甘く苦く、そうあればいい


三月も二週目に突入すると、寒いような、けど一月や二月ほどではないような感覚を肌で感じる。
そしてそれを知るたびに、あの日の、あの時のことを思い出した。

肌を刺すような風が通り抜ける、冷たい空気が生んだ澄んだ星空の下で。最期の最期を迎えるその時まで、誰もが生きる希望を捨てずに、同時に別れの時が刻一刻と迫ってきていることから目を逸らさなかった。

一年間という長く短い、それでいて思い出が溢れるあの時間。そしてそこでの出会いと、多くの経験。
たった一度きりの、変わり行く四季を共に過ごしたあの日々で学んだことを、皆が忘れず胸に抱きながら、丁度一年前の今日。
生徒たちからすれば恩師。教師たちからすれば同僚である、誰よりも「先生」だった彼が、天へと旅立った唯一の日だった。



朝、目が覚めたときから柴崎は今日という日をどこか待っていたように感じた。
それは一年前のあの日からなのかもしれないし、近づいて来たと感じた、丁度ひと月半程前からなのかもしれない。

瞼を持ち上げれば、その先に朝陽を感じた。
シーツから体を起こすと、柴崎はベッドの上にそのまま腰を落ち着かせる。目先にある窓に目をやると、そこへ手を伸ばし、カーテンに触れては横へと引いた。
すると遮られていた太陽の光が、眩しいくらいに部屋の中へと射し込むので、彼は少しばかりその瞼を閉ざしてしまった。
けれど朝が来たことをこの光が感じさせてくれているのだと思うと、窓から注がれるそれにそっと瞼を落とした。


三月十二日。
忘れもしない、あの時の記憶。
烏間も柴崎も、なんとか、どうにかと。彼が生きられる方法はないかと模索をし続けた。だが現実は虚しく、彼を生き長らえさせる方法は見つからなかった。
だから代わりにと、彼が望む死に方で最期を迎えさせてあげるために、政府の中に居ながらも出来る限りのことをし、そしてあの日の、あの夜を迎えた。

ハッピーバースデーと、愛する生徒達に囲まれ祝われていた彼の姿は今でもハッキリと脳裏に浮かぶ。
とても嬉しそうで、幸せそうで。
あの時柴崎は、この時間がずっとずっと、切れることなく続けばいいのにと心の底から願った。
そうすれば生徒達だって悲しまなかった。彼が死ぬことも、きっとなかった。

彼が愛した女性ひとと、彼の弟子の元へ、行かせることが本当に正しい未来だったのか。
そう考えはすれど、もうあの頃の過去を巻き戻し、やり直せるわけもない。

彼はもう居ない。
あの日の夜に、生徒の手によって華々しくも命を天へと捧げた。これは揺らぐことのない事実だ。


衣擦れの音が部屋の中に馴染む。それを耳に拾って、スプリングで僅かにベッドが揺れたあと、柴崎は肩に温もりを感じた。
引くでもなく、寄せるでもなく。ただ胸へ凭れさせてくれる彼の、烏間の体温を知った柴崎は、緩やかにその口角を和らげる。
そのあと額に掛かる前髪へ落ちる唇に、少し瞼を閉じ、再び持ち上げれば、今日初めて彼は烏間と顔を合わせた。


「足、冷えるぞ」

「脱がした人なのにそういうこと言うの?」

「脱がせたから、言うんだ」


冷え性なんだから、足は冷やすな。そう言って烏間は近くにある布団を引き寄せ、柴崎の足にかける。
ほんのりと温もりを感じるそれになのか、それとも烏間の行為と言葉になのか。
少しだけ柴崎の頬が綻んだ。


「今日はタートルだな」

「えぇ…まさか首に付けたの?」

「ここからだと良く見える。…此処と、あと此処」

「わぁ、際どい」

「それから此処と、此処もだ」

「ねぇ、ちょっと、付け過ぎでしょ……」


指の腹で触れられる部分は大体首元と、首筋あたり。とてもではないがそこが開いた服など着れもしない。
確実にタートル確定案件だ。その上首なんて場所は鏡がない限り自分で見ることなんて叶わない。
今教えてくれた数だけでも四つ。それだけで収まっているだろうかと思っても、なんとなくあと数ヶ所はありそうだと、見もせずに安易な直感が働いた。

もう…と一言落とす柴崎だが、特段怒ったような色は見せていない。仕方がないなと、享受をするような優しい甘さ。
凭れた体勢のままでいても、烏間が彼を邪険にする様子はない。そのままにさせて、時折指通りのいい髪を解く。
さらりと指と指の間を流れていくそこからは、同じシャンプーを使っているにも関わらず、自分とはまた違った、柔らかい香りを感じた。
烏間の鼻先が彼の髪へ寄せられる。すると腕の中からくすくすとした優しい声が聞こえて来るので、まるで歌詞のない子守唄のように感じた。

ねぇ、と。掛けられる声に返事をする。腕と、そして胸に凭れている柴崎は、烏間の胸元に片方の耳を当てた。
とくん、とくん、とくん。
波打つその音に耳を澄まして、彼が生きている鼓動を感じる。振動のように伝わって来るそれは自然と瞼を落としてしまえるもので、だからつい、柴崎はその双眼を静かに伏せた。


「早かったね」

「…そうだな。あっという間の一年だった」


別れを告げた三月。
春を迎えて、それぞれが新しい門出を迎えた四月。
少しずつ周りの環境に慣れて来た五月に、いつまで降り続くのだろうかと空を見上げてしまう六月。
じとりと、汗が滲み始める七月と、蝉の声を近くに感じるようになる八月。
まだまだ夏の名残を感じさせる九月がやって来ると、紅葉が見頃になってきた十月。肌寒さを感じて、少し厚手のものを取り出し始めた十一月。
イルミネーションの輝く十二月と、新たな年が始まった一月。
寒さの厳しい二月はみんながマフラーを首に巻き道を歩けば、三月、その寒さが少しばかり和らぎ始めた時期だ。

そうやって、一年という月日を彼らは四季を感じながら生きてきた。
何処かであの頃の一年間と重ねながら、あのときはこんなことをしていたと懐かしむように。
そして季節を感じる度に、夏には沖縄に行って、秋には体育祭に、考査があったなと。少し前の話だというのに、まるで遠い思い出を語るようにして振り返ったこともあった。



「丁度二年前の今日辺りに、上からの呼び出しを受けて、お前と俺に辞令が出された」

「うん、そうだった」

「ニュースにも新聞にも載っていたから、それに関連することかと予想は立てていたが……一学校の、しかもそこで教鞭を執ることになった警戒対象とそれに関係する生徒の監視・監督に当たれなんて命令、露ほども思わなかったな」


そう。二年前の丁度今日辺りに、烏間の言う通り柴崎も彼と同じように上からその命令を受けた。
あの月の一件かもね。あぁ、あり得るかもな。なんて話を少し笑ってした数分後のことだ。
今の部署から臨時特務部への辞令を出され、残り三名の部下を配属をさせるから、五人で今回の任務には主に当たって欲しいと、そう告げられた。
正直、荷が重いと感じたのは嘘じゃない。
だがそれでも、烏間も柴崎も上からの辞令を受けた理由には責任感や、期待をされているからと、そんな評価が決定打になったのではなかった。



「俺が、相手が柴崎でなければ断っていたと言えば、お前は笑うか」

「ふふ、ううん。笑わない。だって俺もそうだから」


荷は重い。責任も過多であることは、書類等を手元に貰っていない時点でも分かり得ることだ。
失敗はできない上に、必ず上からの尻叩きはあるに違いないとも予想ができた。
だがそうと分かっていて、察し付いていても、互いにバディーを組む相手が隣に立つ彼であるならやれると、あの時そう思えた。
だから任務を受けたし、頑張ろうとも思えた。どちらが挫けそうになっても、どちらかが背中を押せばいい。そして、支え合えばいい。だから大丈夫だと、そう判断して彼らはあの日、あの任務を受けた。


「烏間だから、安心できて頑張れるって思えた。相手がお前じゃなかったら、俺だって渋っていたかもしれない」


もしくは、少しお願いをして烏間に変えてもらえないかと頼み込んでいたかもしれない。なんて、そんな融通が利くかは分からないけれど。
でもそう思えるくらい、やはりあの任務はそう容易いものではなかったように思う。
仕事の量だけではなく、精神面。忍耐力。思考力に判断力。それらが酷く試され、時には決断をその場でしなければならない場面だってあった。
とてもではないが、すぐに心がぽきりと折れてしまうような職員では務まらなかったと、今になって烏間も柴崎も感じる。


「烏間が居てくれたから、迷った時も、しんどいなって思った時も、目を背けてしまいたいって気持ちが弱くなりそうになった時も、後ろに倒れないで居られたんだと思う」


彼でよかったと、柴崎は思う。烏間があの任務でのパートナーで、共に壁を乗り越えられるバディーであったことを、本当に。

肩に触れていた手が、柴崎の頬から顎を後ろから掬う。少し目線の上がったとき、こつりと触れ合う額と額の感触に、彼は自然と眦が和らぐ感覚を得た。
それは烏間も同様らしく、閉ざした両瞼の目尻が僅かに緩く、優しくなる。


「色々とあったが、あの任務のお陰な部分も多々ある」

「うん?」


瞳を烏間へと向ける。すると閉ざしていたそこを持ち上げた彼のそれと、柴崎は目が合った。
優しい色。まるで彼の性格を表すような、瞳の奥に宿る温かい色彩。
柴崎はそんな烏間の瞳が好きだった。初対面だと規律やルール、仕事に厳しいように見られがちだが、関わり合っていけばその時には見えなかった部分が段々と見えてくるようになる。
言葉の裏に隠された優しさ。行動に滲む、思い遣りや温かさ。
烏間の瞳は、そんな彼の性格や思いや行動を、深く滲ませているように思えた。
だから好きだと感じた。彼の瞳も、彼自身も。


「踏み出せるようで踏み出せないあと一歩を、俺はあの時に出すことができた」


それは、長年の恋。近付いて、遠ざかるような恋心。
環境や時間や境遇。そんないろんなものに阻まれて、例えどんなに長く、言葉にしなくても本当は想い合っていても、出し切れない一歩があの時には確かにあった。
けれど柴崎自身が過去とちゃんと向き合い、辛い記憶をただ忘れないために背負うのではなく、忘れないようにしながらも、今度は自分の幸せにも目を向けられるようになった。
人からの想いに怯えることもなく、自分の想いへ徒らに蓋をすることもなく。
恋や愛に、ちゃんと向き合えるようになれた。

だから、烏間も目には見えないラインの向こうへと足を踏み入れることを決意できた。

柴崎は烏間のその言葉に、あぁ、あの時のことだと。一年前の秋を思い出す。
息抜きのために校舎の裏側に行って、そうしたらそこには彼が居て。
今思えばあれも、あの時休憩をしに行かなければ、なかった未来なのかもしれない。息抜きに選んだ場所が、校舎の裏側ではなかったら、どうなっていたんだろう。
そう思うから余計に、あの時自分が選んだ場所を柴崎自身悔いてなどいない。

むしろあの日、あの時に。あの場所へ向かった選択は何よりも正しく、何よりも幸せな未来へ繋がる選択肢だった。



「…すごくね、嬉しかったんだよ」


少し身を動かして、柴崎と烏間の顔が同じ高さあたりで向き合う。
まだ起きて、何もセットなんてしていない髪。けれどそれが、外とは違う烏間の姿を見られることが、彼は幸せだった。
見た目よりも少し柔らかくて、自分とは違う真っ黒な綺麗な髪色。そして自分よりも、しっかりとした体。切れ長な目元に、自分よりは僅かに濃い肌色。
烏間の頬に触れて、柴崎はあの日のことを思い出す。


「烏間はいつもそうだね」

「ん?」

「昔から、俺の一歩前を歩いてくれる感じ。でも先々とは行かなくて、いつもそこで待ってくれてる」


手の届く範囲で、手を差し伸べられるような。本当に近い距離で彼はいつも居てくれる。
父の時も、シェリーの時も、過去と向き合えた時も、生徒たちと彼が必ず離別をしなければならないあの時も。そして天へ旅立ち、裾や襟が切れて、砂埃を被った衣服だけが残された、あの場所に足を運んだ時だって。


「それをあの任務の時には、とても良く感じた」


三日月の下に照らされて、戦いの末に薄汚れてしまった黒い服。それを膝の上に置いたときに、もう彼は本当にこの世から、存在として居なくなってしまったんだと痛感した。
影すらもなくて、一年間、よく聞いていたあの独特な笑い声すらも聞こえてこなくて、本当に本当なんだと。夢でもなんでもないのだと、残されたたった一つの衣服からそう感じた。
当初の目的はそうであったのに、いつの間にか絆されて、いつの間にかあの日々が普通のように感じていたことも事実だ。


「今日、久しぶりにあそこに行こうか」


忙しくてなかなか行けず、きっとあそこの掃除は卒業生である彼らが定期的にしてくれているのだろう。
あそこは思い出の詰まった、彼らにとっても大切な大切な場所だから。


「花でも買っていくか。何が好きかは知らんがな」

「ふふ、きっとなんでも喜ぶよ。贈ってくれるだけでも、あいつは嬉しいんじゃないかな」

「ふ、確かに。生前のあいつも、何をやっても喜んでいたな」


お菓子でも本でも、なんならお金がないからとティッシュを揚げてティッシュ天ぷらなどという人が食べれそうもない所謂ゲテモノを生み出していた時もある。
それでも美味い美味いと言いながら食べていて、金欠で本当に何も買えませんな時には、烏間が昼のために買っておいた高菜の握りも指を咥えるようにして見ていた時もあった。
それがあんまりにも長く長く続くもんだから、彼の顔面に向けて「鬱陶しい」と言っては投げ付けた、などの話を聞いたこともある。

その中でも、甘党な気がある彼は何故だが柴崎の入れたコーヒーが好きで、暇さえあれば「柴崎先生、コーヒー入れる気ありません?」なんて。入れて欲しさ満点で見てくるあまりに、仕方なく彼も席から立ち上がり入れたこともある。

そう、過去を振り返っても思う。
何だかんだ、本当に、現場責任者とはいえ絆されていたなと。

もう彼は居ないけれど、それでも彼の姿を忘れることはない。


「今日は本当、天気が良いね」

「あぁ、外に出ても丁度いい気候だろう」


あの時の記憶も、あの日の出来事も、あの一年間の思い出も。今だって色褪せることなくずっと残っている。
だからきっと、来年も再来年も、その次の年だって。今日という日を迎えてまた思い出す。
長く短い、あの小さな教室に集った仲間と共に過ごした365日を。


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