夜の帳が下りるころ

 遠い昔の話だ。家族を喪い、仲間が消え、生きる希望すら途絶えてしまいそうな日々。満足な寝床もなく、食料もなく、目を覚ませばまだ生きていることに絶望を抱いたこともあった。生きていたっていいことはない。このまま野垂れ死に、誰にも知られないまま消えていくのが、この身と人生に与えられた運命なのだろうと、子どもながらに抱いたことだ。それでも自害を選ばずに生きていられたのは、たった一人の存在がいつも、いつも、そこにあったからだろうと。あれから十何年と経った今もそう思う。
 そんな彼とも、ある時を機に引き裂かれ、今や何処で何をしているのかも分からない。否、寧ろ生きているか、死んでいるかすらも知り得ない話だ。叶うならばもう一度と、そう何度願ったことか分からない。声も、顔も、手の温もりも、全て忘れず記憶の中にあるというのに、その姿だけがいつまでも遠い。

「伊月くん」
「如何されました、首領」

 首領と呼ばれた彼の名は森鴎外。裏社会では凶悪と言われているヨコハマのポートマフィアの頂点に立つ男だ。一見優しく温厚そうに見える彼の裏は、現実的で合理主義の塊だ。敵の考えを完璧に予測したうえで裏をかき、効率的且つ確実なプロセスで目的を達成する。そんな彼の少し離れたところには、クレヨンを片手に床に絵を描いている少女が一人。随分と不釣り合いな光景である。然しこれが森が所有する異能の力だ。
 呼び出されてそろそろ十五分。ノックを三回した後にこの部屋へ通され、首領ともあろう彼が態々席を立ち珈琲を淹れてくれたそれは、どうぞ飲んでくれ給えと和かに言われてから半分程が減った。目先に広がるとヨコハマの街は、今日は酷く平和だ。広がる蒼も、白も、目が眩むほどに美しい。
 彼がそう思えるようになったのも、総ては先程彼の名前を呼んだ、森の存在があってこそだった。命の恩人。尽くすべき人。忠誠と言ってもいい。と同時に森は彼を、まるで実の息子のように愛を注ぎ、可愛がり、そして今ではポートマフィア首領の腹心と豪語出来るほどの人間にまで育て上げた。切っても切れない関係。それは二十三年前の、あの日から始まったのだ。

「嫌だなぁ、首領だなんて。昔のように呼んでくれて構わないのだよ?」
「ご容赦を。部下に示しがつきません」
「もう、堅いねぇ」

 私は気にしないのにと呟くと、彼は自分にも用意した珈琲のカップを持ち上げると、一口それを舌に濡らした。その様子を視界に入れたまま、深海は懐かしい記憶の欠片を瞳の奥に仕舞い込む。今では遠い過去の話だ。長くこのヨコハマで生き、息を吸っているが、二十三年が経っても再会は無かった。それが揺るぎない事実であることには、変わりない。

「却説。今日来てもらったのはね、君に仕事を頼みたいからなんだ」

 と言っても難しいものではないし、君には申し訳ないくらいのものでね、と続く話はこうだ。ポートマフィアの支配下にある一つの組織が、外国とつくにで得た所謂大麻や麻薬といったものを密輸し、それを好き勝手と売り捌いているのだそうだ。
 実に陳腐な話である。取り立てて驚嘆を感じるでもなければ、鳩尾の奥深くが煮たつわけでもない。だからこそ前置きされた言葉に酷く同感出来るし、それを敢えて提示された理由が深海にはよく分からなかった。しかし意図せず言動するような人ではないことを知っているだけあり、このことにも何か意味があるのだろうと、彼は胸に抱いた疑問を口にすることはなかった。

 慎ましいものだ。森はソファに腰を落とした深海の面貌・姿貌を見てはそう思う。余計なことは口にせず、必要なことだけを表に出す。慎重と言えば否定は出来ないが、合理的であると言えば実にそうだ。だから森は慕わしく感じた。従順だから、だけではない。物事を表面だけで捉えない、その思考の深さにだ。

「この程度のことで君を駆り出すには心苦しい。けれど此処最近、君には書類整理を任せてばかりだっただろう?退屈させているのではないかと思ってね」

 急だが今夜、戌三つ時だ。

「頼めるかな?」
「首領の命とあらば」

 今夜、運命を変えるかもしれない。否、見える未来や世界が変動するかもしれない。止まっていた二十年余りの時計の針が動き出すように、今ひとつ隣へ、カチリと音を当てた。森は頭を下げたあとこの部屋を後にする彼の後ろ姿を見送りながら、椅子に背中を預ける。
 これが最適解だと言えるかは、わからない。自分らしくないと彼は小さく窃笑する。けれども可愛い息子の心に眠る願いを、見過ごし、無下にもし辛かった。

「リンタロウ、ニヤニヤしてて気持ち悪い!」
「ん〜〜っエリスちゃーん!もう!けど可愛いから許す!」



◇◆◇



 ──「烏間」

 声が聞こえる。まだ幼い声だ。暗闇の中、生きる希望も見えないあの時、彼の声がいつだって生にしがみ付かせた。会えなくなって二十三年。今や生きているのかも分からない。あのとき、あと少し手を伸ばすのが早かったら。そう何度考えたことか分からない。けれどその一寸が届かず、指先を掠める程度で終わった。一瞬の出来事が絶望を起こす。
 あれ以来、彼の消息は分からない。生きていて欲しいとこの心は望んでいるが、いつだって人が死に、生き、綱渡りのような世界があのときにはあった。彼が生きている可能性は、たった数パーセントの確立に過ぎないのかもしれない。

 探偵社の窓の外を走る車や歩く人の姿を、烏間はそこから見下ろす。あんな風に、想う彼は歩けているだろうか。それとも、そこまで考えて彼は瞼を落とす。生きていて欲しい、もう一度会いたい、あのときのことを謝りたい。そして、生きているなら今度こそ。

「烏間さん」
「、太宰か」

 瞑っていた瞼を持ち上げ、窓の外から目を離すと彼は後ろを振り返る。そこには探偵社員一人である太宰治が立っていた。日頃から自殺がどうの、心中がと到底理解が追い付かない発言をいけしゃあしゃあと吐き出しては仕事をサボり、国木田からの雷を落とされていることである意味有名な社員だ。だがお巫山戯の裏側には計算尽くされた行動や思考が隠れており、此処探偵社では烏間と対等の頭脳の持ち主だった。

「今、少し時間はありますか?」
「問題ないが、どうした」

 彼がこうして話し掛けてくることは珍しくない。作戦の立案に意見が欲しいと言ってくることもあれば、今日の心中は上手くいかなかったと愚痴りにくることもある。後者に至っては、今更止めろと言って聞く事柄でもないため烏間も余計なことは言っていない。ただ他の社員の手を煩わせない範囲で行えと、助言のみをしていた。
 そんな彼が、何やら真剣みを帯びた顔付きでこうして声を掛けてきたのは、お巫山戯け、或いはと烏間は思考を巡らせる。けれどこの顔付きはどうやら前者らしくなさそうだ。向き直れば案の定、太宰の眦が僅かに和らぐ。真意が届いたとでも思っているのかもしれない。こつりと靴底の音を鳴らして、彼は窓際までやって来る。そうして先程の烏間と同じように、太宰もまた移り変わる街へとその目を移した。


「単刀直入に言います。烏間さん、貴方にはずっと探している人がいますね」

 そしてその人が今も生きていることを、切に願っている。烏間は太宰からのその言葉を受けて、一瞬は震えた心臓も、次第に緩やかな波へと戻っていく。相手はあの太宰だ。このように問いかけられ、否ほとんど確信した形で告げられても可笑しくは感じられない。
 ずっと探している人。その存在が自分の中にあるかないかを提示するなら、答えは前者だ。幼いながらに抱いた想いが、大人になるにつれ形となった。けれど気づいた時にはそれを伝えたい人の消息は不明。探す手立てだって未だに見当たらない。

「私が探偵社に来て早二年ほどが経ちますが、その間私は幾度も考えた。理由は根拠が無かったからです。……然しそれも、遠い記憶を辿り導けば、その根拠の無さこそが初めから無いもの同然だった」

 裏社会から足を洗う前の話だ。ヨコハマを裏から牛耳る凶悪の集団組織、ポートマフィア。そこにはあの森鴎外の腹心としながらも、マフィアらしからぬ程に白に寄った男が居た。表裏関係なくあまり顔を出していないのか、─否、今思えばそうさせていたのか─名前を知る者はポートマフィアに属する者だけ。酷く異端で、且つ殺しとは遠く掛け離れた人物のように、初めて会った時太宰はそう感じた。
 関わりを待てば待つほど、彼は殺しに向いていなかった。──心が優し過ぎるのである。それゆえに、部下の死は彼の心を甚く傷付けた。けれど当時、太宰が心惹かれ目を離せなくなったのは、その部下の死を受けた彼の姿を、暗闇の世界で瞳に映してしまってからだ。
 あれほどに美しい異能は見たことがない。同時に、あれほど閑かに人の命が消えて行く様も。決して殺戮に特化した異能力ではない。形容するならばあの人のように儚く、溶けて消えてしまいそうな程に繊細だった。

 五代幹部の一人である尾崎紅葉と、当時は相棒、現在は元と名の付く重力使いの中原中也が兄のように慕う人。そして冷酷だと囁かれる森鴎外が、年齢の壁を超え、唯一実の息子のように愛を注いだ人。

「烏間さん。私がこれを貴方に伝えれば、貴方は後悔するかもしれない。けれど長く答えの無かった問いに、」

 終止符を付けることが出来る。そう続くはずだった。だがそれは烏間の発した「後悔は、」という言葉に音を途絶えさせ、太宰の喉の奥へと消えて行く。
 続く先にある彼の言葉は、恐らく生か死か。答えは一つに二つだ。たった一度の後悔と絶望。それが二度目となるのかならないのかの答えは、内側から体を揺らすような心臓の鼓動が教えていた。

「後悔はもうした。これ以上の後悔は恐らく、あいつの死を俺が認めた時だ」

 伸ばした手があと1センチでも届いていたら。一瞬でも反応が遅れたあの足が、一秒でも早く動いていたら。この異能を今のように使い熟ていたら。そうやって思っても仕方のないことを、戻らない過去であることを知っていながら、何度も何度も思った。悔しくて、未熟だった自分を認められなくて、過去も自分も受け入れるまでに随分と時間が掛かった。
 今はようやく自分をほんの少し、認められた。あの頃よりは強くなれたとも思う。だからもう、これから先告げられることがどんな形であろうとも、烏間は受け止める心算だった。
 
「……安心しました。貴方なら、」

 否、この人だったから彼の人もまた捨てられずにずっと胸の中にしまい続けていたのだろう。そして月夜に空を見上げて、髪色に似た満点をあぁも焦がれるように瞳に映していた。もしかしたら永遠に逢えない人を、片時だって忘れないように。
 果たして"あの人"はこれを見越していたのだろうか。実際その真意は定かでないが、底知れない人であることは太宰も重々承知の上。単純に、笑った顔が見たい。ただそれだけだったのかもしれない。それに此処探偵社の社長であるあの人だって、事情を知れば首を横になど振らなかった。それはつまり、彼もまたあの人と同様の気持ちが胸にあるからだろう。


「烏間さん。貴方の尋ね人は───」



◇◆◇



 戌の刻、三つ時が半分程経とうとした頃だ。海の近くにあるコンテナに併設されるように連なる廃倉庫の一つ。その入り口の前には隠れもせずに立つ一人の男の姿があった。彼は先に見える真っ暗闇を視界に映すと、静かに瞼を落とす。

「──異能力、『夜半よわの玉塵』」

 肌を滑り、時に突き刺すような冷気が辺りを占めていく。白い淡雪がちらほらと落ちた。騒つく気配が数メートル先から数人分。けれどそれも間もなく閑かになり、再び辺りは静寂へと戻った。足元から感じるしんとした空気は、今のこの季節を思えば似合わない。
 男、深海は一歩二歩と廃倉庫の中へと足を踏み入れさせる。歩くたびに靴底が鳴らす音が辺りの壁に反響した。その音が途絶えると、彼はゆっくりとそこへ腰を落とした。どうやらまだ息があったらしい。

「恨みはないんだけど、首領がお困りだから」

 ごめんねと。そう告げてから、なるべく苦しい思いなどしないように、その青白い頬へと彼は手を伸ばす。まだ仄かに温かみのあった肌は次の時には冷たくなり、人の生気は氷のように冷たくなった。
 彼の異能力、『夜半よわの玉塵』は触れたものや淡雪を降らせた範囲の温度を下げ、凍結させる。調節さえ間違えなければ人を殺すものにはならない類だが、反面調節さえ出来れば、生かすも殺すも行えてしまう異能力だ。昔はこれが嫌いだったと、深海は言う。人の為にもなれない、冷たくさせるだけの能力なんてと受け入れられなかった。けれど、あの人は言ってくれた。降る淡雪が、綺麗だと。子どもながらに単純だったと思う。それでもただその一言が、この異能力を少しずつ好きになれたきっかけでもあった。

 落としていた腰をゆっくりと上げる。息を吐けばそれは白くて、指先が少し冷たかった。握って先を手のひらに触れさせても、凍えたそこは温まらない。踵を返すようにして深海は廃倉庫を背にする。
 あとのことは、昼間の段取り通り中原の部下がしてくれるのだろう。手間を掛けさせて申し訳ないというのに、彼はいつだって「構いやしねぇさ、これくらい」とあっけらかんとして笑ってくれる。終いにはちゃんと寝てるのか、食べているのか、無理はしていないかと気遣ってくれ、任務の帰りに買ってきたんだと言う土産物まで手渡してくれる子だ。
 とうの昔になくした家族。けれどポートマフィアが新しい家族となった今、例えどれだけ己が殺しに向いていないと分かっていても、切れやしない一つの縁。心を痛め、死を嘆いても、血より濃いものを裏切ることなど、今更できない。

 生温い風が海より感じる。塩を纏ったその香りが鼻を掠めれば、波の音が静けさを纏いながらも鼓膜を揺らした。時刻は戌の刻を終えようとしている。夜の海を一寸眺め、光るネオンが反射する水面は夜と雖も煌びやかなものである。まるで海の向こうに、もう一つのヨコハマがあるような錯覚だ。手を伸ばせば、一体どこへ行けるのだろう。
 石が掠れる音がした。近くに人が居るのかもしれないと察した深海は、海から目を離し、音とは逆の方向へとその足先を向ける。けれど海とは違い、波とも違う。光るネオンが奏でるものでもない音の連なりが足を止めさせる。聞こえた声は低くて、記憶の中のものとは随分と違っていた。それでも間違いでないと、震える心は唱えているのだ。
 止まった足は前へと進もうとしない。それどころか動こうともしない。吸い込む呼吸の音が酷く響く。だがそれ以上に再びと紡がれる音色が、あまりにも視界を大きく揺らした。


「深海」

 嗚呼、これは一体夢であろうか。それならば何て酷い。人の命に手をかけてきた報いなのかもしれない。揺れる視界を瞼を落とすことで世界から切り離し、そして再びと持ち上げた深海は、靴底で僅かに地面を削った。
 息を飲んだのは何方だろうか。微かに吸った呼吸すら今や震えてしまう。一歩、二歩と縮まる距離に体が動こうとしない。夢ならばいっそ此処で醒めて欲しい。そう願うのに、心の裏側では醒めないでと、切望している想いがある。何度も息を深く吸う。吸うたびに震え、苦しくなる胸が、これを現実なんだと己に知らしめてきた。


「……随分、綺麗になった」

 二十三年。会えなくなってそれだけの年月が経った。それまでの間、どれほど苦しかったことだろう。勿論幸せを感じたこともあった。嬉しいと、楽しいと、思える瞬間だってあった。けれど心の底からそれを感じられたことは、一体どれだけだろう。きっと両手では余り、片手で充分の回数だったのかもしれない。

 嗚呼本当に、信じられない。あまりのことに言葉も出てこない。それなのに瞳の奥は正直で、溢れるそれは目尻から滑るように宙へと落ちていく。
 少しだけ躊躇うように動く手が、次第に意思を持って伸びてくる。そうしてそれが頬に触れたとき、深海は今自分が泣いていることを初めて知った。


「…烏間…」
「……あぁ」
「…本当に、」
「…あぁ、本当だ」

 生きている。生きていた。再び出逢えた。たったそれだけがあまりにも胸を焦がしてくる。そ、と両手を伸ばし、途中躊躇いながらも深海は烏間の頬に触れる。温かい。とても、人が生きている温もりを感じる。そのことが堪らなく、嬉しかった。想いを言葉に出来ず、伝えたいものがまとまらない。落ちる涙が止まらなくて、彼が生きていたことが信じられない。

「お前に、会いに来た」

 だけれどこつりと触れ合う額と額が、あまりにもあまりにも、愛おしかった。



 長く離れ過ぎていて、どのくらいの距離に身を置けばいいのか分からない。そう話す深海に烏間は眦を和らげると、立ったままでいた彼の手を取り少し引き寄せ隣に座らせる。その時微かに体に力が籠もったが、隣に居るのが紛れもなく烏間であることを認識すれば、次第に深海の肩から力は抜けていった。

「…太宰治、知ってるか?」
「、うん」
「あいつが教えてくれた。お前のこと、何処にいるのかも、どうして生きてきたのかも」
「……そう」

 それはつまり、自身がポートマフィアに属していることも彼は知っていることになる。加えて烏間の口から太宰の名前が出たということは、彼と深海は相容れない組織に身を置いていることを分かりやすくも証明させた。

「……幻滅、したでしょ」

 無駄な殺しは、してこなかったつもりだ。けれどあの人が望むなら必要なことだと思って手にかけたこともある。そうは言っても善か悪かを唱えれば、ポートマフィアの所業は悪。ヨコハマを愛し、ヨコハマを守るためとはいえ、それが相手の命を奪うことでしかし得ない訳ではない。違った方法だって、きっとたくさんあった。

「首領……ポートマフィアの森さんにね、二十三年売り飛ばされるところで命を救ってもらったんだ」

 だからと言えば、聞こえは良かったのかもしれない。けれど選択はそれしかなかったのだと言えば、ただの言い訳になる。どの道この人生とこの手が行ってきたことは、罰せられれば死刑も同然。洗い流すには二度の人生を歩む必要があるくらいだろう。

「これも、太宰から聞いてた?」
「…あぁ。悪いな。本人の了承を得ず、勝手に」
「ううん、気にしてない。もしまた会えたら……そうなれた時には、いつか伝えなきゃいけないことだと思ってたから」

 運命は残酷だ。長い年月をかけて漸く再会が出来ても、次に阻むのはお互いの立場の相違。探偵社とポートマフィアが今後同盟を組む様子は見えないし、場合によっては敵対する可能性だってある。そうなれば、自然と烏間と深海も敵同士。

「……生きていて良かった」
「、」
「さっきお前は、俺に幻滅したかと聞いたが…生憎そんな風に俺には思えなかった」
「…どうして…」

 どうして、そう尋ねられると烏間にとっての答えは至極簡単なことだった。彼が生きるためにはそれしか方法がなかった。生かしてくれた人に恩を感じているから、裏切れなかった。変わらないのだ、たとえどれだけの時間があの頃から経っていても。根底にある深海という人間性は変わらない。それに、と。烏間は太宰の言葉を思い出す。「私にはどうしてもあの人に黒は似合わないと思うのです。部下の死を悼み、傷付く姿を好まない。何よりこの街の平和を誰よりも望んでいる」「それでもあの人がポートマフィアを抜けないのは、森さんに恩があるから。そして、ポートマフィアというあの人にとっての唯一の家族を、大事に思っているからです」
 私はあの人のそんなところに、酷く惹かれました。酸化した世界の、黒の中にいるのに、限りなく白に近い、あの人に。そう話す太宰は、ポートマフィアを抜けると決めた夜、深海の手を強引に取れなかった理由がそれだと、続けて話していた。

 確かに人の命に手をかけるという行為は許されるべきではない。世間的にも常識的にも、人の道徳からは外れた行為だ。それでも烏間は思う。彼にも彼の信条があり、そして守るべきものがあり、それを成すためにそこに居て、そのために取った手段であり、行為であるのだと。
 それに、何より彼が生きていた。烏間にはただそれだけで良かった。黒の世界で生きようが、白の世界で生きようが、どれほど月日が経っていようが、深海伊月という根本は変わっていなかった。
 ならばそれ以上に求めることは、何もなかったのだ。


「二十三年が経ち、生きる世界が変わっても、深海は深海のままだった。何より再び、こうして会えた。…それだけで十分だ」

 空いていた穴が埋まる感覚。同時に、自分の心には穴が空いていたことを今初めて認識した。否、見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。だから気付いていても、知らない振りをしていたのかもしれない。けれど今、烏間の言葉が欠如していたそこに溶け込むように入り込んでくる。
 年を重ねても、深海は自分自身を認めてあげられなかった。それが今ようやく、彼の言葉を得て初めて自分を認めていけるような気がしたのだ。

「太宰から聞いていた話では、泣いた姿は見たことがないと言っていたが、そこだけはどうやら違っていたな」
「…ふふ。烏間と会えて、気が抜けちゃったのかも」
「、…そうか。それなら泣き止ませるのも、俺の役目だな」

 笑ってくれるのに、何処かいつも寂しげだった理由は──。その先に続いた答えと今感じた答えが、どうか同じであれば良いと烏間は思う。そうなれば、今浮かべてくれた笑みが然りと裏付けてくれるから。
 頬を包んで、額を重ねて、間近に見える潤んだ瞳に少し顔をずらして唇を寄せる。ほんのり色付き始める白い頬の体温が、手のひらから伝わってくる。それが得も言われぬ程に烏間に幸福感を抱かせた。

「深海」
「…なぁに、烏間」

 二十三年に、終止符を。連ねた言葉のその先に、目の前の思い者は再会の月夜に酷く似合う笑みを浮かべた。そうして掠めるよりも長く、けれど触れ合うよりも短く。影が重なるその寸刻は、名残惜しさと愛しさが混ざり合うようだった。それでも夢ではないことを知ってしまったから、


「時よ止まれ、あなたは美しい」

 もう二度とあの時のように、指を掠めさせることはない。



◇◆◇



「息子を想うが故に結ばせたとは、探偵社はよう許したものよ」
「上手く伝えてくれたんだろうねぇ。何せ太宰くんも伊月くんには甚く懐いていた。叶うなら、と心が動いたのではないかな」

 それに結果上手くいった。これで良かったじゃないか。そう話す森は、窓から見えるヨコハマの地に目をやれば、先程此処へと戻ってきた愛息子の姿を思い出し、優しく微笑む。その彼のすぐ側のソファには、五代幹部の一人である尾崎紅葉の姿があった。彼女はそんな森の様子に暫し瞠目をすると、袖で口元を隠し忍んで笑みを浮かべる。

「のう、鴎外殿」
「ん?」
わっちも伊月を兄のように慕うておるでのう。然ればかような姿を見れたことは、何よりの倖せじゃ」

 時折見せる悲しげな瞳、その理由は紅葉も森から聞いていたために知ってはいた。だからこそ、いつかは叶えてやりたいとは思っていたのだ。けれど彼の想う人が何処にいるのか、果たして生きているのかすら分からない現状下で、どうにかと手を回してやれることも出来ず、せめてとその心の隙間を埋めてやるかのように家族として接してきた。しかしそれも、二十三年という年月を経てようやく。

 先程すれ違うように顔を合わせた時に、「こんばんは、紅葉」と。ただそれだけだというのに、今までとは比べものにならない程に、声も、表情も、随分と柔らかいものであった。そしてそれが念願が叶ったものであると知れば、これほど嬉しいことはなかった。

「明日はお赤飯を用意しようか」
「それは良いのお」

 

 あの後烏間と別れた深海は、ポートマフィアに戻り報告を行うと、甚く笑顔な森の様子に小首を傾げた。けれど戻って構わないよと見送られれば、留まる理由もない為に彼は森の執務室を後にした。本当は烏間と別れることに名残惜しさはあったものの、これからはいつでも会えるのだと知れば、暫しの別れくらいなんともなかった。
 本当ならばこのまま帰路に着いても構わなかったのだが、いかんせん時刻は既に夜中を回っている。今から戻っても、朝には此処に来なければならない。とすると、戻らず執務室の隣にある仮眠室で眠る方が余程良い。そう結論付けた深海は、通路を歩き宛てがわれている自身の部屋へと足を向かわせていた。

「兄さん!」

 けれど背中から掛かる声に足を止め振り返ると、こちらへと歩いてくるもう一人の五代幹部、中原中也の姿がそこにはあった。

「帰って来たんだな。怪我は?」
「ただいま。怪我はないよ。ありがとう、中也」

 いつも気に掛けてくれて、と続ける深海は近くまで来てくれた中原にそう伝える。けれど一体どうしたのか、目の前の彼はパチパチと目を瞬かせてはまた一歩と近寄ってくる。そうしてじっと見つめられたあと、彼は感慨深いようにして腕を組むと、溜め込んだ息を深く吐いた。

「今の兄さん、すげェいいぜ」
「?そう、かな」
「おう。なんつーか、自然っつーか……きっとそれが地なんだろうな。元々兄さんはそういう雰囲気の人だったが、今の兄さんはそれに拍車がかかったみてェに柔らけェもんを感じる」

 なんか良いことあったのか?と、尋ねられるそれに浮かぶのはたった一つ。生きる希望だった人で、逢いたかった人で、愛しい人。立場は違うけれど、今はもう待たなくても良くなった。逢いたいと思えば、逢えるくらいには近くなれた。想いを言葉にして伝えたら、それが返ってくる。そんな小さなことが、とても嬉しくて幸せで。
 仕事用ではない携帯に、彼の名前と連絡先が入っているのが今でも夢のようの話だ。だからふと、こんな一度に幸せをもらっていいのだろうかと不安になった。それゆえに「声が聞きたくなったら、掛けていい?」と尋ねれば、烏間は少し間を置いたあと、笑ってこう伝えてくれた。


「うん。とっても幸せなことがあったんだ」


──「声だけじゃなくて、言ってくれたら会いに行く」

 
 嗚呼、そっか。そんなことも出来てしまえるんだ。そう思うと嬉しくて、また会うことも出来るのだと理解すれば次が待ちきれなくて。だからつい、別れ際に抱き付いてしまった。正直今思い出すと少し恥ずかしいのだが、それでも彼は受け止めてくれたことが、またとても嬉しかった。


「…………兄さん、」
「うん?」
「兄さんがそうやって笑ってくれんのはスゲェ嬉しいんだが、撒き散らすのはやめた方がいい。いや俺も紅葉の姐さんもボスも勿論んな馬鹿なことがあれば容赦はねェ。兄さんが弱いとも思っちゃいねェ。だが油断は禁物って言うだろ」
「ん、と……うん、わかった」
「本当か?今意味分かってねェまま分かったっつってねェか?」
「ん〜〜…半分くらい」
「……こりャあ五代幹部会だな」
「えっ」

 早いとこ姐さんとボスに審議してくる。ただそれだけを言い残すと、珍しくも小走りで通路の奥へと駆けて行った。恐らく向かう場所は森の執務室だろう。本当なら引き止めるべきだったのだろうが、なかなかに冗談ではない顔付きで言われてしまうと「一寸待って」とも言えず、そのまま見送ってしまった。そのため行き場を失った手はゆっくりと下げられ、足の横へと落ち着く。


「……どんな顔してたんだろ」

 自分の顔なのによくわからない。頬に手をやりむに、と触った深海だが、彼の近くを通った構成員の一人が思いも寄らない光景に胸を押さえ、咳き込む声を死ぬ気で飲み込んでいたことは知らない。

 それから数日が経ったのち、午後から休みを貰えた深海が嬉しそうに誰かに電話を掛け、そして偶々出会した紅葉から「随分と愛いのう。嬉しいことでもあったかえ?」という問いに、「とても」と。たった一言だというのに甚く幸せそうであるためか、彼の身を案じ護衛を付けさせようとしたのは別の話である。

「烏間」
「深海」


end.
title by icyさま



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