落とすと、どうだったと声を掛けられる。どうだったとは、暗殺の具合か、将又生徒達の様子か。どちらもなのだろうが恐らく彼はこちらだろうと踏んで、柴崎はこう答えた。


「元気にしてるよ。怪我もなさそう」
「そうか」


 少し緩んだ表情に、彼から目を離した柴崎は小さく目元に笑みを作る。仕事は忙しいが、子どもたちの様子を気にかけていないわけじゃない。定期的に顔を見せるようにはしているが、それでもなかなか足を向けることが難しいときがあるのも事実。だから二人一緒に行けなくても、どちらかは必ず時間を使って顔を出そうと先日話し合って決めたところである。
 子どもたちの様子を聞いて再び仕事に戻った烏間を前に、デスクの上に置かれていた資料へ柴崎は手を伸ばす。羅列されている文字に目を走らせながら席を立つと、後方からついでと言わんばかりに名前を呼ばれた。それにはいはいと返事をすると、給茶機近くにあるテーブルに紙コップを二つ置く。そして手慣れた様子で彼はインスタントのコーヒーを作り始めた。


「読んだか」
「ザッとだけど……俺二教科も持つの?」


 しかも文系の俺が進学校の数学担当って、適任じゃないと思うんだけど。と話す柴崎は、淹れたてのコーヒーの一つを烏間のデスクの上に置く。それから自分の分に口を付けた彼は、机に凭れながら不服がありますと言わんはわかりな表情を見せた。これには烏間も苦笑を浮かべてカップを傾ける。


「烏間担当してよ。物理得意でしょ」
「残念だが要望は数学だ」
「似たようなもんだよ。俺数字苦手なんだよねぇ……」
「学年上位だったお前がよく言う」
「烏間だってそうだったでしょ」


 あー……なんで俺が数学担当なのかなぁ……。呟きを落としながらデスクに戻る柴崎は、再び書類に視線を戻し中身に目を落とす。何度読んでも変わらない。烏間惟臣 体育担当、柴崎志貴 体育副担当、数学担当の文字が見える。防衛大の頃に教育課程を踏んでいるとはいえ、これはない。
 諦めて受け入れろと烏間は言うが、顔が笑っているので楽しんでいるのは丸分かりである。苦手だなんだと言いながら、少し教えたらすぐ解いてたじゃないかとフォローらしきことを言ってくれるが、フォローをするなら担当を代わってくれが柴崎の思うところである。
 変わらないんだろうな、もう決定事項なんだろうな。はぁ……と深いため息をついた柴崎は、持っていたカップをデスクに置くと、「中学三年って何したっけ……」と軽く宙に視線を投げた。彼此十三、四年前なので、記憶が朧げである。


「連立方程式の応用?」
「それは二年じゃないか?」
「あれ二年だっけ」
「多分な。三平方の定理だったり、空間図形が範囲じゃないか?」
「あー……なんだっけ、ピタゴラスだっけ」
「あぁ。なんだ覚えてるじゃないか。問題ないな」
「うわ、言わなきゃよかった」


 そうしたらこれは教えられないってなって烏間に振り分けが行くところだったのに、と話す柴崎は書類をパソコンの横に置いては光る画面に目を向ける。だがそれが彼の冗談だと分かっているからか、小さく笑うだけで烏間はそれ以上に何かを言うわけではなかった。
 ただ真面目な彼のことだろうから、思い出すために多少の勉強はするに違いない。なんだかんだ、割り当てられた仕事に責任を持ってやり遂げる。
 どうせ帰りにでも本屋に寄るのだろう。そう思っていると帰り際、部屋を出るときに「今日は本屋寄って帰る」と言うので、ブレない様に烏間は少し肩を揺らして笑ったのだった。


end.




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